ブリキの心臓 | ナノ

1


 昨日またユニコーンの角から弾ける綿菓子くすねて来たんだって!? 店番が丁度ヨンカだったんだよ。ああ! 道理でな。あいつ本当バカだから、ちょろいちょろい。へぇ〜、俺にも出来るかな! ハッ、あんなの犬でも出来るぜ! きっとそうだ。ヨンカ相手だもん。よかったよな、あいつが《脳なし》で!

 橋の上から聞こえて来る太い幼声にシオンはまたギリギリと歯を食いしばった。落ち着いた色の煉瓦橋は細い川には釣り合わないくらい巨大で、余分に架けられた川棚の浅瀬では陸地に十分遊べるスペースが確保出来る。あちこちに散らばる砂利石はトルマリンのように豊かな異彩で、忘れな草色の空の光を目一杯あびてキラキラ光っていた。橋の真下の影の涼やかな風の、誰も気づかないような間隙で、シオンはぐっと黙って猫背にしたまま座り込んでいた。隣では丸い赤毛のユルヒェヨンカが小さくしゃがみ込んで川を眺めている。水面はひらひらと光っていて当時では異種交配を可能にしたばかりの淡水の珊瑚が小さく色彩を誇っていた。硝子細工のような魚の群れは水と同化して目立たないが、川に落ち込んだ鮮やかな緑の葉を餌と間違えてぱくりと食べた姿はやけに印象的だった。
「……わかってる、わかってる、俺はちゃんとわかってる」
「なにが……?」
「俺はちゃんとわかってる……我慢出来る……」ぎりりと擦り潰すように歯を噛み合わせた。「俺は怒らない……逆上して……あいつらを襲ったりなんか、しない」
 押し殺すように、押し殺すように、シオンは拳を握り締める。それはあまりにも強い力で、あんまり強く握りすぎるものだから、指が手の平を貫通してしまわないかとユルヒェヨンカは心配になった。しかしその数秒後にはシオンの言葉を思い出して「そっか」と返す。
「けど……シオンはなんで、そんなに怒ってるの?」
「怒るに決まってるだろ。あいつらは最低なことを……あれは、あれは卑怯だ……あんなの、許せない、ずるい……あれはずるい……!」
 君はなんにも関係ないのにな、とユルヒェヨンカはシオンを見つめる。シオンはその顔を猛虎のように歪めていた。今にも怒り燻った感情を暴れ回らせようとしてる眼差し。けれど無理矢理すぎる理性でそれをなんとか抑え込んでいるようだった。それもそうだろう。彼は怒ってはいけない。怒ってはいけないのだ――そういう危険な《呪い》だから。
「ずるいの?」
「ずるいさ。ヨンカがカカシの呪いだからって、あんな……ヨンカはあいつらのこと恨めしくないのか? 腹立たしくないのか?」
 シオンはぎっと眉を潜めてユルヒェヨンカに目を向ける。ユルヒェヨンカは少しの間黙り込んだ。
 いつもシオンはこうだった。シオンはなにも悪くないのに、ちっとも関係ないのに、見事に騙されたユルヒェヨンカを庇ってくれるし慰めてくれるしそして彼らに怒ってくれる。親の仲がよく、お互いに家が近いこともあり、シオンとユルヒェヨンカは歳は違いながらも昔から親しい幼馴染みだった。ユルヒェヨンカがカカシの呪いだと言うことを知っても馬鹿にしないでくれたし、なによりいっそうユルヒェヨンカの面倒を見てくれた。ユルヒェヨンカが能なしとからかわれるたびにシオンが味方になってくれた。素晴らしい友達だった。本当にいい幼馴染みだった。ユルヒェヨンカの愚かな間違いでユニコーンの角で万引きが相次いでいても、彼はいつも励ましてくれる。ユルヒェヨンカはとても恵まれていると思った。どんな失敗をしても“僕らの可愛いおばかさん”と言って抱きしめてくれる両親もいて。たとえこの愚痴無知の呪いを受けていてもなにも空しいことはないと思っていた。
「私は、大丈夫だよ」ユルヒェヨンカは小さく首を傾げる。「昨日、ちゃんとずたずたに泣いたから」
 それでもやっぱり、騙されるのは辛かった。馬鹿にされるのは、哀しかった。
 シオンはさっと傷ついたような顔をする。なんでそんな顔をするのかがわからなかったが、ユルヒェヨンカはなんとなく罪悪感が湧いてしまった。
「……そうか……そうだよな。俺よりもお前のほうが嫌な思いをしたんだ……ごめん」
 シオンはうずくまるようにそう呟いた。ユルヒェヨンカは目をぱちぱちと瞬かせる。
 平気だよ。泣いたらすぐに元気になったよ。そんな顔しないで笑ってよ。
 シオンは優しい。
 優しいから、こういった無関係なことにまで傷ついてくれる。その優しさにユルヒェヨンカは温かいものを感じていたし、だからこそ謝られる意味がわからなかった。シオンの金色の瞳がチカチカと光って、それにユルヒェヨンカは目を奪われる。シオンをこんな目にさせる彼らを少しだけ嫌らしく思った。
「ありがと、シオン」
「なにが」
「私の代わりに怒ってくれて」
 私は上手に怒れないから、と言葉を続ける間も、ユルヒェヨンカはじっとシオンの目を見つめていた。シオンは一瞬きょとんとする。でもすぐにその見開かれた目は細まって、そして少し切なげに眉を下げた。
 シオンは怒れない。
 ユルヒェヨンカをたばかってお菓子を盗んだ相手に、面と向かって叱責することも出来ない。
 それをするにはシオンはユルヒェヨンカを愛しすぎていて、つまり彼らを憎みすぎていた。ユルヒェヨンカを傷つけた相手なのに、ろくに詰ることも出来なくて、その失望感と無力感に歯を食いしばる。上手に怒れないのは、むしろシオンのほうだった。
「なんでだろうね」
 ユルヒェヨンカはぽつんと言葉を落とした。それにシオンは黙り込む。
「なんであんなことするんだろうね」
 一瞬シオンは泣き出すかと思った。金色の双眼はさっきよりも強くチカチカと煌めいて、山頂に降り積もった雪のように侵しがたい雰囲気を纏っている。けれどシオンは「さあな」と言うだけだった。やっぱりわかんないね、と心中で呟きながらユルヒェヨンカは彼を見つめる。
「今のシオンの顔ね、塩キャラメルみたいだよ」
「なんだよそれ」プッと噴き出したのかシオンは肩を震わせた。「もうお前が気にしてないなら、まあ、いいや」
 彼は子供の書く字みたいな不器用さで微笑んでいた。チカチカした目を細めてユルヒェヨンカを見ている。彼女が初めて見るような表情だ。それは笑顔と呼ぶにも呼べる代物じゃなくて、ちっとも楽しそうに見えなかった。きっとそんな楽しくない笑顔はあってもなくても一緒で、果てしないほど無駄だ。それは可哀相だな、こんなに頑張って笑ってくれてるのに。そう思った彼女はよしよしと、にこにこ微笑んでいる彼の頬を撫でて、「泣かないで」と言ってあげた。すると彼は石みたいに固まった。そしてすぐに、彼らしくないくらい、わんわんと泣き出した。頬を撫でた手が濡れていくのをただ静かに見つめる。





泣かせたのは私だった



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