ツァドキエルの目覚め(5/6)




「……とりあえず、拷問部屋エリアに行ってみよう。ここにいないとすればあとはそこくらいのものだ」
 いよいよイヴの嫌な考えが的中しそうだった。拷問部屋。そこにいるオズワルドがどんな姿でいるか想像するのは陰鬱で億劫だった。血まみれでいることすらあり得るのだ。隣ではジャックが鞭を振るっているかもしれない。囚われた少女は無邪気な顔を、どれほど歪ませていることか。
「懸念があるって顔だな」
 卑弥呼は言った。イヴは微妙そうな表情を浮かべて返す。
「そろそろ監視員が戻ってくる頃だろう。いつまでも野次馬なんてやってられない。じきにここは人が行き交う。悠長に探すことも、見つけたとしても戻ることもできない」
 卑弥呼は「なるほど」と呟いた。しかし数秒後に「だったら」と強気な声でイヴに提案する。
「だったら俺に任せろ」
「考えがあるのか」
「なかったら言ってねえよ」卑弥呼は心外そうに呆れ顔をした。「ちょっと仕掛けてくるから、お前は先にオズワルドを迎えに行ってくれ」
「待て。そういうことなら俺も」「怖いのか?」
 攻撃的でないにしろどちらかといえば苛烈な眼差しがイヴに向けられる。その漆黒しい瞳が見透かすように自分を見ていることを、イヴは諦めのように受け入れていた。思えば卑弥呼はイヴよりも年上なのだ。彼も今の自分のことを子供のように見ているのかと思うと、イヴはもう笑うしかなかった。
「……そうだな、怖いよ」
「なにが怖い」
「笑われるから言いたくないな」
「笑われるようなことが怖いのか」
 そこで卑弥呼はにやりと笑った。イヴは困ったように視線を逸らして、ゆっくりと、確かめるように言う。
「見ることが、怖い。確かめることが怖い。知ってしまうことが怖いんだ。この俺がだ」
 彼は殻に覆われた生命の神秘の類をこよなく愛する青年だった。林檎一つ分を買えるだけの銀貨よりも、すっかり果肉のなくなってしまった芯だけの林檎のほうが、よっぽど貴重で魅力的だと思っていた。手段よりも体裁よりも、あるがままの真実を選ぶ彼が、その真実を恐れている。
「それって、仲間かどうかを確かめることがが? それとも、あいつのことを知ることが?」
「全部」
「知りたがりのイヴがか」
「ああ」
「まあ……そういうことくらいあんだろ」
「そういうことって?」
「こういうことだよ」
「こういうことって?」
「あいつみたいな喋りかたすんじゃねえよバーカ」イヴの頭をコツンと小突く。「言っとくけど、俺があいつを助けに行ったところで、それは全然救ったことにならねえんだと思うぜ。絶対だ。自慢じゃないが、俺は、お前が思ってるより、あいつに仲間だと思ってもらってねえんだよ」
「本当に自慢じゃないな」
「うるせえ。とにかく聞け」卑弥呼は続ける。「あのな、イヴ。残念なことに、世の中怖いものだらけだよ。お前も知ってのとおり、そりゃもう簡単に裏切られるし、全てを失くすのなんて歯痒いほどだよ。だけど実は、怖いことなんて一瞬で終わるものなんだ」
 卑弥呼は思い返すように彼方を見ていた。瑕疵の一つもない、清廉なままの、満たされた人間は、この場にはいなかった。
「俺が“ダストシュート”に乗りこんだときもそうだった。お前は細工を仕掛けた本人だからわかんねえかもしんねえだろうが、今から自殺するんだってあのドアを開けるのは、本当に辛い一瞬だった。一瞬だったんだ。そんなもんだ」
「だから、耐えろって?」
「違う。乗り越えろ」卑弥呼は眇める。「つーか、ここまで来たらいっそ知らねえほうが怖いんじゃねえの? それでも、もし、怖くて足が竦むんなら、帰ったほうがいい。タクシーでも拾ってな」
 卑弥呼はポケットから銀貨を取り出してイヴへと投げた。銀貨は千切れた義手、イヴの蒼眼、不吉なドアを映して、イヴの手へと収まる。イヴはその銀貨を見ていつかのことを思い出した。
