ブリキの心臓 | ナノ

1


 生まれてきた片割れが小汚いイベリコブタだったらよかったのに。

 もちろん、腹を痛めて産んだ愛しい我が子が、そんな自分や夫と似つきもしない呆れ果てた姿だったとしたら、いくら自分が世界にたった一人の母親であるとしても、絶望に卒倒してしまうのは明白であることを、イズは知っている。そして、やはり父親である夫も自分と同じく、我が子がイベリコブタで喜ぶわけがないことを重々理解している。
 夫のオーザ=シフォンドハーゲンの元へ嫁いでいって、二年ほどだろうか。イズの腹に子供が宿っているとわかったときには、オーザは柄にもなく泣きながら喜んだものだ。
 シフォンドハーゲンは、有力貴族や特権階級の中でも最上級の地位を得ているといっても過言ではないほどの大名家だ。その名前を一言口に出せば、大抵の名家は顔を綻ばせる。シフォンドハーゲン家にお近づきになれるのを、喉から手が出るほど待ち侘びているからだ。イズの家系もそのくちで、イズがオーザ=シフォンドハーゲンに見初められたときには両親は感涙に震えたものだ。イズ自身も、そういう地位目当て抜きに夫を愛しているとはいえ、シフォンドハーゲンの名を冠することに、先の人生に薔薇色の幸福を見出だしたことがある。イズの実家の家系もそれなりの名家だ。少なくとも、社交界のパーティーでは誉めそやされたし、不自由のある生活を送った過去は一度とてない。しかし、そんなイズですら、シフォンドハーゲンの地位には果てしない憧れがあった。
 政治的特権に膨大なる資産、蜘蛛の巣のような人脈や安定した発言力。その全てを当然のもののように掲げることができる。これほど素晴らしいことはない。それどころか今度は、十数年後、自分の息子がその全てを当然のもののように引き継ぐのだ。女として、母親として、最高位の名誉だろう。
 夫の腕に抱かれる真っ白い赤ん坊。
 イズが産んだ息子、いずれはシフォンドハーゲンを継ぐことになる息子、エイーゼ=シフォンドハーゲン。
 オーザはエイーゼを猫可愛がりしていたし、シフォンドハーゲンを継ぐ者として多大なる期待をかけていた。もちろんイズもエイーゼを可愛がっている。女親は息子を特別愛おしんでしまうものだ。けれど、オーザはそれ以上に息子を可愛がっている。ときめきも薄れたイズからしてみれば、無性に気障ったらしい高慢ちきの男と言わざるを得ない夫は、誰の目を憚ることもなく、緩んだ顔で息子の顔を覗きこんでいる。これは少し異常なことだ。
 いや。
 もしかすると異常ではないのかも知れない。
 誰だって我が子は可愛い。それもいずれシフォンドハーゲンを継ぐとなる息子なのだとしたら丁重に扱うのは当たり前だろう。
 問題は、“もう一人の子”についてである。

