ブリキの心臓 | ナノ

1


 貴方が傍にいてくれて本当によかった。そう言って彼女が幸せそうに微笑む、そんなへたくそな夢を見た。

 僕が狭い殻から身を脱するように目覚めたときには、彼女は不幸の烙印を押されていた。それは不幸と呼ぶのは軽々しすぎる代物だったが、それ以外の表現を思いつかないほどの悪夢だったに違いない。彼女の両親などは、まるで喉元に鼠の死骸を押しこまれたような真っ青い表情で彼女を見下ろしていたし、きっとその感情のなかには痛ましさや憐れみに紛れるように、汚らわしさや忌々しさを隠し持っていたことだろう。愛おしい我が子を相手によくもまあそんな顔が出来るとは思ったが、世の中の常識を当て嵌めてみれば無理もない。彼女はなにも知らずにきゃっきゃと微笑んで手を伸べた。この真っ白い赤ん坊が無邪気でいることすら残酷に感じる。清らかな聖歌を受けながら裁かれる魔女のようだった。けれど、この赤ん坊は魔女ではない。悲喜劇的な、《災厄の子》だ。
 にしても、僕からしてみれば、ちゃんちゃらおかしいことこの上ない。彼女の両親が重い顔色をしているのを見るたび、なんと間抜けなことだろうとからかってやりたくなった。
 もちろん、僕の姿も声も、彼らには届かない。赤ん坊の自我がまだ形成されていないせいか、僕という存在も曖昧になっているのだが、それが理由でないことは明白だ。基本的に《呪い》の存在は呪われたもの以外には見えないし触れもしない。どころかまず、《呪い》の姿を見ることのできる人間さえも、ごく少数だ。
 向き合うことをしないのだから、運命的な最悪にはきっと及ばないに違いない。
 違いないのに彼らは最悪を想定して、まだ赤ん坊の彼女に怯えと忌みを感じている。呪いの解釈を誤っているのだ。
 むしろこれは預言者の誤算なのかもしれない。赤ん坊二人をいっぺんに見たせいで、予言が混乱したのだ。
 それに気づかず、彼女を災厄扱いすることの滑稽たること。不運を背負った赤ん坊を見下ろすたび、僕は呆気なく散る同情のようなものを感じていた。
 彼女はなにも知らないで、伸びやかに健やかに育っていった。母親の望む白いワンピースを嫌い、父親の抱く不安を夢にも見ず、愛おしい双子の兄の手を引いて無邪気に遊びに誘う。一見してみれば天使のような容貌をしている彼女が、世にも忌々しい呪いを抱えているなど、きっと誰も思わないだろう。けれど現実、彼女は僕に犯されている。それを知らない彼女は両親二人からしてみれば残酷なくらい無垢だったことだろう。
 彼女を取り巻く家庭関係はひどく複雑で歪んでいた。表向きは不和を感じさせない程度のものだったが、全てを知る者からすれば、胸が寒々と吐き気を催す、そんな光景だったに違いない。母親は過度な防衛心とエゴから、娘である彼女に、執着にも似た厳格を抱いていた。父親は彼女を蔑ろにし、息子のことばかり可愛がりながらも、娘に対する哀れみからの歪な愛情を離さない。けれど、彼女を疎遠し、その全てを妻であり母親でもある女に預けていたという姑息で利己的な面が、僕を静かに苛立たせた。親である彼女、彼らからしてみれば、双子の兄は正当な被害者である。彼を生かすというそれだけのために、両親は彼女を邸に籠らせた。
 いずれは死んでしまう、母親の自己満足のためだけに生かされ、そして、十五歳になると死んでしまう、哀れで不運で、なのに誰よりも無邪気な彼女。なにも知らずに、幸せを傲り、たとえ自由を知らなくても笑っていた。満たされていた。
 互いの運命を知らない双子が愚かしい。兄は歪みにこそ気づいてはいるが、妹の笑顔さえあれば、それでかまわないのかもしれないと思っている。それぞれがそれぞれの感情を抱いているのに、彼女だけは無知で愚かで浅はかで、それがどうにもやるせなくて、そしてそれがひときわ不憫だった。

“貴女は災厄の子なのよ。災厄の子なの。アイジー。生まれたときから決まっていて、死ぬときまで決まっているの。貴女はエイーゼのために、死ななければならないのよ”