「……たとえお金を持ってたって、相手にしてくれないだろうな」
 卑弥呼も、意地の悪いことを言う。けれど、憎らしいほど的当たりな鼓舞だった。気持ちが変わったわけじゃない。自分は、れっきとして、オズワルドを助けたいと思っている。
 イヴは親指で弾くようにして銀貨を卑弥呼へと返す。それから肩を竦めて「悪い」と呟いた。
「さっきまでのはすべて妄言だ。ここのことは、お前に任せた」
「しょうがねえから任されてやるよ」
 なにをするかはわからないが卑弥呼がここまで自信を持って言うのだから間違いはないのだろう。片腕を失くしたというのにこれほど頼もしいとは。イヴは卑弥呼の背を見送り、暫くしてから歩み出す。
 向かうのは拷問部屋エリア。ここから数十メートルほどのところだった。
 《The Three Muskteers》を突っこませたのは思ったよりも威力とインパクトがあったらしい。気が抜けるほどに人がいない。区画された拷問部屋からは鞭打ちの音も喘鳴も聞こえてこない。ただ半開きになった扉から漏れる泣き声や揺れる鎖の音から、拷問途中だった囚人は置き去られていることがわかった。
 つまり、オズワルドも一人でいる可能性がある。これは幸いだ。そばにジャックがいないのであればすぐに助けることは可能だし、大怪我をしていても手当をしてやれる。
 自然とイヴの歩調は早まった。一つ一つの部屋の窓を確認しながらオズワルドを探す。
 しかし、探せども探せどもオズワルドは見つからない。部屋にも限りがあるのだ。そろそろ見つかってもいいころだというのに。もしやガス室送りになったか。それともイヴの見立て違いで、ヘルヘイム収容所にはいないのか。焦りによる冷や汗が背筋を這った。
 そのときだ。
 妙に甘ったるい、甘ったるいが不気味な、そんな匂いが鼻孔を突いた。
 気のせいなんかじゃない。この薄暗い収容所に不釣り合いな匂いが漂っている。それも近くだ。花の蜜に誘われる蝶のように、イヴはその香のあとを追った。
 拷問部屋エリア内だった。それも近い。自分から向かっているというのに、まるで不吉の足音が近づいてきているかのようだった。この胸騒ぎは一体なんなのか。イヴには卑弥呼のような天性の占術は持ち合わせていないのに。胸騒ぎのせいか、数か月前に見た収容所となにかが違って見える。目には知性がある。たとえ同じように見えたとしても直感的になにかが違うと直観してくれる。今は、まさしく、それだ。
 嫌なものが、イヴを待ち受けているのがわかった。
 辿りついたのは一際大きな拷問部屋の扉。ドアは少しだけ開いている。噎せ返るような甘い芳香が泳ぐように流れていた。
 イヴはドアを押して中へと一歩踏み出す。
 普通の部屋よりもずっと広く、オペラホールのように天井が高い。灯りをほとんどつけていない暗さは相当で、地獄の闇が広がってるのではないかと嘲笑うほどだった。
「オズワルド、いるか?」
 イヴは囁くように言った。たったそれだけで声は容易く反響した。
 もう一歩踏み出してオズワルドを探す。
 どうやら迷路のようになっているらしく、薄く煌めく足元の光だけを頼りに壁伝いに歩いていく。曲がり角がいくつもあった。奥へと進むたびに甘い香りが強くなる。ふと、自分の手にカサカサとなにかが這う感覚がした。気味の悪さに反射で肩を跳ねさせる。ゆっくりと手を足元の光にやると、手の甲で二匹の蜘蛛が威勢よく跳ねていた。すぐに払い退ける。眉間には皺が寄っていた。
 一匹なら、一匹だけならまだわかる。一匹の蜘蛛がたまたま壁を這うことなんてなんら不思議なことじゃない。だが、一度に二匹も手に掠めるのは奇妙だ。自分に触れていないだけで、まだ壁には無数の蜘蛛が這っているのではないかという錯覚に陥る。





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