ブリキの心臓 | ナノ

1


 朝から屋敷中甘い匂いがした。薔薇とライラックとオレンジとスミレの巧妙に入り混じった仄かな匂いだ。噎せ返るほどじゃないその麗しい芳香に誘われて、開け放たれた窓からは名も知れぬ八色の蝶がひらひらと優雅に屋敷中を舞っている。広間に取り付けられたシャンデリアはクリスタルの煌きを赤い絨毯に落としていて、日向から漏れる穏やかな斜光と相まって溜息が出るほどのどかで美しかった。全てが全て完璧な日だった。暖かな朝の目覚めも、緩やかな昼の風も、寂しさすら感じるマジックタイムの空色も、宵時にふと消える蝶の名残も。なにもかもがこの日のために一千年も前から用意されたみたいに完璧だ。きっと最高の日になるだろう。
 最高の、十五歳の誕生日になるだろう。
「ハッピーバースデー、アイジー」
「ふふ、お父様ったら、今日一日で何度目かしら」
「こういうのは何度でも言っていいと昔から決められている」
「あら、だったら私、それを決めた人に感謝しなきゃいけないわね。お父様が何度も何度もお祝いしてくださるものだから耳にタコが出来ちゃいそうなんだもの!」
 わざとらしく肩をすくめて見せるとオーザは楽しげに苦笑した。
 真っ白いテーブルクロスの上には大きなお菓子の籠があり、中にはクルミをキャラメルで固めたトフィーや色とりどりの飴細工、蝋燭の形をしたチョコレートなんかが、丁寧に並べてあった。テーブルの席に座る各々がゴブレットを掲げていて、中にはローズウォーターが花弁と共に波打っている。ディナー前のこの安らかなひと時は幸せそのものだった。
「ハッピーバースデー、エイーゼ。お前はもう高等部か」
「またジャレッドやテオと同じクラスになれるのを願うばかりですよ」
「本当にシベラフカやボーレガードと仲がいいな。また遊びに来てもらうように言うがいい」
「ありがとうございます、お父様」
 エイーゼが控えめに微笑むのを見てイズもエイーゼに話しかける。
「そういえばエイーゼ。もうそろそろ婚約者のことなど考えてみてはどうです?」
 イズのその言葉にエイーゼはぴくりと反応した。勿論それにはイズもオーザも気付かない。気付いたのはアイジー一人だけだっただろう。第一、反応したとは言ってもそれほど明確なものではなかった。十四年間双子の妹として生きてきたアイジーにしかわからない、微妙な変化だ。オーザは渋い顔をしながらもイズを止めようとは思わない。エイーゼは極力優しい顔をしたままイズに「と、言いますと?」と返した。
「貴方ももう十五なのですから、正式に婚約者を設けるべきではないかと」
「ですがお母様。僕はそんなこと今まで考えたことも」
「なにを言っているのです」
 イズは首をゆるゆると振った。
 これは長くなりそうだぞ、とエイーゼは身構える。
「イェルビンスキー家のダリッサなどはどうでしょう? 器量よしだもの、きっと貴方のことを支えてくれるいい妻になるでしょう」
「イェルビンスキーですか? でも彼女とは特に親しくも」
「嘘仰い。この間家に友達を招いていたとき、しっかりとこの目で見ましたよ、ダリッサも招いていたのを。それに今日誕生日カードも届いていましたよね?」
 わざわざファミリーネームに呼び変えたというのにそれは無駄に終わってしまったようだった。エイーゼは苦笑する。
 正直エイーゼは結婚のことなどちらとも考えたことがなかった。シフォンドハーゲンの次期当主としてやれるだけのことは努力しているがそれとこれとは色々と無関係だ。せっかくまだ学生なのだから普通に恋愛を楽しみたいし、第一エイーゼは友達といる方が気楽で好きだった。あまり男女交際に興味があるような性格ではない。
「もしくはマッカイアでしょうか……中流階級とはいえあそこは多くの貴族が一目置いている宝石商ですもの……三つ四つ歳は上になりますが、確か二人ほど娘がいたはずです」
 これはいよいよまずくなってきたとエイーゼは冷や汗をかく。イズは割と本気だ。
 エイーゼはオーザに目配せをする。シフォンドハーゲン暗黙の家訓では、オーザが召使いに料理を持ってこさせるまでディナーの催促を禁じる決まりになっている。オーザが一声あげればこの話は有耶無耶にしたまま流すことも出来るだろう。しかしオーザも中々声をあげられないでいる。イズが本気だからだ。なんやかんやで尻にしかれ気味の頼りない父親を見てエイーゼは愕然とした。もしこのまま本当に婚約の席が設けられでもしたら。そう思うとエイーゼは目眩がしてくる。
