ブリキの心臓 | ナノ

1


「俺は《カエルの王様の呪い》でね……良かれと思って施した親切のせいでとばっちりに合う呪いだよ」
 黄金の昼下がりだった。《オズ》の中庭にあるベンチに腰掛けているアイジーとゼノンズ。アイジーは膝に乗せた蔵書を閉じている。ゼノンズは親しげにアイジーに話し掛け、身振り手振りで会話を続けていた。
「貧乏くじの呪いさ。あんまりだ」
「あら、でもよかったわ。聞いた分ではカエルの姿に変えられた呪いに思えるもの。もしかしたら今頃、貴方はハスの上で子供と大合唱していたのかもしれないわよ」
「おっと、そりゃ大変だ!」ゼノンズはわざとらしく肩を竦めて笑って見せた。「今のままでなによりだね」
「ええ、本当に」
 そう言って微笑みながらも、アイジーは内心では“どうせならガマカエルにでもなってしまえ”と唱えている。アイジーにとって貴族の仮面を被らなければいけないゼノンズは窮屈な存在だった。シフォンドハーゲンとヘイル家はそれなりに交流があり、それはつまり、自分が無下に扱うと良くないことが起こるという関係性だった。しょうがなくこうして二人でいるが、アイジーは出来れば読書の邪魔をしてほしくなかった。
 ゼノンズは多少傲慢なところもあるが普通に話す分には紳士的だ。エイーゼとゼノンズのどちらが紳士的かと聞かれたらまず間違いなくエイーゼを選ぶだろうけど、ゼノンズだっていい勝負をする。さりげない気遣いはお手の物。言葉の端々からも丁寧さが見受けられる。しかし、アイジーとゼノンズは決定的に気が合わない。割と本格的に仲が悪い。会話上は冗談を飛ばし合う仲のいい二人に見えないこともないのだが、それはあくまで会話上であることをお互いに知っている。どちらかと言えばゼノンズはアイジーに友好的で――というよりもシフォンドハーゲンの娘を取り入ろうと挑戦的で――少なからずおべっかを使うこともある。しかしアイジーはそんな彼の自分に対する“馬鹿な女を下してやる”という溢れんばかりの空気に嫌々していた。どう見繕っても厭味にしか聞こえない毒を吐くことも少なくはない。
「でもきっと私は、たとえ貴方がカエルだろうと、今とさして変わらなかったと思うわよ。こうして二人でお喋りしていたでしょうね」
 お前もカエルもそんなに変わんねーよバーカ。という内心にゼノンズはきっと気づいていた筈だ。しかし彼は年上の意地か、それを表に出すことはなかった。小さく「ありがとう」と微笑んだ。アイジーは心中で“つまんないの”と唇を尖らせる。やはり本格的に嫌っているようだった。
 こんなふうに笑いたくもないのにニコニコと笑って、本当に窮屈だ。翼を伸ばすことを許されない箱の中にいる鳥のような気分だとさえ思った。なんの気兼ねもさせてくれない気さくなシオンとは大違いだ。シオンと話すとななもかもが新鮮で、わくわくしていたものだ。楽しくて楽しくて、素の自分を出せた。ゼノンズはアイジーを“病弱な女の子”と思っているが、実際のアイジーはそれとは程遠い。昔のように木登りをしたり走り回ることはなくなったがお転婆な精神は健在だ。体力がなくなったとはいえ体が勘を覚えているのか運動をするのは不得手ではない。最近はシェルハイマーやハルカッタに出くわさないように周囲に気を配り、姿を見つけた途端走り出すという手段に出ている。ちなみに今まで捉えられたことはない。無闇に完璧だ。本の虫だからといって室内の遊びに従事した過去などアイジーにはない。人形遊びやままごとよりも木登りやボール遊びで幼少期は培われた。だからそういいう意味でも窮屈な振る舞いを当て嵌めてくるゼノンズを、アイジーは嫌らしく思ったのだ。
「それにしてもアイジー、君は一体なんの本を読んでいたんだい?」
「え……ああ、書架から借りてきたものよ。呪いについての……」
 そのアイジーの返答にゼノンズは目を見開く。どうやら驚いているようだった。
「これは、ペレトワレ教授が言っていたのは本当だったのか」
「ペレトワレ教授?」
「第三期研究員、先輩だよ」
「そう。その教授が。私のことをなにかおっしゃっていたの?」
「ああ。第五期研究員の中に、たった一ヶ月半で、書架にある蔵書の半分を読み仰せた女の子がいる、って」クスリと笑って、「しかも、あの有名な貴族の子だと」
 春も麗ら、だんだんと爽やかな風が吹き抜けるようになった、初夏より少し前のこの時期。ずっと書架に篭りっきりで、おまけに家にまで持ち帰って読み耽っていることもあって、事実アイジーは誰よりも蔵書の冊数をこなしていた。誰もが音を上げる晦渋な文章にも積極的に取り組んだものだし、最近は呪いを解く方法を見出だした先輩の研究員――“教授”と名のつく人間の、論文という論文を片っ端から読み漁ったりもしている。小さな噂が立つ程度には目立っているようだった。
「すごいな。ここの書物はどれもこれも難しくて俺にはちっとも読めやしないのに」
