ブリキの心臓 | ナノ

1


 生まれてきた片割れが小汚いイベリコブタだったらよかったのに。

 月のような揺りかごのなかで安らかに眠る双子の赤ん坊と、その片割れだけを甘い顔であやす自分の夫を見て、イズは憤慨するように心中で呟いた。勿論腹を痛めて産んだ我が子は世界で一番可愛く、そして底なしの愛しさを感じている。双子の兄ほうはいずれシフォンドハーゲン家の立派な跡取りとなるだろうし、それを想像しただけで胸には高鳴るものが生まれた。自分とオーザに似た美しい少年が、優雅な身のこなしで、煌びやかな微笑を湛えている。母親としてはこれ以上ない名誉だった。
 しかし、問題は双子の妹のほうだ。
 イズが身篭ったのは双子の兄妹だったのだ。イズ自身は我が子がいっぺんに二人も産まれたのだから、変な言い方をするなら“得をした”とすら思った。女親が息子を可愛がるのは自然な流れだが、歳が経てば経つほど娘が欲しくなるのは目に見えている。話や趣味が通じる子供がいるというのはそれだけで楽しいだろう。娘が成長し、自分やオーザに似て美しい少女に育ち、そして大人になったときに、真っ白いクロッシェレースやたっぷりのフリルを施されたウェディングドレスを着て、華やかに微笑んでいる――その姿を想像するだけで恍惚に溺れてしまうようだった。そんな素晴らしい未来を与えられた娘が可愛くないわけがない。
 しかし、この夫の反応はあんまりである。いっそ娘がイベリコブタなら良かったのだ。そうしたら、今のこの娘の可愛さに、頬ずりをしたくなるほどの幸運を見いだせるだろう。
「貴方の目は節穴ですか?」イズは極めて厭味な声でオーザに言った。「私たちの赤ん坊は二人いますのよ?」
「わかっている」
「いいえ、わかってらっしゃらない」
「わかってないのはお前のほうだイズ。早く娘にかまってやったらどうだ」
 ここで激昂しなかった自分を褒めてやりたいとイズは思った。
 夫のオーザはどういうわけか息子のほうだけを猫可愛がりしていた。確かにシフォンドハーゲンを継ぐのは息子のほうではあるがにしたってあんまりな扱いの差である。娘を蔑ろにするなど父親のすることではない。激しい憤りを覚えたイズは刺々しい声でその背にぶつける。
「どいてくださらない? あやすだけしか脳のない父親と違って母親にはしなければならないことがたくさんありますのよ」
 イズがそう言うと今の今まで暢気にも饒舌だったオーザの口がぴたりと止まった。それに少しだけ愉悦したイズは我が子の顔を覗きこむ。
 本当に愛らしい我が子だった。この雪のように真っ白い柔らかな皮膚の下には自分と同じ高潔な血が流れている。それはまるで幸福の香りがするかのようにイズの心を掴んで離さなかった。いつまでも見ていられるほどだ。この双子の我が子を眺めていると時計の音ばかりが耳に残る。ミルクのように甘い息をする様を、イズはこれ以上の幸せなどないというふうに見つめていた。けれど自分の隣で娘を蔑ろにする男がいると思うと、娘に向けられるその感情は愛おしさではなく痛ましさに変わってくる。この子とあの子の違いなど性別の違いしかないというのに、いったいなにが気に食わないのか。気に食わないというよりも、どうでもいいのかもしれない。オーザの頭のなかにはシフォンドハーゲンを継ぐか否かの二択しかないように思われた。そしてその選択に引っかからなかった娘が彼の意識から消えただけ。その程度の認識なのかもしれない。
 もしかしたら娘を守れるのは自分だけなのかもしれないと思いながら、イズは決心した。自分だけは彼女を傷つけないでいよう。どれだけ彼女に不満を抱いても、怒りを感じても、それをぶつけないようにしよう。ちゃんとした教育をして成長すればオーザだって見返すことは容易い。なにより自分の娘なのだ。美人に育たないはずはなかった。
「そういえばイズ。もう息子の名前を考えたぞ」
 だからどうしてこの男はそういう大事なことを軽々しくと言うのか。イズは半ば呆れながら、そして自分を除け者にした怒りとどんな名を与えたのかという期待を胸に、実に言葉にし辛い表情で「なんという名ですか」と答える。
「エイーゼ。エイーゼだ。良い響きだろう」
 確かに良い響きだった。柔らかな音が耳を抜けて脳に音楽の調べを生む。その名を呼んだときの口どけの良さといったら、どんなものよりも甘美に思えた。
「素敵ですわ」それはイズの本心だった。「では、娘のほうは?」
 そう尋ねたときのオーザの顔に、イズはまた愕然とした。微妙に眉を吊り上げてわざとらしく咳をする。まさかとは思うがそのまさかなのだ。オーザは双子の妹、娘のほうの名前をちらとも考えていなかった。
