ブリキの心臓 | ナノ

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 ジャバウォックとは、恐ろしい怪物のことだ。とにかく大きく、頭はまるで魚のようで、鋭い牙を持っている。首は細長く、体は硬い真っ黒な鱗で覆われており、直立歩行する恐竜のように腕と脚を二本ずつ。手足にそれぞれ鋭い鉤爪を持ち、薙ぎ払うのに長けた長い尾やコウモリのような翼を持つ。爛々たる眼は冴え冴えとしていて――人殺しきその姿はそれだけで心臓を止めるほどに悍ましい。
 ジャバウォックの呪いとは、死の呪いだ。運命の日に名前のない英雄に殺される――生まれたときから予言された、死の呪い。過去の文献を漁ればジャバウォックの呪いを受けた二人の人間にぶち当たることが出来る。やはりその二人は若くして死んでいて、そしてそれは事故死ではあるが誰かに殺害される形でだった。

 以上が、この約二ヶ月でわかったことの全てだった。

 ジャバウォックの呪いはハートの女王の呪いと並ぶ稀少かつ稀有な存在であり、つまり実存する歴史も薄い。わからないことが多くて話にならない。《オズ》の書架にある書物を盲目的に読み込んだアイジーは、もうこれからどうすればいいのかわからなかった。どれだけ調べても呪いを解く手がかりが見つからない。白うさぎの呪いを解く方法なんかはかなり早い段階で簡単に見聞出来たというのに、いざ自分の呪いを探してもこれっぽっちも巡り会わせがない。昔の新聞記事にも目を通してそれらしいトピックはないかと思ったがこれも不発に終わりそうだ。自分の手がインクで黒くなるまでページをめくってみたけれど無駄に終わりそうだった。その呪いも解けたのだからもしかしたらジャバウォックの呪いも解けるかもと、別の呪いの呪解方法を試したりもしたが、勿論効果は得られない。手は尽くした。足掻きもした。けれどこれでは八方塞がりだ。決定的にお手上げ状態で、足踏みをするしかなかった。
 アイジーは黄色い坂道を登って《オズ》の中へ入る。道中はやはり居心地が悪く、初期に比べればいくらか減ったがまだアイジーに鋭い視線を向ける人間は少なくなかった。いい加減やめてほしい。この二ヶ月、アイジーが一度でも彼らを罵ったことがあっただろうか。見下したことが、馬鹿にしたことが、蔑んだことがあっただろうか。そんなの、勿論ない。有り得ない。一度だってない罪を咎められるなんて本当に理不尽だ。以前石やトマトを投げられたことに比べれば今の環境は穏やかであるがそれでも息苦しくて仕方がない。ずっと緊張し放しでアイジーも酷く疲弊していた。
 エントランスホールを通ってクリスタルのアーチをくぐる。当直管理人に名前を言った後スイカズラの紋章を見せる。吹き抜けの天井を見上げて書架に向かうための廊下を選んで歩いた。庶務室を通るとジリリリリという電話の音が聞こえて来る。入りたてのころはアイソーポスにはない“遠く離れたところにいても違いの声が聞ける筒”の存在に驚いたものだが、もうすぐに慣れてしまった。一瞥することもなく過ぎていく。
 “貴女は災厄の子なのよ”
 いつかの日にイズに言われた言葉が頭の中を泳ぎ廻る。そうだ。自分は災厄の子だ。自分がいるとエイーゼの邪魔になる。自分が生きているとエイーゼは生きられない。災厄の子。生まれ損ない。呪われた子供。不吉の子。だからここに来た。呪いを解いて、災厄から逃れるために。自分がしっかりしなければ――しっかりしなければ、いつエイーゼが死んでしまうかわからない。昨日と今日は大丈夫だった、なら明日は、明後日は、一週間後は――――ぞっとするような想像を押さえ付けてアイジーは首を振る。そんな縁起でもないことを考えるものではないわ。自分を落ち着かせるため深呼吸する。今着ている濃紺のホワイトラインが目立つブラウスごと、アイジーはぎゅっと強く己を抱え込んだ。暫くじっとしていたが周りに気味の悪い目を向けられるのも嫌だったのですぐに歩みを始める。足取りは、決して軽いとは言えなかったけれど。