「……私には、これしか取り柄がないんだもの」
 控え目に微笑んだアイジーに、ゼノンズは少しびっくりした。いつもならきっと“あら、そうなの? でも、読めなくてもなにも構いやしないじゃない”と、嘲笑を含んだ物言いをしただろうアイジーが、捻くれのない素直な返答を寄越してみせたからだ。
 実際アイジーには本を読む以外に取り柄はない。当たり前の反応をしただけなのに、これは一体どういうことだろうと、次はアイジーがびっくりする番だった。
「……それで……この本はなんの呪いについて記載しているんだ?」
「そうね……《青髭の呪い》、《ハートの女王の呪い》、《バンダースナッチの呪い》……それから、《ジャバウォックの呪い》」
「へえ。よりによって、そんなおっかない呪いばかり」
「忘れたの? ゼノンズ」アイジーは被せるように言った。「私は、ジャバウォックの呪いに犯されているのよ」
 その言葉にゼノンズは押し黙った。
 こうして一ヶ月半、ずっと書物を漁っているというのに、ジャバウォックの呪いの呪解方法についてなにを見つけることも敵わなかった。やっと『暗黒の呪い』というそれらしい本を見つけたというのに、肝心の呪解についての手がかりはゼロに等しい。折角《オズ》に来たというのにこれじゃ前と変わらない。オーザやイズも口にはしないが、アイジーは二人が不満いっぱいであることをそれとなく悟っていた。いつ“やっぱりアイジーを殺したほうがいいんじゃないのか”という結論を導き出さないか心配で、気が気じゃなかった。
 まずジャバウォックの呪いに脅かされたという症例からして極めて少ないのだ。過去五百年を漁っても、アイジーを含めて三人しかいないと言うのだから驚きだ。なにかの冗談じゃないのか問いたくなる。おまけに――そのうちの二人、アイジーを抜いた以前の二人は、アイジーとは違って災厄の子ではなかったという。どういうことだ。これはあんまりだ。酷すぎる。打つ手なしとはまさにこのことだ。アイジーは二つの負債を抱えているのにその両方の負債を抱え込んだ人間が過去にいないなんて。そんな憂鬱を抱えるアイジーは日に日に窶れていっている。柔らかそうな白い頬は、困難を極めた状況からか土気色を帯びている。ほんのりと目の下に青黒い隈も出てきたし、十五年共に暮らしてきたエイーゼたちからは“病院に行こう”と言われる始末だ。しかし、アイジーをよく知らない者からはいつも通り儚げに――消えてしまいそうなくらい儚げに、美しい少女にしか見えない。ゼノンズもその一人で、アイジーの心の変化にはまったくと言っていいほど気付いていなかった。
「ミスタ・ヘイル」
「……あ?」
「あら」
 ふと、甘い幼声に話し掛けられる。声と共に風に乗ってきたのは落ち着いたチョコレートの香りだった。目の前には丸い赤毛の少女が真っ白い紙束を持って佇んでいる。ユルヒェヨンカだった。
「ご機嫌よう、ユルヒェヨンカ」
「久しぶりアイジー。いい天気だね」
 控え目に声をかければユルヒェヨンカも返してくれた。もしかしたら嫌われているというわけではないのかもしれない。そんな希望がじんわりを広がったとき、隣のゼノンズが「で?」と呟く。
「……え? なにが?」
「なにがじゃないだろう、声をかけておいて、お前は誰だ」
「……あれ、私、もう貴方に声かけたっけ? だって、今からかけようと……あれ?」
 ああ、とアイジーは溜息をつく。会話が見事に噛み合わない。これはゼノンズに非があるわけではなくユルヒェヨンカのせいだろう。ゼノンズは訝しげに眉を潜めている。カカシの呪い。頭の弱そうなぽつりぽつりとした言葉がふよふよと浮かび上がる。
「ゼノンズ……彼女はユルヒェヨンカ=ヤレイ、私たちと同じ第五期研究員よ」
 助け舟として紹介してやるとゼノンズは少し大人しくなった。ユルヒェヨンカは暫く黙っていたが「あっ」と思い出したように紙の束の一枚を渡す。
「……ミスタ・ヘイル。これ、業務連絡」
「業務連絡?」
「ルビニエル先輩から皆に回すよう言われていたの」
「わざわざ紙で……館内放送じゃダメだったのかしら」
「館内放送じゃ音が大きすぎて外に漏れ出すことがある。《オズ》の中だけで伝達したいんだろうな」案外利口なのね、とは言えなかった。「で、ミス・ヤレイ。君がわざわざこうして連絡用紙を渡していってるってわけかい」
「うん」
「どうして?」
「えっ?」
「どうして君が働かされているんだってことだ。新米の第五期研究員が、」ゼノンズはユルヒェヨンカの手元の太い紙束に目を遣る。「なんでこんな重労働を?」
「……さあ」
「さあ、って」
「わかんない。なんでだろ」
 アイジーはなんとも言えない気持ちになった。


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