干からびた林檎に誓って(1/5)




 オズワルドの服とバスタオルは容易く見つかった。イヴはひとまずバスタオルでオズワルドの体を包みこむ。背筋に布地が流れるとオズワルドは身を捩った。背中の傷が痛むのかもしれない。剥がされた皮膚は縫い合わされてはいるが、おそらく麻酔など用いられてはいないのだろう。拷問の痕に違いない。血の滲みが痛そうだったが包帯など手当てできるものはあたりになく、思いつく箇所といえば《The Three Muskteers》の中だ。どうしようもない事態に我慢するよう言う他なかった。
「知ってるか? ある喜劇王の言葉だが、人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇らしい」
 イヴはオズワルドの服を彼女の膝の上に放り投げた。それを取り上げようとしたオズワルドの肩がびくんと跳ねる。纏うバスタオルの隙間から腕を出して自分の股へと手を突っこむ。にょきっと手を挙げたかと思えばそこにはヒルのように身を捩らせる不気味な虫が握られていた。まだ虫が体を這っていたらしい。どうしようもなさそうな顔をして放り投げる。それを見てイヴは口元を歪ませた。
 オズワルドはバスタオルの中に衣服を取りこみながらイヴに尋ねる。
「誰があたしたちの人生を見てるの?」
「無難に答えるなら神様ってやつだな」
「神様も暇だね、どうせならあたしたちを助けてよ」
 オズワルドの表情はベール越しのように曇っていた。まだいつも通りとはいかなかった。この無邪気な娘がそんな表情でそんなことを言うものだから、イヴはほのかな口惜しさと不毛さを感じた。
「神は創造主であって、生命を助けるために存在するのではない。むしろ本当に神がいるのかさえ定かじゃないよな。何故なら神とは人類が想像したものだからだ」
「鶏が先か卵が先か、みたいな話ね」
「円に始まりはないからな」
 イヴは続け様に「話を戻そう」と言った。
「俺はこの言葉を聞いたとき、なんて馬鹿げた物言いだろうと思った。でも今はそうじゃない。とんでもない悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれることだってある。つまり、そういうことだ。オズワルド」
 名残惜しげな言いかたにオズワルドは緩く首を傾げた。覚束ない唇で「ふうん」と呟く。
「励ませれた?」
「えっ、誰を?」
「お前を」
「あたしを?」
「そうだ」
「どうだろう」
「どうなんだ」
 オズワルドは考えるそぶりをした。濡れた髪がふわりと動くとバスタオルは足元に落ちた。すっかりいつもの服を身に纏ったオズワルドが姿を見せる。履き慣れたブーツに足を突っこんでいると小さくくしゃみをした。その拍子によろけて尻もちをつく。
 イヴは溜息をついてオズワルドの手を引き立ち上がらせる。
「髪を乾かすのは帰ってからだな」
 オズワルドはきょとんとした目で繋がれた手を見遣る。イヴはこの部屋から出るために「行くぞ」と走り出した。
 迷宮のような拷問部屋を出るのは存外安易ではない。行きは洩れだしていた照明のおかげで易々と辿りつけたが帰りはどんどんと暗くなる悪魔の道だ。足元にある薄暗い灯だけが唯一の手がかりで、あとは触れることを躊躇われる壁面くらいのものだった。思ったよりも時間をかけて迷宮を抜けるとすぐにイヴが入ってきたドアが見えた。誰もいないことを確認してから二人は部屋を出る。廊下に踏み出してみると足音が反響した。看守が戻って来ることを危惧していたが二人以外ここにはいなさそうだった。
 イヴは拍子抜けしたように首を傾げた。笑い出したくもなった。そう喋る人間ではないにしろ普段よりも大人しやかなオズワルドは、ぼうっとイヴの顔を見つめている。
「ねえ、もう一人は?」
「もう一人?」
「えっと、卑弥呼」
 オズワルドが一瞬彼を忘れていたことにイヴは気づいたが、そのことには言及せずに「さあな」とだけ答えた。
 とりあえず拷問部屋エリアを出て卑弥呼のいるであろう収監エリアに足を向ける。
 暫く歩いていると収監エリアに到達する。そこで気づいたのが、牢屋の鋼鉄のドアが全て開いているということだ。続く廊下隅々まで開ききり、人っ子一人いない。ついさっき見たときはこんな状態ではなかったというのに。
 そのとき、反対側、自分たちの向かう先から一つの足音が聞こえてきた。看守だろうか。誰か一人、戻ったのかもしれない。それこそ、ジャック・ルビーが。隠れようにも隠れられるような物陰はなく、牢屋に入ろうとこの状況を見れば隈なく調べられるのは目に見えている。逆に牢に入ってしまえば袋の鼠。逃げられる可能性はゼロに近くなる。迎え撃つための武器が入ったダレスバッグは今手元にない。近づいてくる緊張の足音にイヴは身をほんの少し屈めた。
 しかしだ。
「ああ、助け出せたみてえだな。イヴ」
 曲がり角から姿を見せた足音の主は卑弥呼だった。ダレスバッグを左手で抱えながら飄々とした態度で話しかけてくる。
 イヴは姿勢を正して「卑弥呼か」と呟いた。
 経緯を知らないオズワルドはもがれた義手の肩を見て「あれ?」と漏らしていた。
「なんでこいつ濡れてるんだ?」
「色々あったんだ」
「んーまあ、だろうな」卑弥呼は少し近づいて、オズワルドの顔を見下ろした。「なんつー顔してんだよ」
 オズワルドは一つ瞬きをする。
「卑弥呼。あたし今どんな顔してるの?」
「辛気くせー顔」
 唾液がむず痒さのある甘味に変わる。オズワルドは自分の頬をぺたぺたと触ったあと、無理矢理にぎこちなく笑った。暗い目を細めただけの緩やかな笑み。卑弥呼はそれを見てなんとも言えぬ表情をする。オズワルドの頬をぐにと引っ張った。
「そんなことしなくてもいい。もう大丈夫だ」手を離さないままで卑弥呼は言う。「怖いことも痛いことも何一つだってねえ。楽しくて、わくわくすることがいっぱいあって、希望だらけの毎日なんだ。今までの嫌なことは全部終わるから、だから、もういいんだ。これからお前は幸せになれるよ」
「卑弥呼、痛いわ」
 弱々しい声でそう言うオズワルド。その主張とは逆に卑弥呼は更に強く抓った。
「痛い、痛い」
「おうおう、そりゃよかった。今のうちに痛がっとけよ。これがお前が感じる最後の痛みだ」
 頬を抓られながら歯を見せてはにかむオズワルドを見て、やられたな、とイヴ思った。けれど初めてあった日の夜に初めて見せた笑顔――懐かしい片鱗を垣間見えたことに救われたとも思った。




×/
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -