ツァドキエルの目覚め(6/6)




 そのとき、次の曲がり角の先から眩しい明かりが注いでいるのがわかった。今までが薄暗かっただけでそう明るいものではなかったが暗順応してしまった目にはやはり酷なものがあった。イヴは早足に明かりのほうへと向かう。そしてその先で目にしたのは、

 全身を塗り潰された、オズワルドの姿だった。

 舞台のように照らされた部屋の壁面。そこに凭れかかるように座らされているオズワルド。彼女を塗り潰すのは無数の黒――何千何万匹もの虫だった。
 そう、虫だ。蜘蛛でもあり、蟻でもあり、ムカデでもありゴキブリでもあり、名も知らぬ醜い虫たちが、裸に剥かれたオズワルドの白い肢体を、見えなくなるほどまでに覆い尽くしている。それも全て生きている。今もその無垢な体を悍ましく這って、あちらこちらを噛みつき齧る。細い手足が自由に肌をよじ登るのが不気味だった。長い触角が鼻の先に触れるのが底気味悪かった。
 何故ここまで虫たちがオズワルドに集るほど執着しているのかはすぐにわかった。蜜だ。オズワルドの体に濃い蜜を垂らしている。虫たちはそれにつられ、吸い寄せられるのだ。
 そのグロテスクな様は地獄絵図にも似ている。これは虫責めだ。拷問の一種であり、精神的ショックのレベルでは他と一線を画すこともある。耳や鼻や膣の中から内部に入り、そのまま住みついてしまうこともあるほどの 悍ましい拷問法だった。
 イヴは思わず口元を押さえた。胃の中にあるものを全て吐き出しそうになった。
 二十二年間生きてきて、今日この瞬間以上に、痛みを感じるほどの熱い哀れみを抱いたことが、未だかつてあっただろうか。
 彼女の周りでいつ穢してやろうかとのたうち回る虫たちが憎らしかった。彼女は俯いたままじっと動かない。丸い肩も柔らかい頬も、余すところなく埋めつくす黒は、生理的な嫌忌を生む。
 あたりを見回した。虫責めをするくらいなのだから、そのあとの処理方法もなにかあるはずだ。焦りで見落とさないように探し回っていると、壁にいくつかのレバーがあるのがわかった。この部屋を管理するためのコントローラーらしい。イヴはそのうちの一つのレバーを勢いよく倒す。
 すると、オズワルドの頭上から凄まじい水圧のスプリンクラーが垂直に降り注いだ。その水は都合よくオズワルドの体から虫を分離させ、蜜を洗い流す。水に浮かされた虫たちは暫く床を流れ、点字ブロックのようにあたりを這っていた排水溝に流されていく。
 残されたのはぐったりと壁に凭れかかる裸のままのオズワルド。
 イヴは強く息を呑んで駆け寄った。
「オズワルド」
 しゃがみこんでオズワルドの体を揺らす。長い黒髪のおかげで胸元は隠れているものの、目のやり場の困る格好であるのは確かだった。だが、そんな遠慮もしてられないのは確実だ。
 白い腹や肩に古傷が犇めいているのが痛々しい。柔らかそうな太腿には痣のような切り傷が蔓延っている。ふと、オズワルドの肌を伝っていく滴がピンクに色づいているのがわかった。ピンクというよりは、赤だ。それはオズワルドの背中から、滲むように広がる。
 肩を寄せて背中を見遣る。イヴは言葉を失った。
 その背には真新しい縫い痕があった。一度背中の皮膚を剥がされ、また縫い合わされたような痛々しい痕。抜糸はまだのようで、赤い糸と皮膚の間に蟻が埋もれている。それを払っていくと、濡れた髪の中から紛れるようにムカデが出てきた。首筋には朱い噛み痕も見られる。その柔らかな首を這う罪深さに怖気がした。イヴは舌打ちをしてそのムカデを放り投げた。
 もう一度オズワルドの顔を見る。ごっそりと表情は抜け落ちて、見るに耐えない、絶望的な顔を湛えていた。無垢な瞳は濁って光を宿さない。イヴのことにも気づいていないのか呆然として、痛みに顔を歪めることも不快に声を発することもなかった。
 ヴァルネラビリティの加護を受けた少女は人形のようだ。心臓は冷えて空っぽで、目に見える悪夢に犯されている。
 全身全霊で語っていた。絶対に希望はないと。希いの筋も許されぬと。
「……オズワルド、オズワルド」
 必死な思いで呼びかけを続ける。
 もはや、彼女が息をしているだけで安堵できたくらいだった。
「オズワルド。俺だ。オズワルド」
 深い深い眠りから覚めたように、とうに開いていた眼がイヴを捉える。いつもよりぼんやりとしていて、まるで盲目的だった。
「……おにーさん、だれ?」
 弱々しい呟きが小さな口から漏れ出す。
 イヴは痛々しそうに苦笑して、オズワルドの顔を見上げた。
「忘れたのか」
「忘れてないよ、思い出せないだけなの」
「イヴ」
「なにそれ」
「俺の名前だ」
「イヴ」ゆっくりと、唇からこぼれ落ちるように呟く。「……ああ、そっか、イヴだ。イヴ。あたしのナマコだ」
 イヴはオズワルドを見つめたまま苦笑を浮かべた。こうやって返事をしてくれたことに安堵したのだ。
 けれど、いつもの彼女ではない。無垢さは、無邪気さは、赤く強い毒で蝕まれてしまっている。
 それがたまらなく嫌で、イヴはオズワルドへの語りかけを続けた。
「そうだよ、お前の仲間だよ。俺以外にもいるだろう、お前の仲間が。そいつのことも忘れたのか?」
 オズワルドは悪い意味で表情を変えない。ただ瞼を落として首を振る。
「ごめん……」 震える唇が苦しそうに吐息した。「ごめんね、思い出せない」
 哀れな涙が頬を伝う。いつも食いつきのいい健気な心が痛んでいる様を見るのは辛かった。
「目の前が、痛いくらい真っ赤で……あの日曜日しか、もう思い出せない」
 カレンダーに規律よく並ぶ赤い数字――日曜日は、オズワルドの番だった。
 十六年間の記憶は次々と消え、思い出したくもない日々だけが鮮明になっていく。全てが真っ赤だった。赤い悪夢だった。
 嫌なことはなんだってされた。痛いことも、苦しいことも。皮膚を少しずつ剥かれたことも、汚物を食べさせられたこともあった。思いつくかぎりの怖いことは全部味わってきた。そしてそれらはオズワルドの視界を塞ぐ。赤色に輝いて、今日これからがどういう日かを、思い知らせるのだ。
 イヴはオズワルドの涙を親指で拭った。それから穏やかな声で「そういえば」と切り出す。
「日曜日だったな」
「……え?」
「俺とお前が仲間になった日だ。あれは日曜日だった」赤よりもひたむきな青い瞳が、優しげにオズワルドを見つめる。「朝っぱらから新聞をばら撒いて、恥ずかしげもなく大声を出して、それから俺たちは仲間になったんだ」
 今でもあのときの高揚を覚えている。
 血潮が騒ぎ出して、心臓が高鳴っていた。
 そして同時に安堵したのだ。
 朝日のきらめきのなかで確信を覚えたのだ。
 これから二人は、一緒に生きていくのだと。
「なかま……」
 オズワルドの唇がようやっとそれを紡いだとき、イヴは安らかに微笑んだ。
「いいんだ。大丈夫だよ。思い出すのは日曜日だけでいい。それは俺たちが共に生き始めた日なんだ。なにを嘆くことがある。思い出せばいいんだ。俺という、お前の仲間がいることを」
 オズワルドが目を瞬かせる。潤んだ瞳がそこで初めてイヴを捉えた。たった一日会わなかっただけなのになんという懐かしさか。無邪気な瞳が躊躇いもなく自分を見据えてくれることのなんという心地よさか。
 それでもか細い声で「でも、あたしね」と唇を噛みしめるオズワルドにイヴは「いいんだ」と続ける。
「仲間がいても、怖いものが消えないなら、怖がったままでいい。怖がるな、なんて言葉で全てが解決するなんて思っちゃいないさ」
 イヴはオズワルドの隣に座りこんで震える手を握った。そして虚空を見上げ、溜息のリズムで口遊む。
「そうだ、怖い。世界は怖いものだらけなんだ。嫌だな」
 オズワルドは手を握り返した。
 イヴは更に手に力をこめる。
「……怖い」
「ああ、怖いな」
「痛いのは、怖い」
「そうだな」
「怖い、怖いのはやだ、赤いのも痛いのも死ぬのも寂しいのも、全部やだ、怖いよ」
「お前は怖いものだらけだな」
 イヴは肩を震わせて苦笑した。オズワルドは涙の浮かぶ瞳でイヴの横顔を見つめる。
「そうみたい。怖くなくなるまで、一緒にいてくれる?」
「もちろん。俺はお前の仲間だからな」
 イヴもオズワルドへと視線を移した。魔法にかかったかのように、青と黒の瞳が交錯する。本当に、今日は懐かしい感覚にばかり陥る。
 なにも纏わないままのオズワルドは楽園に住む人類のようで、だとしたらイヴはなんだろう。衣服を纏うだけの知恵をつけた――蛇だとでもいうのだろうか。誑かすことに長けた蛇。
 今があの日の懐古なら、そういうのもありかもしれない。
 イヴは立ち上がってオズワルドを見下ろす。
「オズワルド、ここから出るぞ」
「いいよ」
「それと、復讐もするぞ」
「復讐?」オズワルドは首を傾げる。「怖くて痛いのはだめよ」
 イヴは呆れに眉を濁らせた。それでもそれが彼女の望みというのだから仕方のないことなのだ。
「怖くも痛くもない。ただ、知ってもらうだけだ」
「知ってもらう?」
「そうだ。俺のこと、お前のこと、この国のこと。今度こそ。人類全員にな」
 けれど、結局は、この台詞になるらしい。
 先に誑かしてきたのは目の前の娘のほうなのだからどうしようもない。イヴはあれ以上の口説き文句を聞いたことがなかった。これ以降も、きっと聞くことはないだろう。
 アクメさえも感じた挑発的な言葉は、世紀末の預言通りに舞い降りる。
「失楽園、してやろう」




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