ブリキの心臓 | ナノ

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 ――“呪い”とは、万代不易森羅万象にも属さない、リアルからもイデアからも脱却したと言える、人の精神や身体及びエートスに先天的な害悪を齎す、神話と言っても過言でない、未だ解明不可能な概念の通称である――。
「せめて人類言語であるべきだわ」
 《オズ》の書架にずらありと並ぶ堅苦しい背表紙をした呪いに対する記述書のほんの数行を読んで、アイジーは床に落ちたフォークを見るような顔をして呟いた。夥しい数の記述書や論文からそれとなく読み易そうなものを選んだというのにこの有様だ。無様だ。最初の数行からもごってごてに固められた感が溢れかえっていて、アイジーは溜息をつく。ずっと家に篭って本を読んでいたせいかこの手の窮屈な文章を読むのもあまり苦と思わないアイジーだが、流石に呪いというある種コンプレックスであるものに対しての探究心を巡らせているときに、こんな石のような文章を一々咀嚼してられない。ぐりぐりと眉間を押さえながら、本で述べられている非人類言語を要所要所まとめていった。
 呪いとは、正体不明の害悪的観念及びそれにまつわる自傷――事象のことだ。呪いを授かった人間の全員が先天的なものであり、後天的に訪れることはまずないと考えられる。預言者によって呪いを告知される例が多い。呪いとは人の人生であり運命であり共に付き合っていく腐れ縁のようなものだ。それは時に自分を傷つけるがあくまで呪いは観念であり、そして自分自身である。呪われた人間にはある一定の害悪が降り注がれる。それは避けようもない決定事項のようなものだった。研究者の各々の仮定理論では、呪いなどは決して存在しない、呪いと綽名されるその全てはただの自己暗示であり偶然であり科学で改名できる事例の一つだ――そう唱える場合も多い。
 それらの言いたいことは、なんとなくわかる。
 ……気がした。
 つまり、例として、数年前までは死の呪いとも言われていた白うさぎの呪い――何かに取り憑かれたように時間を気にし、いつも追われるように走り回ってしまう呪い。いつもなにかに圧迫された様子でいずれは過労死してしまうという呪いだが、一部の意見では呪いではないという考えもなされている。自分をも苦しめる切迫観念は、その人間の生真面目な気質だとか率先して物事を行う自主性だとか、行き過ぎたアイデンティティーによるものだと考えられることが多い。最もだと思う。たとえ何に切迫されているわけでもなくても、不安になり心配になり動かずにはいられなくなるのが人間というものだ。他にも、登録式の日に教えてくれた――リザベラ=クライトの醜いアヒルの呪い。リジーは家族の誰とも似ず、また肌の色や髪の色まで両親から生まれてくるはずのない色をしているのだとか。これだけ聞けば誰もが呪いの線を一度は疑うだろうが、それも研究者たちの間では意見が分かれている。実際に呪いだという意見と、ただの劣性遺伝子だという意見。この二つの呪いだけでも見るに、呪いというのは曖昧な概念なのだ。
 呪いは存在するのか否か。ここから論点を合わせなければいけないのかもしれない。自分が乗り込んだ船は泥舟だったのではないかとアイジーは血の気が引くのを感じた。
 しかし面白いことに、メイリア=バグギガンという女性の存在により、今まで論争されてきたそれらは途端に一掃される。
 メイリア=バクギガン。胡桃色の髪に琥珀色の瞳を持ち、口を大きな錠前で枷られた、《オズ》の研究員である女性。登録式で紹介された、ハートの女王の呪いに憑かれた人間だが、何故あのときあんなに場が騒然したのかやっと理解出来た。最近の記述書にはまず彼女の名前が載っているし、彼女自身も論文を発表している。それが彼女の知名度の一因であるというわけじゃない。それに至るまでの過程が、彼女を有名にしているのだ。彼女は自らのハートの女王の呪いにより、呪いがファンタジーでもガセネタでも科学で証明できる事象でもないことを全面的に肯定して見せた。論文の最後には“これはあくまで私の呪いにおける解釈であり理論ではあるけれど、世の中には呪いという科学では解明出来ない可哀相な結果が存在するということを、まずは頭の端にでも植え付けておいてもらいたい”という一文。これのおかげで、精神病患者扱いすらされていた呪われた人間たちが、一気に社会的対面を取り戻したのだ。多分ヒーローのような人間なのだろう、呪われた人間にとっての。ハートの女王の呪いというのはある種の“言霊”を可能にする呪いらしく、少なくとも今まで見てきた呪いの中では比較的便利なものだと思った。失礼極まりないのは承知している。不謹慎なのも勿論だ。しかし。ハートの女王の呪いとは、“絶対王政”の呪いだ。彼女の言葉には“強制力”が存在するのだ。彼女の“命令”に逆らった者は死ぬ――彼女が発した言葉は命となり、発せられた対象に浸透する。そしてそれは他の意識と関係なく暴走し、彼女の命を遂行する。命を自意識的に抗うことの出来る人間もいるらしいが、忘れてはいけない。彼女の“命令”に逆らった者は死ぬ。予測も前触れも用意もなく、いきなりその首がはねられる。なにもないところから鎌でも振り落とされたみたいに、ぼとりと首が落ちてしまう。彼女がやったのではなく、ハートの女王の呪いで。これらの異様性から、世間に呪いという存在を広く浸透させたのだとか。
「たしかに、これは信じざるを得ないわよね……」
 アイジーはほうっと口元に手を当てて吐息した。
 操られたように動く人間に、命が成されなかった場合に無差別にぼとりともげる首も。身の毛がよだつほどの悍ましい呪いだ。書物を読んだだけでは――彼女が悪いのではなく呪いのせいなのだとわかっていても――誰もがメイリア=バクギガンに残忍で残酷な人間を思い描くだろう。それでも、登録式の日に見た彼女の姿を思い出せば、それも和らいだ。あの口枷はこのためか。自分を喋れないようにして、己の発言をハートの女王の呪いにより“命令”へと昇華させないため。
 けれど確か、《オズ》の副指揮官であるジオラマ=デッドは、彼女は呪いを解くすべを見つけたと言っていなかっただろうか? あの見た目からも実用性からも閉鎖感の激しい錠前を己に課せることの、どこが呪解にあたるというのか。それとも、それとは別の方法があるのか。なんにしてもとても気になる。読めば読むほど、考えれば考えるほど奥が深い。
 しかもだ。
 彼女の論文では白うさぎの呪いについての記述も見つけることが出来た。驚くべきことに、白うさぎの呪いを解くすべを開拓したのもこのメイリア=バクギガンなのだ。これは英雄視される筈だ。ハートの女王の呪いに脅かされた彼女にきっと誰もが怯えるはずなのに、それでも英雄視される理由はここにある。
 アイジーはメイリア=バクギガンの論文を閉じ、次の資料に目を通す。こうやって一から呪いに対する知識を身につけていく地道な作業は、今朝からもう六時間にも及んでいた。書架には数人ほど第五期研究員がいたのだが、二時間ほどでだろうか、最後に一人もいなくなってしまった。今頃先輩の研究員であり教授である人達にお話を伺っているのではないだろうか。アイジーも、本で学ぶよりは先輩に聞いたほうが潤沢な話が発掘できるだろうとは思ったが、下積み無しで事に及ぶのはなにか違う気がした。と、言うのは建て前で。ただ単に他人に話し掛けるのが出来なかっただけだった。


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