 ふと傍で、クスクスと華奢な笑い声が聞こえた。アイジーはその殆どを無視して進む。その笑い声は、間違いなくアイジーに向けられたものだった。
 一部ではもうアイジーがジャバウォックの呪いに脅かされていることが噂されている。巷談は俗説されて、いつ《オズ》中に遍く広まるかわかったものじゃない。最近の、アイジーを嘲笑う声や貫く視線の中には、明確すぎる悪意が見え隠れすることがあった。それはアイジーが“死の呪い”を授けられたと知ってからの反応だろう。冷たい眼で注がれる殺意にも似たそれに、アイジーは自分の居場所を無くしていく感覚に襲われた。
 もうすぐ書架に着くというタイミングでアイジーはいつの間にか俯いていた顔を上げる。すると、書架前に設置されている簡易な談話場に、それなりの人数の少年少女の人の群れを見つけた。深い緑色のクラシックなソファーに腰掛けたりしながら、大きな蔵書を開いて口々に意見を言い合ったりしている。どうやら解読出来ない文章があるらしい。この国の識字率は中々に高く、アイソーポスの住民だけでなくグリムやアンデルセンの人間に至るまで読み書きはこなせる筈だから、きっと《オズ》の書物特有の堅苦しい文章にぶち当たっているのだろう。彼らが持つ本の背表紙には『呪いの今昔』という文字。アイジーが《オズ》に来て三日目あたりに読了した本のタイトルだった。アイジーは宙ぶらりんの衝動に駆られた。きっとアイジーなら、その文がどういう意味を指すのか、上手く彼らに伝えることが出来るだろう。一度咀嚼したものを説明するなんて容易なことだ。けどそれを通りかかった自分がやっていいのかという感情が制止を促す。やめておいたほうがいいわ、という自分。やってみなさいよ、という自分。天使と悪魔のように、天国と地獄のように、対極する感情が鬩ぎ遭ってぐるぐると心の中を蠢いている。
 人の群れをよく観察してみると――見知らぬ人の中に、見知った人間が何人かいるのを確認できた。それはユルヒェヨンカ=ヤレイ、リザベラ=クライト、アンダスタン=シーノウの三人だった。他の人間は三人のそれぞれの友達だろうか。男女別なく入り乱れていて、全員が勉強熱心な表情をしている。
 もうすぐで人の群れとすれ違う。アイジーはドキドキと胸を高鳴らせた。
 ここで自分が登場したら、きっと彼らは驚くだろう。けれど自分が不解読な文章を説き明かせば悪い顔はしない筈だ。もしかしたらこれが友達を作るチャンスになるのかもしれない。そう思うとアイジーは俯く顔を上げることが出来た。
「……あ」
 群れの中の一人がアイジーの存在に気付く。それは一人の男の子だった。名前は知らないけれど、スタンの隣で悶々と悩んでいた男の子。その子の声を引き金にして、誰もがアイジーに向き直った。幾偶数もの瞳が自分を見つめるのを感じる。アイジーは肩を震わせた。喉がカラカラとして上手く言葉を紡げなかった。声は喉に張り付いたままで発せられることなど起こりそうにないくらいだった。アイジーはなんとか搾り出すように「あの、」と声をかける。
 じわりと、毒が広がるような感覚。
 アイジーが言葉を紡いだ瞬間、多くの人間が冷めたような表情をした。リジーもスタンも狼狽したような表情で微笑には苦味が混ざっていた。誰かが「……なに」とぶっきらぼうに返す。アイジーは頭が真っ白になりながらも必死に言葉を紡ぐ。
「あの……私、その、」もしよかったら、そう、もしよかったら、よ。「もし、よかったら」頭を猛スピードで回転させてなんとか言葉を捻り出す。顔がとても熱くなるのを感じた。そしてその熱が上がるたび、非難の目が向けられていった。
「なに、はっきり言ってよ」
「……だ、から」
 アイジーは一つ息を呑む。思う以上に緊張しているらしく、声は細々と震えていた。それでもせめて愛想よく、愛想よく笑わなければ。敵意はありませんよという意思を示さなければ。アイジーは緊張する口元をゆっくり吊り上げてなるたけ優しく言い放つ。
「もしよかったら、それを読むのを手伝うわよ?」


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