 イズの烈しい批難の目に、オーザは「ならばアイジーでどうだ。エイーゼを異国の発音に直すとアイジーになるらしい」とまるでいかにもなことを言うような態度で返してみせた。
 もし今イズの手に短剣があるならそれでオーザの心臓を貫いていたことだろう。夫殺しの汚名を着ることがそれほど醜くないようにも思えた。こんな薄情で気取り屋で人でなしな男に一分一秒だって我が子を目に入れてほしくない。これからこの男を交えた“家族”を過ごさなければならないのかと思うと眩暈がした。思い描いていた幸せに罅が入る音がするのを感じる。
 イズが低い声で罵倒しようとしたまさにそのとき、オーザが胸元から、二本のスミレの花を出してきた。
 潰れないように注意してきたのであろう、その花は萎れることも折れ曲がることもなく、野原に凛として咲くそのままの美しい姿で彼の手の中で生きていた。露に濡れて緑の柔らかな茎がきらきらと輝いている。上品な香りを匂わせるその花を、エイーゼとアイジーの枕元に一本ずつ寄せた。まるで絵画の中の天使を見ているような光景だった。
 イズはオーザへと視線を移す。
「遣いに行かせたのだ。この優美な青紫の花の美しさときたら」愛おしそうに、その絵画の中の天使を見遣る。「まるで二人の瞳のようだとは思わないか?」
 バイオレットグレー。瞳らしい抑えられた彩度の果てにある、飲みこまれそうなほどの綺麗な煌めきを見せる、二人の双眼。今は瞼に閉じられているが、初めてそれを見たときの感動と言ったらなかった。オーザもきっとそれを覚えているのだろう。少年のようにその花を寝かせる姿は年甲斐もなく無邪気に思えて、さっきまでの苛立ちは風に吹かれるよりも簡単に消えてしまった。
 二人に会えてからまだ一年目にもなりえていない。この可愛い我が子を愛せる時間が、まだ何十年と残っている。いくつもの麗かな木陰と、いくつもの劈く日差しと、いくつもの紅い木々と、いくつもの凍てつく花を超え、その輝かしい幸福に満ちた人生をこの目に焼き付けることが出来る。その幸せを口にしたかった。言葉として伝えたい。早く二人に知ってほしい。自分がどれだけ、あなたたちのことを愛しているのか。
「明日グリムへ行こう」
「……預言者のところへですか?」
「そうだ」
 イズの問いかけにオーザは頷いた。
 そういえばまだガチョウ婆さんのところに予言を貰いに行っていなかったのだ。ガチョウ婆さんとは、この国に生まれた者は皆、人生に一度はお世話になっているだろう占い師のことだ。一体いつの時代からそこにいるのかはわからない。しわがれた老婆の姿をしたまま、何年も何十年もグリムの円形広場にいる。生を受けた人間は皆ガチョウ婆さんに会いに行き、これからその赤ん坊がどんな人生を辿るのかを予言してもらうのだ。ただの占いと侮ってはいけない。このガチョウ婆さんというおかしな老婆の言うことは、どれも怖いくらいにぴたりと当たる。オーザなどは将来結婚する相手のことを言われたらしく、幼い頃からずっと、自分の結婚相手を夢見てきたという。そしてイズを見た瞬間、まさにぴたりと当てはまった。黄金のようなブロンドに薄紫色の瞳。予言された家名まで当て嵌まったらしく、このときばかりは恐ろしく感じたものだ。
「私とお前の子だ。きっと素晴らしい人生を囁かれるに違いない」
 イズは我が子の頬を撫でる。とくとくと微弱な、小鳥が歩くような小さなリズムを刻む脈が心地よいほど愛おしい。この心臓が止まろうものなら、きっとそのときは悲しみのあまり、自分自身の心臓すら止まってしまうだろうと思えた。オーザはイズの肩を抱いて揺り籠の中を覗きこむ。それはまさしく人生における奇跡のような温かい存在だった。
 オーザの確信にイズも同じ気持ちでいた。
 どれほどにも代えがたい、想像もしきれないほどの素晴らしい人生が待っていることだろう。貴族という確固たる地位もある。親に似た美しい顔もある。きっと誰もが羨むような輝かしい幸福が待っているはずだ。世界中の誰よりも恵まれ、劣等感や不幸、悲しみや不安のない、永久に続くような幸せな未来がこの双子に待ち受けている。オーザとイズはただ想像するだけでよかった。運命は正しかったのだと、明日になればわかることだ。

 どんな声で互いの名を呼ぶのだろう。
 どんな顔で微笑むのだろう。
 どんな友達が出来て、恋をして。
 どんな大人になるのだろう。

 未だ知れぬ先の人生をそばで見守り続けることが、きっとこの生涯のなかでの一番の幸福だ。





きっと幸せな宿命



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