 エイーゼの双子の妹、アイジーだ。

 イズが身篭ったのは双子の兄妹だったのだ。
 イズ自身は我が子がいっぺんに二人も産まれたのだから、変な言い方をするなら“得をした”とすら思った。
 女親が息子を可愛がるのは自然な流れだが、歳が経てば経つほど娘が欲しくなるのは目に見えている。話や趣味が通じる子供がいるというのはそれだけで楽しいだろう。娘が成長し、自分やオーザに似て美しい少女に育ち、そして大人になったとき、真っ白いクロッシェレースやたっぷりのフリルを施されたウェディングドレスを着て、華やかに微笑んでいる――その姿を想像するだけで、恍惚に溺れてしまうようだった。そんな素晴らしい未来を与えられた娘が可愛くないわけがない。
 しかし、父親であるはずのオーザは、双子の娘であるアイジーのことをどうとも思っていなかった。これだから男は、とすら思った。シフォンドハーゲンを継ぐ子供はただ一人。そして、それは息子のエイーゼだ。アイジーではない。シフォンドハーゲンを継ぐであろうエイーゼだけを猫可愛がりし、娘のアイジーをイズに任せっきりにしている。愛情がエイーゼに偏っているからだろう。二人の子供に対する反応を見れば、火を見るよりも明らかだ。オーザ本人は“父親が娘に対する反応に戸惑うのは当然だろう”などとあくまでシラを切っているが、そんなセンシティブな理由が起因ではないことに、イズはちゃんと気づいていた。第一に、名前をつけるときだってそうだ。息子のエイーゼには高貴で並一通りでない素晴らしい名前をと張り切っていたものだが、娘のアイジーはどうだろう。息子の名前が決まった途端、名づけという娯楽に飽きてしまったかのように無関心になり、適当な名前をつけてしまった。“エイーゼ”というスペルは別の国では“アイジー”と呼ぶらしいぞ。そんなことを淡々と言ってみせたのだ。エイーゼとアイジー。スペルを変えて名づけたものの、これではアイジーは、エイーゼの付属品のようじゃないか。
 アイジーはエイーゼの双子の妹だ、影武者でも分身でもない。
 いくら双子と言えど、そんな適当な名づけかたはない。あんまりだ。しかも、そんな淡泊な態度を取っているのを、オーザは父親だからとのらりくらりかわしている。実に腹立たしい。娘が面倒なら面倒と、邪魔なら邪魔と、そうはっきり言えばいいのに。やはりアイジーがイベリコブタならよかったのだ。そうすればオーザは不愉快な申し開きをすることなく真実を吐かせることが出来る。その真実がアイジーの幸せではないことを、イズはもちろん知っていたけれど。
「まだ着かないのですかオーザ」
 馬車に揺られながら、可愛い息子を抱くオーザに、対面に座ってるイズが言った。
 馬車から覗く空模様は相変わらず薄暗い。鉛色の雲が辺り一面に広がり、地上に深い影を落としている。薄紫色の空気は酷く閑静で、馬車の音と馬の嘶きしか聞こえない。
 貴族の街・アイソーポスを出て、庶民の街・グリムまで来たというのに、特有の野蛮めいた騒ぎをとんと耳にしない。
 野蛮とまで忌避したのは、実際に貴族の者は、庶民を野蛮だと思っているからである。庶民と貴族の確執は酷く、また、互いを毛嫌いしている。
 大方、この無駄にきらびやかな馬車を見て家に篭ったのだろうと、イズは推測していた。
「心配するな。もうすぐ着く」
 少し間延びした気だるげな声でオーザは言った。
 この男は本当に顔だけだとイズは思った。
 髪は自分のものより淡い色をしていて、瞳の色も優しいアイスブルーだ。思えばこのアイスブルーの誠実そうな眼差しに騙されたのだと、イズは首をゆるゆると振る。まず整った顔立ちをしていて、おまけにシフォンドハーゲンの次期当主。少女時代のイズが心奪われたのは無理もないだろう。しかし、この男は顔だけだ。本当に顔だけなのだ。紳士的でレディーファースト精神を忘れないし、イズはオーザを尊敬もしている。しかし、彼はそれ以上に傲慢で、おまけに妙に気障だ。変に気取りたがるし、子供っぽくもある。妻であるイズがどれだけ苦労しただろう。思い出すだけでも心臓を熱く奮わせるものがある。
「ほら、着いたぞ」
 そう言い切らないうちに馬車が止まる。
 どうやら目的地の円形広場に着いたらしい。
 召し使いが馬車の戸を開けるのを待ちながら、オーザは少し微笑んで言った。
「せっかく外に出たんだ。《占い》が終わったら、お前のために花を買うとしよう。好きなのを選ぶといい」
 こうして上手にご機嫌取りまでするのだから本当に小憎らしい。そうはわかっていても、愛しい夫からの贈り物だ。イズは少女のようにはにかんだ。