 ある言葉が彼女の心臓に波紋を起こした。それから彼女は笑わなくなった。
 彼女が笑わなくなった途端、微妙なバランスで成り立っていた家庭が瞬く間に崩壊し、一切熱を持たなくなった。彼女が笑うから救われていた関係が、がらりと消え失せ、氷結したのだ。
 いい気味だと思った。それと同時に、僕の胸に棲みついた悪戯しい感情が泣いているのが、我ながら無様だと思った。
 部屋に籠りきって何度も何度も同じ本を読み、何度も何度も同じ風景を眺める彼女の傍で、僕は残された月日を共に数える。本来ならば死ななくてもいいはずなのに、どうして彼女はこんなところに閉じこめられているのだろう。しなくてもいい諍いを愛しい兄として、怯えなくてもいい死に怯え、生きていることを申し訳なさそうに目を濡らしながら、いとも容易く死を差し出す彼女。その様は見ているだけで痛々しかった。私、私、と言葉を重ね、安心させるように死ぬのだと口にする、その彼女の心は、いつもどろどろと爛れていた。呪いである僕だけにしかわからない。彼女がどんな思いで生きて、どんな思いで死のうとしているかなど。尊敬する両親と愛する双子の兄に“災厄の子”という目で見られるのは耐えがたい屈辱であり苦痛だった。自分なんて最初からいなかったみたいに、妹として誇ってもらえないのは悲しかった。知りもしない馬鹿気た価値観で石を投げられるのが怖かった。もう何年も負の感情しか抱いていない彼女の心は、体よりも先に死んでいる。

“俺はシオノエル。シオノエル=ケッテンクラート。どうかシオンと呼んでくれ”

 それからの彼女は見違えるように変わった。いや、蘇ると言うほうが正しいのかもしれない。あの可憐な微笑みを浮かべていた彼女は一度死に、そしてまた蘇った。
 初めて見る外の世界はキラキラと輝いていた。初めて抱く感情は煩わしくて、けれど、それすら心地よかった。自分だけの世界を作れる喜びを知った。友達を得ることでそれは更に深まった。抱くことのなかった感情や得ることのなかった経験をし、不感だった心臓はまた忙しく動きだす。今まで押し殺してばかりで、死ぬことにはもう疲れてしまったに違いない。生きることから始めればいいと、僕は限りなく本心で願った。
 災厄の子だと思ったままでも、僕に脅かされていたとしても、それでもかまわない。彼女が幸せそうに笑っているのならそれだけが全てなのだ。
 君が求めるのは生きることだけなのだから、それが贈られたらとても素敵だろうね――余計なことをしたと思った。
 けれど、ある意味ではそうするしかなかった。残酷な刃を突きつけるようなことだとは思いながらも、彼女に死にたいと思わせたくなかった。どんな感情を抱くよりも、それだけは許せないと思った。彼女が僕という死の存在に常に怯えることになったとしても、痛くも痒くもないことだった。

 死んでほしくない。

 ずっとずっと彼女の傍に居続けてきて、その年月の一度だって、僕は彼女の死を望んだことなどなかった。死の呪いである僕が抱くにはあまりにも理不尽で馬鹿げた思いだった。僕にそんなことを思う資格はなく、彼女にそれを伝える資格もない。
 死ねばいいのは僕のほうなのだ。死ななければいけないのは彼女ではなく、僕なのだ。
 真相を全て知りながら、僕は口を閉ざしたままでいる。なんて非道だろうと自分自身を嘲笑するも、重い口を開くには至らない。彼女の傍にいると、自分の判断が鈍るのがわかる。距離を置けばいいと思ったが、彼女はかまわずにどんどん近づいてくる。それは刃と刃を交えるような緊張の糸にも似たやりとりだった。精神の外で苦しんでいる彼女の双子の兄のことを思うと罪悪感が湧いたが、僕にはどうすることもできなかった。僕のことなど怖くないと、たった一つの約束が欲しいと、優しい微笑みで僕を許す、その存在にどうやったら傷をつけることができただろうか。心を巣食っていた感情と《呪い》であるという現実から冷厳を気取っていた僕が、なにも知らない彼女の喜ぶような言葉を囁いてあげれたことはそうなかった。彼女が全てである僕という呪いの人生において、彼女との関係ほど薄情だったものはない。真実をひた隠しにし、ときには脅すようなこともし、わざと突き放す言葉を投げたこともあった。彼女が抱くこととなる真実を知らせるのが嫌だった。
 このまま、なにも知らないまま、上手いこと運命が回ればいいと思った。やっと幸せになれそうなのだ。愛しい半身と友人たちに囲まれ、このまま普通の娘として、当たり前のように大人になり、双子の兄と同じく年を老い、不運と決定づけられた人生を振り払って、笑い続けてほしかった。