 だんだんと顔色を悪くするエイーゼを見て、アイジーは心中で“しょうがないわね”と呟いて「お父様!」と声をあげる。鈴が転がったような可愛らしい響きに会話の主導権はアイジーへと移った。
「ディナーはまだですの? 早くしないと私、骨みたいにからっからに干乾びてしまうわ!」
 お腹ペコペコなのよ、と。わざとらしいくらいの甘えた表情をするアイジーに、イズはキッと頬を紅潮させた。
「アイジー! まだお父様が何も仰っていないというのに。マナーがなっていませんよ」
「いや、いいではないか。イズ。確かに今日は二人の誕生日だった。主役は二人なのだから干乾びてしまっては元も子もない」
 そう言うとイズはなにも言えなくなり、無言のままつんとした。アイジーは演技だったというのも感じさせない無邪気っぷりで「まあ、流石私のお父様だわ、なんてお優しいの」だのと賞賛している。何はともあれ助かったとエイーゼは溜息をついた。
「では食事を」
 オーザが召使いに声をかけると、彼らは厨房にディナーを取りに戻った。
 イズは「では先に渡しておきましょうかね」とどこからともなく包みを取り出す。包装紙は果てしなく黒に近いネイビーでシルバーのリボンが付いている。イズが「ハッピーバースデー」と言い終わるのとほぼ同時にエイーゼは立ち上がって「ありがとうございます」と包みを受け取った。丁寧に包装を解いて中の箱を開ける。深い皮製のリングノートだった。――いや、ノートではない。開いてみれば、まっすぐに引かれた線の上には真っ黒い音符が美しく並べ立てられて艶やかな旋律を映し出している。
「これは……ピアノ連弾用の楽譜……『サンドリヨン』!」
「ずっと欲しがっていたでしょう? 見つけるのに苦労しました」
「ありがとうございますお母様。早速新学期にはジャレッドと練習に取り掛かります」
 興奮を抑えきれない笑みを浮かべるエイーゼはイズに小さくお辞儀した。
 エイーゼはピアノが好きだった。本格的に学びだしたのは中等部に入ってからだが、同じくピアノを趣味とするジャレッドと二人で昼休みや放課後に音楽室でピアノを奏でるのが日課だった。たまに休日で家にあるピアノを用いてエイーゼが一人静かなコンサートをしているのを、アイジーは知っている。そんなに欲しかった楽譜ならきっとエイーゼは誰よりも美しく楽しげに奏でれただろうに。聞けないその音色に、アイジーは胸が痛んだ。
「次は私からだ、エイーゼ」
 そう言ってオーザが渡したのは青紫色の包装紙に金色のリボンが施された箱状のプレゼントだった。それも少し小さい。エイーゼが厳かに受け取り包装をゆっくりと剥いでいくと、そこから現れたのは小さな黒いボックスだった。
「開けてみなさい」
 頷きながらその箱を開けると、プラチナとサファイヤで出来た優美なネクタイピンが姿を見せる。エイーゼは目をきらきらと光らせて「素晴らしい」と感嘆の息を漏らした。
「高等部の制服に合うことだろう。それを付けてギルフォードの新しい学び舎へ行く日を楽しみにしているよ」
「毎日つけます」
 そう言ってにっこりと笑ったあと、オーザは「そしてこれは私たち二人からだ」と恒例の花束をアイジーとエイーゼに渡した。
 大輪の真っ白い薔薇に身を寄せるように添えられたスミレの花。上品な香りが漂う花束を抱えて、アイジーは天使のように微笑んだ。
「ふふふ、今年はもう貰えないのかもしれないと焦りましたわ」
「そんなわけがないだろう」
「毎年ずっと楽しみにしていたんですもの。当然ですわ」
 そんな傲慢を言う娘にオーザは苦笑する。
「エイーゼへのプレゼントも渡し終えたところだし、そろそろアイジーへのプレゼントを渡すとしよう。でないと本当に干乾びてしまいそうだ」
 肩をすくめる頃には、部屋に召使いがたくさんの料理を持ってきていた。部屋に充満する芳醇な香りを纏いながら、涎を誘うその匂いがアイジーを誘惑する。アイジーの好きなメニューばかりで調えられたディナーだ。そうならないわけがない。
 オーザもイズも、最後の最後までもっといいプレゼントがあるのではと説得したが、アイジーは頑として譲らなかった。自分の好きなメニューをディナーとして出してほしいと。


× |
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -