ブリキの心臓 | ナノ

1


 されど、やはり寝付くことは出来なかった。
 アイジーは気だるい身体を這いずるようにベッドからのさばらせて地に足を着く。シーツには皺が寄り、歪な形にめくれ上がった。真っ暗でなにも見えないが何年も過ごしてきた部屋だ。感覚だけでどっちが扉かは突き止められる。まだ少し眩暈の残る身体を奮わせて一歩一歩ゆっくりと歩み出した。やっぱり自分の身体からは嘔吐のような匂いがして気持ち悪い。喉も心なしかひりひりするし歯を磨きたい気分だった。アイジーはぺたぺたと扉に手を這わせてノブを探る。ひんやりとした硬いそれに触れ、ゆるりとドアを開けた。
 廊下は部屋よりも幾分か寒かった。もしかしたらどこかの窓が開いているのかもしれない。部屋にいたときよりも激しい雨音が響いていたしぴちゃぴちゃと滴が弾けるような音がした。独特の湿気を肌で感じて一枚カーディガンでも羽織ってくればよかったと後悔する。勿論部屋に取りに行くには三歩の距離もない。帰りたければ帰ればいい。しかし、いくらずっと過ごしてきたからドレッサーまで感覚で辿り着けたとしても、どこにカーディガンがあるかまでは見当も付かなかった。それ故アイジーはカーディガンを諦めて、真っ暗闇の中廊下を歩き出すことにした。
 正直な話。
 怖くないと言えば嘘になる。
 長年住んできた家とはいえ真夜中の廊下ほど怖いものはない。少しでもおかしな音が聞こえれば肩を震わせるし自分の足音が反響すれば心臓はばこばこと忙しなく働く。それでも今まで蹲っていた熱のせいか落ち着いていて、この不気味な冷たさを心地よいと、薄気味悪い静寂を安寧と感じる瞬間が多かった。
 なんとか洗面台にまで辿り着いて歯を磨く。しゃこしゃこと音がした。アイジーの大好きなラベンダーミントの匂いがする歯磨き粉。水を淹れればちゃぽちゃぽとなるコップ。ぐちゅぐちゅと咥内を濯いでタオルで口元を拭けばだいぶすっきりしていた。
「さあ、寝るとしましょう」
 さっきの、暗闇の中から聞こえた優しい声と冷たい手――――あの正体が誰だったかはちっともわからないけれど、なんとなくその言葉に従わなければいけない気がした。従わなければいけないというより、従いたいと思ったのだ。屈服や忠誠のような自由を奪われた意思ではない。感謝や情愛の念を持って、従いたいと思った。
 誰の言葉かはわからない。
 顔を見ることすら出来なかった。
 声も曖昧で、夢だったかと錯覚するような空ろな記憶だ。
 それでもあの声の主は――冷たい手は、アイジーを慰めてくれたのだ。眠れないアイジーの額を優しく撫でて、たおやかにキスをして、“さあ寝るんだ”と囁いてくれた。夢でもいい、幻でもいい、その優しさに、星のようなきらめきに、アイジーがどれだけ救われただろう。微かに記憶しているのはその星のような金色だけだった。その金色が何を指しているかは全く予想できないが、あの美しい幻が悪いものなわけがない。
 不安定な記憶の中に眠る確かな確信がアイジーの中にはあった。
 また真っ暗闇の中を手伝いで移動しながら、アイジーはそんなことを思った。

 “君が求めるのは生きることだけなのだから、それが贈られたらとても素敵だろうね”

 その言葉が、どれだけアイジーの胸に響いただろう。激しい悲しみと酷い痛みの中、あの穏やかな囁きは夢よりも愛よりも甘く強く沁み込んだ。その声だけで、月のない雨も冷たい夜も、全てが全て宝石のように気高く美しく思えた。その優しさだけで、この最後の夜を乗り切れるような、そんな気がした。
 死ぬのは怖い。死にたくない。
 嫌だ。嫌だ。
 生きていたい。
 それでも仕方がないのかもしれないと、そんな穏やかな気持ちになれたのだ。いや、仕方がないというよりは――自分が、死んでしまうのが寂しいと思っていることに――前向きになれたような、そんな気がしたのだ。
「…………え?」
 自分の部屋のドアまで辿り着いたとき、その一つ奥の部屋のドアが少しだけ開いているのがわかった。真っ暗闇なのにそれが確認できたのは、きっと中でまだ明かりを灯しているからなのだろう。ドアと壁の隙間からはほんのりとした光がすうっと細い線を漏らしている。――――エイーゼの部屋からだった。
 ふと、さっきの手はやっぱりエイーゼだったのかしらという疑問が胸のうちでこだました。勿論そんなことは有り得ないけれど、死んでも有り得ないけれど、そんな喜ばしい可能性が、ちらと脳の切れ端に浮かんだ。
 アイジーは自分の部屋の前を通り過ぎる。
 こんな遅い時間まで明かりを灯してなにをしているのだろう。夜更かしなんてしているとオーザやイズに怒られてしまうというのに。しかも明日は、いや、もう日付を跨いでしまっただろう――今日は誕生日だ。誕生日だからと早寝をする必要はないにしろ、わざわざ夜更かしをする必要だってないだろう。アイジーは気付かれないように音を立てずエイーゼの部屋のドアに忍び寄る。少しだけ、覗いてみた。
 机に向かっている。
 大きな真鍮の飾りが施してあるカンテラを机の上において――何年か前オーザに誕生日プレゼントとして貰った万年筆を持って、かりかりとなにかを書きとめている。机の上には夥しいまでの本や教科書があった。随分とコワモテでキムズカシイのものだ。表紙を見ただけでそれが汲み取れるほどに。エイーゼはアイジーに気付かない。真剣にそれらと向き合って――――勉強している。
 カンテラの中にある蝋燭の火がエイーゼのシルバーブロンドをゴールドに煌かせる。アイジーと同じくすんだスミレ色の瞳は火を浴びて黄昏色に変わっていた。滑らかな肌には深い夜色の影を落としている。万年筆を持つ手は小刻みに揺れて、停滞するような兆しはない。
 何時間も何時間も、勉強していたのだろうか。必死になって、こんなふうに。夜遅くまで努力していたのだろうか。エイーゼの学校の成績は随分優秀と言えるくらいの位置にまでキープしているのは、アイジーも知っていた。いつもイズはそのことを誇りに思っていたし、オーザもこの調子で頑張りなさいとかそんなことを言っていたのを覚えている。エイーゼはアイジーとは違う。シフォンドハーゲンの正式な後継者だ。アイジーが家でのんびりとしている間、エイーゼは死に物狂いで勉学に励んでいる。そしてそれに弱音も吐かず、努力と研鑽を続けている。
 こんな誰も起きていない夜中にまでその集中を弛ませないエイーゼ。
 アイジーは目の奥が熱くなるのを感じた。
 アイジーはドアから離れて壁に背をもたれかけさせる。なるべく音の鳴らないように極めて静かな動作でその場に蹲り、声が上がらないように食い縛った。

 本当に、私は愚かだった。

 アイジーは災厄の子なのだ。エイーゼが生まれつき丈夫でないのも、アイジーが死ななければエイーゼが死んでしまうのも、アイジーが災厄の子だからなのだ。どちらかを殺さなければどちらかが死ぬ。アイジーを殺さなければエイーゼは死ぬ。なんてわかりやすい残酷だろう。なんて酷薄な現実だろう。
 残酷ですって?
 酷薄ですって?
 ちゃんちゃらおかしい!
 やはり、私は、馬鹿だった。

 感謝したいとすら思った。

 神様がいるなら、感謝をしたい。呪いをかけた張本人がいるなら、喜んで死を差し出したい。きっと永遠に誇ることが出来るだろう。永久の感謝を湛えるだろう。この素晴らしい兄に、何か一つでも自分が贈れるものがあるのだから。
 愛しい兄。
 努力家な兄。
 大好きな兄。
 もう迷いなどなかった。ある筈もなかった。このシフォンドハーゲンのために自分なんかよりよっぽど努力している美しい兄のために、愚かな自分の命を捧げるのなんて当然のことじゃないか。涙を拭って、アイジーは部屋に戻る。きっと今なら、素晴らしい夢が見れるに違いない。素敵で最高に幸せな、最期の夢を見れるに違いない。

 エイーゼ、私、死ぬのよ。ちゃんと死んでみせるわ。貴方のために死ねるのよ。今の今まで生きてきて、こんなに誇らしいことったらないのでしょうね。





臆病が勇気に変わるとき



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