 貴方が傍にいてくれて本当によかった。
 彼女の言葉を思い出すと、とうに僕を支配していた感情が泣いた。


 もう二度と、あのたおやかな声を聞くことはない。綺麗な目で見つめられることも、可憐な微笑みを見ることもない。そんな彼女が最後に残した言葉の欠片は、良くも悪くも、僕の心臓を感じさせた。
 死の呪いである僕が彼女を犯している――そんな絶望を何年も抱いてから初めての救いの光だった。
 絶望などと笑われるかもしれないが、僕はあくまで彼女の死を望んだことなどなかった。露ほども。
 彼女が狂わされてから――生を受けてから十六年。十六年も傍にいた。真っ白い赤ん坊が可憐な少女になるまでのあいだ、ずっとずっと隣にいたのだ。
 情が湧かないわけがなかった。
 無垢な微笑みが愛しかった。胸を締めつける不安が可哀想だと思った。ようやっと自分の肩ほどにまで伸びた小さな少女が、あどけなく表情を変えるのが面白かった。
 誰かが言った。最初から全て決まっていたかのように、ある日突然ぴったりと嵌まるのが恋なのだと。そういう感情が恋なのだとしたら、僕が抱くこの感情もまた、恋だったのかもしれない。
 支配したいわけでも抱きしめたいわけでもない。そんな欲が一つもないのかと聞かれれば嘘にはなる。けれど、僕は決して、彼女を自分のものにしたいだとか、そういった感情は抱いてはいなかった。
 そも、僕らがずっと共に生きていけるなどとは思っていない。いつか彼女は僕の見た目の歳を追い越し、別の男と結婚して、そして年老いて死んで、僕は取り残されたまま死ぬ。どっちにしろ今のままではいられない。抗いたいとも思わない。
 けれど、だけど、僕は愛しかったのだ。焦がれるとも、憧れるとも違う。ただ、惹かれていた。真っ暗闇のなか、自分と同じ深いところまでに堕ちた彼女が、淡い光で僕を包む。彼女はまさに月のような存在だった。
 彼女の考えていることなんて、僕には一生理解できないに違いない。それは、まだ赤ん坊だったたとき、災厄の予言を貰った彼女が、絶望の顔色を貼りつけた親に目もくれず、僕に向かって笑顔で手を伸ばしたことから、わかりきっていたことだった。
 どうしてそんな無垢な目で僕を見るのだろう。どうして笑いながら手を伸ばせるのだろう。どうして僕にありがとうなどと言えるのだろう。どうして忌々しい呪いを庇い、世界と別れを告げることができるのだろう。

 アイジー。僕の人生の全てであり、たった一つだけだった奇跡と残酷。僕の残酷は呪いという嫌忌から始まり、けれどそれは、愛しい姿をしている。

 君という奇跡をなくした体は冷えていく。横たわる視界からはなにも見えない。閉じられた瞼の奥のバイオレットグレーは、いま、どんな色をしているのだろう。
 微睡むような精神世界を彷徨うのはもう終わりだ。涙で燃やされる遺体と共に、僕も君の後を追うとしよう。
 ぼんやりと彼女の心臓が死んでいくのがわかった。約束を守れなかったのが心残りだった。消えていく彼女の残骸が、僕の心の感情をまた惑わせる。これ以上は切ないから終わりにするけれど、僕も君の傍にいれて、本当によかった。

 死なないで。

 ふと、声が聞こえた。この声はなんだろう。聞き馴染みはある。彼女が慕った者のなかにある声だ。
 死ぬな、死ぬな。切羽詰まった声は僕の意識を持ち上げる。彼女が、沈んだものが、甦っていく。
 そう、甦りだ。
 それも無理矢理に。
 圧倒的な力で僕らは呼び戻される。そこに光はなかった。彼女じゃない。彼女を救ったあの少年でもない。けれどこの声は彼女を呼ぶ。同情でも悲哀でも切願でもない、けれどそれら全てに当て嵌まる。圧倒的な、強制力。



「死ぬな、生きろ! 生きるんだ! 死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな、死ぬな、死ぬな死ぬな!! “死ぬな”!!」








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