ブリキの心臓 | ナノ

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 エイーゼをいつも憑いてまわる、嘲笑の感情が確かにあった。朝起きてからも、学校へ通う間も、授業中や休み時間、眠る前にも夢のなかでも。アイジーの前に立ったときはそれは特に強くなる。それはチョークを引っ掻いたような不気味高い声で、後ろ指をさしながらエイーゼに言うのだ。
 愛しい半身の《災厄の子》である気分はどうだ、と。
「気分はどうですか? 坊ちゃん」
 チェリーカットは心配そうな表情で、ベッド近くにあるテーブルに水の入ったグラスを置いた。今晩の冷えこみは相当なものだろうに、グラスは健気にも汗を掻いている。氷が二つ、カランカランと音を立てるのを、エイーゼはどんよりとした目で聞いていた。
「……今は、落ち着いている」
「そうですか」
 普段あどけなく、忙しない彼女であるというのに、これほどまでに覇気がないのは、きっと自分の体に原因があるのだろう。最近ずっと鳴りやまない心臓の悲鳴は大きく早くなるごとにエイーゼを蝕んでいた。チェリーカットとリラ=エーレブルーにしか気づかれていない、気づかせていない。しかしエイーゼの体は間違いなく、果てしない死に近づいていた。
 どうやら自分の体はもうもたないらしい。
 それに気づいたのは秋の半ば、舞い落ちるイチョウの美しい季節だった。
 漆黒の翼を持つ怪物の姿が見えるようになったころには自分の持つ運命とアイジーの抱えるものの大きさに歯痒さを感じるだけの毎日だった。心臓が焼けつきそうなほどの怒りと無力感でどうにかなってしまいそうだ。むしろどうにかなってもよかった。それでアイジーが救われるなら、自分はもうどうなろうとかまわない。
「お父様やお母様には気づかれていないな?」
「学校をお休みにおなられていることでございますか?」
「両方だ」
「気づいておりませんですとも。勿論お嬢様にもでございますです」
 チェリーカットは苦笑して言った。無理をさせているなとエイーゼは思った。
 元来チェリーカットは嘘をついたり隠し事をしたりすることが得意ではない。おまけに小心者で心配性で。いまの状況を強要されて一番気を重くしそうな人間を選んでしまったと後悔した。しかしエイーゼはこの幼いハウスメイドに、アイジーがそれなりに気に入っているということから、全幅の信頼を寄せていた。少なくともエイーゼの悪いようにはしないだろうと、そういう意味での話だが。
「ミス・エーレブルーからのノートの写しが届いていらっしゃいました。またあとで持ってきますね」
「あいつもマメだな……別に苦にならない範囲でいいと言ったのに」
「お優しい方ではありませんか。ちゃんとお礼を言わなければいけませんでございますよ」
 チェリーカットはふわりと笑った。いつも溌剌として笑う彼女らしくない笑い方。そんな顔を見せつけられると、自分がいまどんなことをしているのかがありありと浮かびあがり、本当に嫌になる。自分にはそれほど時間がないことを見せつけられて、怖くて怖くて、けれどそれ以上にやるせない。自分は結局ただの足手まといだったのだと、思い知らされるのだ。
 死ぬのは怖い。死にたくない。
 嫌だ。嫌だ。
 生きていたい。
 けれど、生きることが、愛しい半身よりもそれほど大事なことだろうか。

 精々僕の心臓がでくのぼうになるまでの、ちょっとした賭けなんだよ、ジャバウォック。

 彼を手前にそんなことを言ってみせたが、エイーゼはとうに決断している。アイジーが死ぬくらいなら自分が死ぬ。もう永遠にあれを失うという絶望を抱きたくはない。彼女には生きていてほしい。だって彼女は、一度だって《災厄の子》などではなかったからだ。
 昔からアイジーは無理矢理にエイーゼを遊びに誘っていた。体が弱くてすぐに風邪をひいてしまうような生まれつきろくに遊べないエイーゼに、お父様やお母様に見つかれば大目玉を食らうエイーゼに、アイジーは無邪気に遊びに誘った。なんて我が儘な妹だろうと思った。本当に我が儘だけど、それでも、エイーゼはそんなアイジーに救われていた。楽しそうに幸せそうに笑うアイジーよりも、もっともっと、きっと例え切れないほどもっと、自分の方が楽しくて、そして幸せだった。生まれつき身体が弱くて目一杯遊ぶことの出来ない自分。その殻を突き破って手を差し伸べてくれるのは、他の誰でもない、アイジーだった。
 どこが災厄の子であるだろう。どこが不吉の子であるだろう。
 あれほど無邪気で、幸せそうに自分の名を口遊む、この世にたった一人しかいない自分の半身が、どうして自分に害を及ぼすだろう。
 悪いのはアイジーではない。自分だったのだ。
「坊ちゃんは、死ぬおつもりですか……?」
 泣きたそうな顔をして、チェリーカットが呟いた。緑褐色の瞳が揺れている。
「……アイジーが死んでもいいのか?」
 意地の悪い返し方をしたと思った。チェリーカットは俯いて、それからなにも言わなくなる。
 自分がいたから、アイジーは邸から出ることを許されなかった。自分がいたから、アイジーは十五歳で死ぬことを決定された。自分がいたから、アイジーは塞ぎこんで笑わなくなった。自分がいたから、アイジーはずっと苦しんできた。
 誕生日のあのときはまるで自分が被害者であるような言葉を吐いてしまったが、エイーゼからしてみればアイジーのほうが十分被害者な気がした。ろくに生きることも出来なかった。素晴らしいはずの十五年間をずっと邸で暮らしていた。外に憧れ、友達に焦がれ、ずっと一緒よと幸せそうに笑う妹は、きっと自分よりも生きることが似合っていたはずなのに。

 また、あの声がする。

 エイーゼは胸が痒くなるような絶望に駆られる。あの囁きが地獄の底から這いあがってくる。何度押しつぶそうとしても自分の心臓に棲まう感情の悪魔は息遣いを止めてくれなくて、それだけでエイーゼは泣きたくなった。エイーゼをいつも憑いてまわる、嘲笑の感情が確かにあった。朝起きてからも、学校へ通う間も、授業中や休み時間、眠る前にも夢のなかでも。アイジーの前に立ったときはそれは特に強くなる。それはチョークを引っ掻いたような不気味高い声で、後ろ指をさしながらエイーゼに言うのだ。



 愛しい半身の《災厄の子》である気分はどうだ。



 こんなつらい思いをして生き続けるくらいならいっそ死んでしまいたい。せめてアイジーに悟られる前に、後戻りができなくなる前に消えてしまいたい。彼女を殺すために生まれてきた自分には、死しか有り得ない。自分なんて胎児のときに、彼女の一部となってその心臓に骨を埋めるべきだったのだ。
 アイジーに死んでほしくない。
 アイジーに生きていてほしい。
 こんな兄ですまない。
 僕は大人しく死んでいくから。
 アイジー、僕は死ぬ。もうなにも心配いらない。今まで苦しい思いをさせてしまってすまない。でももう大丈夫だ。お前はきっと、何事もなかったようにやり直せるよ。
 どうせいなくなる僕だけど、足手まといにしかならなかった僕だけど、どうかこれだけは、たったこれだけは許してくれ。

 生まれ変わっても――来世もお前と双子がいいな。





君死に給ふこと勿れ

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