02


 このあたりは道幅が些か狭いため車の通りが少なく、どちらかと言えば自転車や歩行者などとすれ違うことが多い。しかし、いつも早めに家を出ているため、登校時はそのすれ違いと落ち合ったことなど俺にはないのだが、それは遅刻したはずの今日も変わらないことだった。多分時刻が遅すぎて逆に人通りが少なくなったんだと思う。
 これはやばい、と俺は冷や汗を掻いた。
 学校までは、徒歩なら二十分。自転車なら十分。バスを使えば四十分。最短時刻で到着する自転車を用いているのだから、心に余裕が生まれないと言えば嘘になるが、なにぶん俺は遅刻をほとんどしたことがないため、数分の遅れすら恐怖の対象に成りえた。
 一体どこまでが許される範囲なのか。
 遅刻したら一体どうなってしまうのか。
 未知が生むわくわく感と焦燥感をおんぶに抱っこしながら、俺は懸命にペダルを漕ぎ続けた。
 景色は小気味よく移ろいで背後へと流れていく。通りがかりの家の塀からはディオスピロスの実が零れ出ている。灰色の地に赤朱色の絵の具が緑の紙吹雪とともに弾け飛んだみたいだった。空は酷く健康的な色をしている。雲は千切れたみたいにぽつぽつと浮かんでいた。
 凍えて硬質になった空気を吸って、そしてまた吐く。視界が白くぼやけた。しかしそれもすぐに溶けて流れていく。
 誰も育ててなさそうな荒れ地めいた畑を過ぎ、小さなビルディングを二階とも占拠している画材屋、見た目と味以外はほぼ理想のラーメンが食べれると噂の中華飯店の脇を通り、いくつめかの信号を超えたとき。
「あ」
 俺は見知った後ろ姿を視界の端に留めた。最後に会ったときとは違い、アイボリーカラーのカーディガンを着ている。首にはトマトレッドとクリームのボーダー柄のマフラー。こちらも見かけなかった代物だ。流石の奴も、この寒さに恐れをなしたに違いない。
 その後姿は、俺と同じ学校のセーラー服を着た女子のものだ。バレリーナのように背筋を吊り上げた優美な身のこなし。スカートとハイソックスの間から見えている足は、血が通っていないのかと疑うほどにまで青白い。つやつやとした髪は背中に流されて風が吹くたびにそよいでいる。防寒具によってシルエットが多少変わったとしても、わからないわけがなかった。
 俺に、わからないわけがなかった。
 間違いない。
 口虚絵空だ。
「おぉお」
 口虚は、振り向く。まるで俺がいるのをわかっていたみたいに。俺は自転車を失速させて、口虚の前に着いた。
「うふふふ、ふふっ、えへへへ、やっぱりだ」
「なんだよ、気持ち悪いな」
「ふふふふ。やっぱり正義だったね。おはよう。今日も素敵な一日になりそうだね。生きているだけでこうして君に会えるんだ、なんて素敵な魔法なんだろう」
 そう言って口虚は柔く煌くような笑みを見せた。
 ああ、久しぶりだ。
 こいつの顔を見るのは。
「よくわかったな、俺がいるの」
「なんの。ちょっとした熱視線を感じたものでね」
「そんな視線を送った覚えはない」
「おやおや? 誰も君からの熱視線だとは言っていないのだけれど」
 にんまりと薄く唇を吊り上げて、悪戯っぽく笑んだ口虚。こういう嫌らしい顔も久しぶりだな。
 俺が眉を潜めて睨みつけると「怖い怖い」と肩を竦めて見せた。全く怖れていないような余裕の態度だ。
「それにしても珍しいね。本真正義ともあろう者が始業式に遅刻寸前だなんて。呵々大笑の抱腹絶倒。どんなお茶目さんなんだい?」
「そういうお前も遅刻だろ」
 まあ、口虚は基本的には遅れて登校するタイプの人間だが。
「ほらほら正義、私を自転車に乗せておくれよ。君の言う通り遅刻しそうなんだ」
「俺もだ。お前を乗せて失速している暇なんてない」
「一介の女子に向かって酷いことを言う。女子の体重は林檎三つ分と相場が決まっているんだよ」
「つまり適度なスピードで飛ばされかねないってことか? それは大変だな。そんな危険に一介の女子を晒すわけにはいかない。じゃあまた、学校で会おう」
「待ってよ!」
 ペダルを一漕ぎしてその場を立ち去ろうとすると、そうはさせまいと、奴は俺の自転車のブレーキを強く握った。慣性の法則。妙な振動とともに俺は一時停止を強いられてペダルから足を踏み外した。足首にペダルがぶつかる。低く悲鳴をあげたあと、未だブレーキを握る口虚に目を遣った。気まずげに口元をゆるゆるさせながら俺を見つめている。その無邪気そうな瞳が映し出す意味は大丈夫?≠ノ違いない。そして答えは勿論決まっている。
 全然大丈夫じゃない。
 主にお前のせいで。
「正義、急いては事を仕損じるらしいよ」
「お前だってちょっと慌ててただろうが」
「静粛に。とりあえず、君には私を乗せる権利があるんだ」
「義務はないんだな。さらばだ」
「待てったら!」
 また一つペダルを踏み込むが、勿論ブレーキは奴が握ったままだった。微妙に振動しただけで、前進する様子はこれっぽっちも見せない。無駄無意味もいいところである。
 くそ。
 折角委員長を辞めたって言うのに。
 またこういうハメになるのか。
 面倒ではた迷惑な女だ。
 俺は小さく頭を掻いて溜息をつく。
「わかった、もういい」
「ほう、賢明だな、私を乗せる気になったのか」
「そんなわけないだろう。そんなおぞましい行為はしない」
「まるで私と密着するのが嫌だと含んでいるかのような発言だね」
「含ませたんだ、わからなかったのか?」
 俺はそう言ったあと、サドルから降りた。口虚の隣に立つ。
 俺はもう、抵抗を放棄した。さっきまで遅刻なんかしてなるものかと必死に喘いでいたが、その全てに目を伏せて、母さんよろしくヤンチー≠ノ従事することを決意したというわけである。隣にいる奴も遅刻には寛容なようだし、共に遅刻の罪を犯すことには賛成してくれるだろう。
 まったく、冬休み気分がまだ抜けないのか、俺もワルになってしまったみたいだ。実に遺憾である。
 俺は奴の歩調に合わせ、歩みのスピードを落とす。その一連の行為に、奴は真ん丸と目を見開かせた。まるで期待していなかったプレゼントを貰えた子供のような、そんな表情。
 奴は「えっ」と、吐息のようにかすかな声で呟いた。俺は「なんだ」と返す。俺は自転車を押しながら歩く。奴も暫くはぽかーんと間抜けな顔をしていたが、すぐに俺の隣へと肩を並べる。途端、奴の匂いで胸がいっぱいになった。ムスクともフローラルとも違う、理想郷のような甘美な匂い。奴は芳しながら、じっと俺を見つめている。その眼差しには疑問が付与されていた。ゆっくりと口を開けて、言葉を紡ぐ。
「……一体どうしたのかな」
「なにが」
「正義が優しい」
 俺は眉を寄せて目を細めた。その反応に口虚は両手の平を見せながら「訂正」と短く呟く。
「正義が優しいのはいつものことだったね、すまない、謝るよ。私が言いたいのはそういうことじゃないんだ」
 口虚は相変わらずの眼差しだった。初めてガジュマルの木を見た人間のような眼差し。
「だったらどういうことなんだ、口虚」
「うん、なんと言えばよいのやら。あのね、ただ、びっくりしたんだよ」
 幸せそうに、苦笑して。
「正義が、私に、優しいなんて」
 俺は言葉を返そうとして、でもそれは言葉にはなれず、喉元で絡まったまま胃の中へストンと落ちていった。
「嬉しいよ、正義」
 そんな苦笑を見せる口虚。
 ああ、もう。
 勘弁してくれ。
 さっきの奴の言葉に、俺は心底同情した。同情出来る立場でも同情する場合でも同情すべき合理でもないのに。俺が自ら奴の隣に立つ――――たったそれだけで、そんな他愛もない行為だけで、なんで、人生が薔薇色になったかのような、幸せそうな顔をするんだ。
 嫌だった。こんな気分になりたくなかった。奴に対して、申し訳ないようなそんな気分に、なりたくなんてなかった。
 俺はなんとか話を逸らしたくて、すると意思は先行するかのように、無意識に奴から視線を逸らしていた。直視していないだけで、状況はやはりなにも変わってなどいない。どうにかしてこの感情を払拭したくて、全く関係のない話を奴に振ることにした。
「自分が知っている漢字の中で読みが一番長いヤツってなに?」
「ひさしくなおらないやまい=v
「おい、今のはなんだ」
 正直承る≠竍慮る≠たりが出てくると思っていたのに。
 意外性の高い言葉を耳が拾い、それに信じられないという意思を込めて、俺は訝しげに目を細めさせた。




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