ブリキの心臓 | ナノ

1


「アイジーがその、《名前のない英雄》、か」
「どうしたんだいいきなり」
「アイジーが貴様に呪われているにも関わらず、ある偶然にも《名前のない英雄》だったから、死ぬようなことは万に一つもなかった――そういうことか?」
「そうだよ。気が狂っていなければするはずないだろう? 自分自身を殺すことなんて」
「だろうな」
「自傷行為に及ぶかもしれないと思ってこの十五年と数ヶ月を共にしてきたわけだけど、どうやらそういう兆候があるわけでもない。至って彼女は健やかだ」
「健やかを通りこしたおてんばだがな」
「本来なら彼女が死ぬようなことも君が死ぬようなこともなかった。だというのに、君のだらしのない両親が彼女を邸に閉じこめたから、彼女は塞ぎこんで“異物との可能性”に、“ただの根暗の憂鬱の産物”に、“呪いと向き合った結果”になってしまった。僕と向き合うということは、刃を持った両者が睨みを利かせ交えていることに等しい。一人の人間の中で摩擦が起こることと同意義だ」
「そしてそのツケが僕に回ってきた」
「《ジャバウォック》を殺せば、全ては解決する。アイジーは《ジャバウォック》である以前に《名前のない英雄》だ。《名前のない英雄》の部分が生き残っていれば、アイジーは死ぬことはないだろう」
「つまりお前を殺せば僕もアイジーも死ななくて済むわけか」
「おそらく」
「《名前のない英雄》を、“アイジー=シフォンドハーゲン”を殺したときにはどうなるんだ?」
「どちらにしろ君は助かるだろう。彼女に取り憑いている僕は怪しいけれど、僕は所詮呪いだからね。もし生きていたとしても残留思念のような状態で屍体の彼女に居ついているだけだろう」
「じゃあ……僕を殺した場合は?」
「……僕もアイジーも助かるだろうね」
「そうか」
「君はその可能性を考えているのか?」
「…………」
「君は、本当に彼女に黙っているつもりなのかい?」
「……ああ、ずっとずっと、それこそ墓場まで持っていくつもりだ」
「きっと彼女は悲しむだろう。僕としても、そんなことは望んでいない」
「貴様は案外親切だな」
「僕は彼女自身でもあるから、きっと君を苦しめるような真似は出来ないんだよ」
「だったらわかるだろう? 僕は、僕のためという理由で、あいつに死んでほしくないんだ」
「君はいいお兄さんだね」
「双子だから、兄も妹も関係ないな。あれはもう半身だから」
「そういえば、君は一体いつから現実でも僕の姿が見えるようになったんだい? 彼女は気づいてないみたいだったけど、様子が変だと言っていた」
「誤魔化してくれたか?」
「まあね」
「見えるようになったのは……いつからだったか、秋のはじめくらいか?」
「まさかこんなケースがあるなんて驚きだよ。彼女が知ればさぞや目を輝かせることだろう」
「なあ、ジャバウォック」
「なんだい、エイーゼ」
「僕はあいつに、アイジーに死んでほしくない」
「……だろうね」
「僕はアイジーのために死んでもかまわないとも思ってる」
「それはどうだろう」
「数年間僕が背負った重荷をアイジーにも負わせてやりたい。でも、きっとアイジーはそれを拒むだろう。最終的には、きっとアイジーが決めることなんだ。お前を取るか、自分をとるか。僕を切り捨ててもかまわない。三つに一つで二人に一人だ」
「残酷そのものだな」
「僕が大事なのはアイジーと僕だけだ。だから、アイジーが望むなら、お前は死ね」
「可愛い顔をしてえぐいことを言うね、エイーゼ」
「別に貴様に悪意があるわけでも敵意があるわけでもない。だから、ギリギリのギリギリまで、あいつを頼む」
「君はそれでいいのか?」
「いいんだ」

