ブリキの心臓 | ナノ

1


 アイジーはなにも知らない少女だ。

 家の中だけが自分の世界で、あとは時間が経てば模様を変えるだけの高い高い空が知る限りの天井だった。
 自分が住んでいる街の名前くらいなら知っている。アイソーポスという薄瑠璃色の石畳が目立つ街だ。しかし、庶民の街というグリムには行ったことがないし、オーザが“野蛮人”と嘲笑っている職人の街・アンデルセンなど、口に出すことすらイズから許されていない。
 それでもアンデルセンは素晴らしい場所だと、幼いながらの感性でアイジーは憧れていた。父親の仕事仲間らしき人がエイーゼとアイジーに贈り物をくれたことがある。それは溶けない氷を作る箱で、箱にあるブロックの中に水と花を入れて冷やすと、それがまるで硝子ケースに閉じ込められたプリザーブドフラワーのように凍るのだ。壊さない限り何度でも使えることから、アイジーはこれをいたく気に入っていた。こんな素晴らしいものを作り出す職人たちが集まる街――アンデルセン――アイジーの夢は否が応でも膨らんでいく。
 しかし、オーザやイズはその職人たちの手がける全てを“野蛮人の知恵”と言って蔑んでいる。
 わけがわからなかった。
 この魔法のような機器の数々を見て、どうしてそんな酷いことが言えるのだろう。
 絵本のようにいつのまにか耳にしていたその話の限りでは――地を走る鉄の馬車、キラキラとオーロラ色に色を変えるジュース、空を飛べる靴、動く絵画や写真、ボールのように遊べる花火、喋る時計、人が映る大きな箱、遠く離れた場所でも声が届くという筒――どれを聞いても感嘆の息しか漏らせない。素晴らしい技術だ。素晴らしい知恵だ。彼等は野蛮人などではない、言うなれば芸術家であり、そして魔術師だ。
 しかし、オーザはその数々を認めることなく侮蔑し、野蛮人の知恵を贈ってきた人に対して冷罵もした。もう二度と屋敷に来るなとどやして、アイジーたちから贈り物を奪い焼き捨てようとした。エイーゼはもうすっかり父親の言う通りにしてしまったが、アイジーは必死に抵抗した。その抵抗も絶対に無駄に終わると思ったが、オーザは渋々了承しアイジーにそれを返す。辛酸を舐めるのはいつもエイーゼだ、こんなことならエイーゼも抵抗すればよかったと思ったが、尊敬する父親を困らせるのもとそのことを忘れることにした。
 オーザはアイジーに甘い。おねだりをされればなんでも望みを叶えてみせたし、お願いをされればなんでも許してくれた。隣でエイーゼがコワモテの教育書を読んでいるとき、アイジーはオーザのくれた飛び出す絵本をゆるりと眺めていたものだ。悪いことをして真っ先に怒られるのはエイーゼだが、イズもオーザもアイジーには寛大だった。
 えこ贔屓だと憤慨したものだが、エイーゼにも気づいたことがある。
 どんなおねだりを叶えても、どんなお願いを受け入れても、両親は頑なに、アイジーを家から出さなかった。どんなパーティーがあってもどんな祭典が催されても、アイジーを屋敷の敷地内から出すのを拒んでいた。
 シフォンドハーゲン家の敷地は巨大だ。屋敷はお城と言っても申し分ない出で立ちをしていて、一日あっても屋敷中を巡りきることなど出来ないだろう。しかし、どんなに家が巨大だとしても、それは世界と比べれば、実にちんけなことをエイーゼは知っている。両親はアイジーを家から出さないどころか、家族と召使い以外の人間に会うことさえも拒んだ。パーティーなどの社交界に赴かないせいで、シフォンドハーゲン家の子供はエイーゼしかいないと思われているフシがある。
 誰もエイーゼの双子の妹のことなど知らない。
 そして、双子の妹ことアイジーも、なにも知らない。
 彼女はあくまで無知であり、そしてそれでも満たされていた。
「パーティーに行けなくてもかまいやしないわ。それよりエイーゼ、貴方たちが出かけている間にあのストロベリークーヘンを食べてもいいかしら?」
「上に乗ったラズベリーチョコは僕のだからな」
 今夜もまた、アイジーを一人家に置き去りにして、エイーゼとオーザとイズはパーティーへ向かう。いつもよりもぴっしりとした服で着飾って、アイジーの知らない世界でクリスタルのシャンデリアの光を浴びてくるのだ。