 庶民の街・グリムにいるガチョウ婆さん――それが有名な預言者を指す全てだった。

 この国に生まれた者は皆、人生に一度はお世話になっているだろう占い師だ。一体いつの時代からそこにいるのかはわからない。しわがれた老婆の姿をしたまま、何年も何十年もグリムの円形広場にいる。
 生を受けた人間は皆、ガチョウ婆さんに会いに行き、これからその赤ん坊がどんな人生を辿るのかを予言してもらう。ただの占いと侮ってはいけない。このガチョウ婆さんというおかしな老婆の言うことは、どれも怖いくらいにぴたりと当たる。オーザなどは将来結婚する相手のことを言われたらしく、幼い頃からずっと、自分の結婚相手を夢見てきたという。そして、イズを見た瞬間、まさにぴたりと当てはまった。黄金のようなブロンドに薄紫色の瞳。このときばかりは恐ろしく感じたものだ。
 イズの叔父も赤ん坊の頃に占いを施され、そしてそこで、《白うさぎの呪い》に蝕まれていると告げられたらしい。時々――時々現れるのだという。生まれながらに呪われた人間が。
 そして、それを拒む術などその時代にはなかった。《白うさぎの呪い》は、なにかに取り憑かれたように時間を気にし、いつも追われるように走り回ってしまう呪いだ。もちろん、その行動に意味などない。あるのは忌みだけ。そういう、呪いなのだ。おかげで叔父は精神的な過労により、イズが十にもならない頃に死んでしまった。その予言の恐ろしさに、呪いの悍ましさに、イズは酷く身をすくませたものだ。
「相変わらずの出で立ちですね。私が数十年前に来たときとなんら変わっていない」
「あのばあさんは容姿すら変わらん。テントの一つでも変わっていたら歴史的古物財産がとうとう博物館に出されたということだ」
 円形広場にそびえるエメラルドのテントを見て二人はそれぞれ口にした。
 孤高の幻のようなその存在は、薄紅色の石畳の上で神聖めいた佇まいをしている。金色の糸で月や狼の刺繍が施されたそのテントは、怪しい雰囲気がそこかしこから漂ってくる。
 腕に抱く双子の子供に目をやったあと、二人はテントの中へと入って行った。
「――よく来たねぇ、そろそろ来る頃だと思っていたよ」
 しわがれた声に出迎えられた途端、ハナハッカとローズマリーのような匂いのする香が鼻腔を突いた。いつも焚かれているそれはこの数十年全く変わらない。貝殻と鉱石で出来たカーテンや銀色の枝葉を持つ植物。不思議な煌めきを持った骨がそこかしこに並べられ、珊瑚のシャンデリアが小さな光を発している。その真下でにやにやと笑う年老いた女こそ、預言者・ガチョウ婆さんだった。
 紫檀の机に赤いビロードのクロスを広げ、そこで手を組んで座っている。アメジスト色の幾重にも流れるローブと頭巾、胸元には黒真珠の首飾り。いかにも占い師ですと言わんばかりの老婆が、自分の元へ来るのを促した。
「ふむ、お前はたしか、先代のシフォンドハーゲンのせがれだねぇ……次は双子かい。めでたいことだよ」
「ありがとうございます」
「大昔は、男女の双子は不吉だのなんだの言われていたが、あんなのは迷信さね。間違っても捨てるんじゃないよ」
 まだ赤ん坊なのに男女の双子だとわかるのか――そのことにイズは感心した。やはりこの預言者は本物だ。
「……これはこれは。たまげたよ」赤ん坊の顔を覗きこんだ預言者は、楽しそうに続ける。「こりゃ美しく育つ双子だよ。お前さん二人のいいところをよぉく受け継いでいる。容姿の心配はまずしなくていいだろうよ」
 実を言うと、イズもオーザも、我が子に対して容姿の心配はしていなかった。
 両親である二人ともが、自分の容姿が悪くないことを知っていたし、さも見目麗しく成長するだろうと確信もしていた。
 いずれこの双子は大人になり、麗しい男と女になる。エイーゼはシフォンドハーゲンの権力を手中に収め、アイジーはその美貌で社交界のスターになりそしてどこぞの家へと政略的に嫁ぐのだ。絶対の富を約束された双子にそんな心配は杞憂も同然だ。
 その心中を察したのが、預言者は快活に笑う。
「……ただ少し心配なのが、男の子のほうだろうかねぇ。身体が弱い……命の危険はないが、お前さんの望むような体術は期待出来ないだろうよ、オーザ」
「なっ」
 その言葉にオーザは愕然とした。イズも息を呑んだものの、命の危険はないという言葉に安堵の表情を見せる。だいたいオーザは高望みなのだ。愛しい我が子になにをさせる気かと、イズは憤慨した。
「なっ、何故……何故エイーゼはそんな……」
「何故もなにもないさね。全ては全て運命…………おや、れは、なんと!」
 言葉の途中で急に預言者が大声を上げた。
 顔はよく窺えないがアメジストの影からは目が見開いているようにも思える。
 数度「これは」と繰り返して身を赤ん坊に近づけさせた。何度か口を開こうとし、そして思い悩んだようにつぐむ。それを四回ほど繰り返して五回目、やっとこさ預言者は「これは大変だ」と切り出した。
 嫌な予感がする。
「なにが、大変なんですか」
「これは、滅多にないことだ。きっと千年に一度だろうよ……まさかよりにもよってシフォンドハーゲン家からこんな呪われた子が出てしまうとは」
 “呪い”という言葉にイズは顔を真っ青にする。
 呪い――イズの叔父にも告げられた呪い。その呪いのせいでイズの叔父は死んだ。そして、そのような忌むべき呪いが、我が子にも告げられようとしている。
 預言者は続ける。
「それも並大抵の呪いじゃないね。酷い運命だ……可哀想だが、どうしようもない」
「そんな馬鹿な! 一体どんな呪いを!」
 オーザは血を吐くような声を上げた。
 預言者は首を重く振って、なすすべもないと紡いだ。
「一方が生きれば一方は死に、一方が死ねば一方は生きられる」
 それは、死の呪いだ。
 双子のうちの、片方しか生きられない、あまりにも残酷な呪い。
「預言しよう。片方が生きているからこそ片方は蝕まれ――二十歳の成人を迎えるまで、どちらか一方が死ななければ、もう一方が死んでしまう。どちらかを、選ばなければならない」
 死ななければならない――愛しい我が子のうちの一人が。
 イズは二人の赤ん坊の顔じっとを見つめる。どちらも雪のように真っ白く、天使のように愛らしい。ピンク色に染まる頬はあまりにも美しく――イズの胸をナイフでえぐった。こんなに可愛い子のどちらかが悪魔だなんて、そんなこと信じられるわけがない。イズは涙を流す。
 ふとオーザを見た。オーザも厳しそうな顔をして赤ん坊を見つめている。けれど、イズは知っていた。どちらか片方しか生きられないのなら、オーザがどちらを選び、どちらを捨てるのかなんて。
 あんまりだ。
 こんなにそっくりの双子なのに、こんな残酷な仕打ちを受けなければならないのか。
「可哀想だが、イズ。これは――」
 片方の赤ん坊がきゃっきゃと楽しそうに笑った。
 この場にいる誰がわからなくとも、母親のイズだけがわかる。
 紛れもなく、娘のアイジーだった。

「災厄の子だよ」

 どうしてアイジーは、まるで返事をするように笑っているのか。たったそれだけで、イズの心はどろどろと崩れていった。





災厄の子



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