ブリキの心臓 | ナノ

1


 昨日の今日だ、流石に《オズ》へと行ったほうがいいだろう。
 アイジーは、ミルククリームのようにどろついた足をようよう動かして、黄色い石畳の坂道を登っていた。じわじわと暑さも目立ってきた時期のこの坂道は険しい。白い日傘を差しながら、アイジーはスイカズラの匂いの向こうへと突き進んでいく。
 結局、なんやかんやでここに舞い戻って来てしまった。本当にこのままでいいのかと悶々としながら、アイジーは歩みを止めなかった。誕生日の夜、エイーゼは自分のために死なないでほしいと、アイジーに言ったのだ。だったら今のままが最善に違いない。言い聞かせるようにそう呟いた。
「……お、おはよう、アイジー」
 ふと軽やかな声に名前を呼ばれて、アイジーは振り向いた。そこにはショートカットにした滑らかなブロンドが目を引く、リザベラ=クライトが立っている。静かな青の瞳が悩ましげにアイジーを見つめていた。まさか彼女に声をかけられるとは思ってもみなかった。アイジーは少し緊張したまま「おはよう、リジー」と声を返す。
「貴女が、朝からここにいるなんて、珍しいわね……」
「えっと、うん。まあ今日は学校ないしね」
「そう……」会話を続けるべきかと悩んだが、アイジーは思い切って口を切る。「今日はスタンと一緒じゃないのね? なんだか、珍しいわ」
 すると、リジーはきょとんとした風に目を見開く。途端にくすくすと楽しげな微笑をあげて「スタンは家の手伝いだよ」と返した。アイジーは怖ず怖ずと「なにを笑っているの?」と問う。
「だって、だってアイジー……まるで私をスタンの付属品みたいに、不思議そうに尋ねて……! 私とスタンはそんなにずっと一緒にいるわけじゃないんだもん。ただの従兄弟だしね」
「従兄弟だったの?」
「うん。スタンのお父さんが、私のお父さんのお兄さん。まあ、私とスタンは同い年なんだけどね」
 よくよく考えてみると案外そうなのかもしれない。どちらかと言えば、リジーはどこのコミュニティーでもやっていけるタイプの人間だ。ユルヒェヨンカやブランチェスタと一緒にいるときもあれば、シオンやスタンなど男の子と一緒にいるときもある。面倒見がよく、爽やか且つ理性的な性格が現れているのだろう。どこにも馴染みやすい彼女は小鳥のように、そして不自然さのかけらもなく、各地に溶けこんでいた。一方のスタンは、割と一人でいるタイプだ。性格がどうの、ではなく、ただ単に周りと時間が合わない――ブランチェスタタイプ。誰かといるのを見かけるときの大抵はリジーかシオンだった。そう、大抵はリジーといる、というだけで、いつもリジーといるわけではないのだ。
「リジーとスタンとシオンは同い年なのよね?」
「そうだね。アイジーはたしか、ユルヒェヨンカやブランチェスタと同い年でしょ?」
「ええ」実を言えば、知らなかった。「リジーはよく把握してるのね」
「そうかな、そうでもないと思うよ」
「あーら、私、自分の年齢を打ち明けてないのに人に当てられたのは初めてよ」
 おどけて返したアイジーにリジーはぎこちなく笑みを返す。なにかを言い出そうとしているようなそんなそぶりだった――そしてタイミングを掴めずに四苦八苦しているような。
 そういえば、リジーはどうして自分に話し掛けてきたんだろう。これといって仲がいいわけでも悪いわけでもない。ほとんど喋ることのない彼女。交流会以来、会話という会話もなく、精々会釈する程度の間柄だったのに。そんな考えに耽っていると、リジーは控え目な声で「あのね、アイジー」と弱く口を開いた。アイジーは首を傾げる。
「一昨日は、ごめん」
「……えっ?」
「私、本当に酷い人間だった」
 一昨日、という言葉にアイジーは眉を弛ませる。あの冷たい眼差しや言葉を思い出すと無意識のうちに唇は歪んだ。それを見たリジーが一つ強く「ごめんなさい」と言う。
「私は君に、冷たい態度を取った。きっと、その、親切心で言ってくれた君に……」