 アイジーも来ればいいのに、とエイーゼは思っていた。エイーゼと同じくらいに着飾ったアイジーは素晴らしい待遇を受けるだろう。そのシルバーブロンドを誰もが褒めたたえ、くすんだスミレ色の目に誰もが夢中になる。愛らしく美しいこの妹は一気に注目の的となって、誰もがアイジーをダンスに誘うだろう。けれど、アイジーはその全てを拒絶して、私はエイーゼと踊るの、とエイーゼに手を差し延べるに違いない。ひらりと花のようにアイジーを回してあげて、豊かな曲に合わせてリードしてやるのだ。疲れたというのならダンスを辞めて、レモネードでも取りに行ってやればいい。万一にも疲れることはないだろう――身体が弱いこともあって、音をあげるのはいつもエイーゼだ。そんなエイーゼにアイジーは、頼りないわね、と微笑むのだ。この半身がいるだけで、どれほどパーティーが華やぐだろうか。エイーゼは名門学校に通っていて、学校でできた貴族友達も、みんなパーティーに参加する。アイジーがいないことで特別寂しく感じたことはないが、男女含めた友達を並べても、誰ひとりとしてアイジーよりも輝くような子はいなかった。来ればいいのに、そうしたらきっと、アイジーは誰よりもお姫様になれるのに。
 エイーゼと違って学校にすら行かせてもらえないアイジー。
 エイーゼと違って半身以外にも遊べる友のいないアイジー。
 エイーゼと違って屋敷の外の世界を全然知らないアイジー。
 その理由をオーザとイズは打ち明けてはくれなかったし、問い掛ければ問い掛けるほど、二人の顔は蒼白になっていった。今となっては困らせるのが嫌でなにも問い掛けなくなってしまったけれど、エイーゼの気持ちはずっと変わらない。
「お父様とお母様にお願いして、一緒にパーティーに行かせてもらったらどうだ?」
「ふふふっ、結構よ、エイーゼ。私は家に残っているわ」
「そんなことを言うな……僕も一緒にお願いしにいくから」
「だからいいのよ。本当に。それともなあに? 私がいなくて寂しいの?」
「そうじゃなくて……お前にだって友達が必要じゃないか……そうだよ、パーティーに来たら紹介してやる。まずジャレッドとテオドルスだ。僕の一番の友達だ。ジャレッドは少し無口で無愛想なところもあるがなかなかいい奴なんだ、テオドルスは人をからかうのが好きで小憎らしいところもあるがきっとアイジーも」「だから、別にいいのよ」
 流暢に喋っていたエイーゼに被さるように、アイジーはそう言い放った。アイジーは微笑んだまま、言葉を続ける。
「昔、パーティーに行きたいと言ったら頬を叩かれたわ。駄目だって」
「そ、んな」
 エイーゼは驚愕した。正直信じられなかった。シフォンドハーゲンを継ぐであろうエイーゼとは違い、それほど厳しく躾られなかったアイジーが、パーティーに行きたいというそんな小さな駄々をこねただけで、甘やかしている筈の両親から叩かれるなんて。
「頬が痛いのもあったけれど、それよりも、もうお父様やお母様にあんな顔をさせたくないの」
 呆然とするエイーゼに微笑んで、彼の軟い肩を掴む。ぐるっと反回転させて「さあさあ、早くしないと遅れてしまうわよ」と強引に背を押した。
「私、パーティーに行けなくてもちっとも寂しくないわ。今夜は三人がいない分、自由に出来るんだもの。ストロベリークーヘンを食べて、お父様が買っていらしたピーチウォッカとやらを盗み飲みして、それから絵本を片っ端から読んで、うーんと夜更かししてやるんだわ!」
 悪戯っぽく笑うアイジーに、エイーゼは呆気に取られる。数秒後ぷっと噴き出して意地悪く笑った。
「お父様とお母様に、僕だけ一足先に帰してくださるようにお願いする」
「あっ、それはなしよエイーゼ。ラズベリーチョコを食べようったってそうはいかないんだから! 全部ぜーっんぶ、私が食べてやるんだわ!」
 玄関で自分たちに手を振るアイジーを見てエイーゼは思うのだ。もし帰ってきたときにまだアイジーが起きていたら、今夜は一緒のベッドで寝てやろう。





優しい檻の中



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