「どうしてリジーが謝るの? 貴女は、なんにもしてないじゃない」
 記憶が正しければリジーはなにもしなかった。アイジーに冷たい眼差しを向けることも、クスクスとせせら笑うことも、嫌悪の言葉を投げかけることもしなかった。リジーはアイジーに、なにもしていない。
「うん、そうだね……私はなにもしなかった」
「だったら……」
「庇うことすら、しなかった」
 その言葉にアイジーは黙りこむ。
「あのとき私は、君を庇うべきだったんだ。君の言葉に感謝して……みんなの誤解を解くべきだった。でも、結局、私はなんにもできなかった。怖かった……のかな、よくわからないけど、私は……君を詰ることも、助けることも、なにもしない、ずるいくらいな安全圏にいて、君を眺めてた」
「…………」
「それを謝りたくて、でも、君は昨日ここにいなかったよね。だから、今日になっちゃった……スタンも、アイジーに謝りたいって、言ってた」一つ置いて。「本当にごめんなさい」リジーは悲しげに言った。苦渋に満ちた顔だった。
 アイジーは正直、なんと返すか答えかねていた。
 リジーの謝罪はお門違いというか、無意味なものだとすら思っていた。まず第一に、アイジーは、彼女が自分に謝らなければいけないようなことをしたとさえも思っていない。彼女があの場にいたことを完全に忘れていたし、再度繰り返すが彼女はアイジーになにもしなかった。恨みはない。ユルヒェヨンカなどに至っては、あの状況や空気すら理解していないような表情だったのだ。暢気も暢気である。それなのに、リジーは今でもそれを引きずっている。悪いことなどしていないのに。むしろ、当たり前の対応だったろう。あんな局面で――事実とは違ったとしても“原始の石頭”様だと評判のアイジーを、仲のいい友人たちから庇うなんて、誰がするとも思えない。よくも知らぬ貴族の知り合いとよく喋る友人、天秤にかけたときにどちらに転ぶかなんて火を見るよりも明らかだ。今後の円滑な友人関係に支障を来たしかねない。リジーは自身の立場として、当たり前の保身をしたにすぎないのだ。
 それでも――彼女は、それが罪深いと、情け容赦のない残忍な仕打ちだったと、今こうしてアイジーに詫びている。
 アイジーは肩を竦めた。なんだかこっちが申し訳ないような気持ちになってしまう。
「謝っても許されるようなことじゃないのはわかってる。私は酷かった。いきすぎた言葉を咎められなかった。君を追いかけて、フォローすることさえしなかった。むしろ、多分、私は……ずるいことに」何度も何度も渋るように、慎重な口調で言う。「アイジーに許されなくてもいいとすら思ってる」
「……え?」
 その言葉に、流石のアイジーも目を見開く。これは、厭味の類なのだろうか。そう思っていると早々にリジーは次なる言葉を紡いだ。
「君に思いっきり詰られたいとすら思ってる。貶されたいって、冷たくあしらわれたいって。許されることのほうが、怖い。むしろ私を恨んでくれた方がすっきりするし、楽になれるから。後ろめたさも何もないまま、過ごしていけるから……」
 アイジーリジーのブルーの瞳を見つめる。ひたすらに真っ直ぐだった。
 彼女は言った。
 責められないことが辛い、と。
 潔くて、ひたむきで、美しい。まるで白鳥の羽根のような人間だとアイジーは思った。
「貴女って、誠実な人間なのね」
 そう思った途端、口からぽろっと本音が漏れ出した。ほとんど反射のようなものだ。アイジーは自分自身に唖然としてしまう。
 そして、同じく唖然としているリジーは、わかりやすく口をぽかんと開けた。目はほんのりと疑いの眼差しに満ちている。今にも“私の話聞いてた?”と突っかかってきそうな雰囲気はアイジーを刺激する。アイジーは取り繕うかのように「あっ、あのね」と切り出した。


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