 精々僕の心臓がでくのぼうになるまでの、ちょっとした賭けなんだよ、ジャバウォック。






 夜は寒かった。寒くて寒くて、アイジーはなにがなんだかわからなかった。すぐさま家に帰って、帰った時にはもう場は冷えきっていて、凄惨な表情をしたイズとオーザがアイジーを迎えた。召使いもハウスメイドも各々顔を曇らせていたけど、誰よりも居た堪れない表情をしていたのはチェリーカットだった。アイジーはエイーゼの姿を探してきょろきょろとあたりを見回す。一緒に来ていたはずのバクギガンがいない理由も、そのあとすぐにわかった。
「状況は?」
「酷い、心臓が委縮している。このままでは消えてなくなってしまう」
「消えてなくなる? なんだそれは」
「知らない、こんなケースは初めてだ、酸素を送り出す機能が低下しているから今は機械に頼っている。薬はもう効かないらしい」
 カラカラカラと、鳥肌が立つほど可愛らしい音を立てて、その震える体が運ばれていく。揃えられるだけの器具を持ってシフォンドハーゲン邸に来たオーレスター=バクギガン医師は、数人の助手と白衣を着たバクギガンに状況説明をしていた。アイジーは顔を真っ青にして、奥から姿を見せる車のついた担架に乗ったエイーゼを、イズやオーザと共に見つめていた。やがて近づいてくる彼に、痺れた足を使って大急ぎで駆け寄り、緊急手術室と化した部屋に運ばれていくのを、懸命についていきながら声をかける。
 言いたいことはたくさんあった。たくさんあって、でもどれ一つとして言葉として出てこない。アイジーは愛しい半身を失ってしまうかもしれないという恐怖に嬲られ涙を流していた。まだ整理しきれていなくて、ただただ不安と恐怖で、混乱した脳みそは声を出せなくて、だからその半身の顔を覗きこむしかできない。
 真っ青だった。まるで蝋のようで、こんなに土気た肌色を見たのは生まれて初めてだった。しかもそれが双子の兄の皮膚だと言うのだから恐怖と焦燥しか湧いてこない。足元がぐらぐらとする感覚にアイジーは眩暈を起こしそうだった。自分と同じ色の瞳は細められて、開いた口からは荒い吐息が漏れている。過呼吸気味なのに、まるで酸素が足りていないという顔をする彼は、誰がどう見ても、死にそうだった。
 死ぬ? エイーゼが? 自分の双子の兄が? 自分でなく、エイーゼ=シフォンドハーゲンが?
 イズが大粒の涙を流しながらエイーゼの名を呼ぶのが見える。その背中をよどよどとした動作で撫でるオーゼの姿が見える。いろんな管に繋がれて近づいてくる死に苦しんでいる、誰よりも愛おしい存在が見える。
 そのしわがれた瞳が見開かれるのが見えた。枯れそうなバイオレットグレーはまっすぐに、アイジーを括目するように射抜く。唇が開くのが見えた。けれどそれは声にならずに血みどろの吐息として飛散するだけだ。
 アイジーはわなわなと唇を震わせる。それは無意識に出た言葉だった。
「え、エイーゼ、わた、私……私……」
 私、私――その言葉の重ね方に、エイーゼの瞳は一瞬で熱を孕んだ。眉を険しくさせて睨みつけながらアイジーの手首を掴む。
「僕のために死んだら許さない……っ!」
 貴方のために死ぬわ。何度と聞いた地獄の言葉。エイーゼはほとんど正気の失せた顔で、息をする肩で、全身全霊で訴える。そんなのはいやだ、許さない、死んでも許さない。
 けれど、その言葉に怒りを覚えたのはアイジーも同じだった。アイジーは唇を噛み締める。瞳からぼろぼろと涙を零して冷淡に言葉を吐く。
「それは、こっちの台詞だわ」
 その震える声に、エイーゼは弱々しく目を見開いた。

「私のために死んだりなんかしたら、一生許さない」

 まるで泥を剥がすように、アイジーとエイーゼは隔てられる。エイーゼは手術室へと担ぎこまれ、アイジーは廊下に立ちつくしていた。イズは泣いたままオーザに肩を抱かれている。詳しいことを聞こうと、メイリア=バクギガンがオーザに尋ねていた。
「どうやらミスタ・エイーゼ=シフォンドハーゲンは日頃から処方箋を服用していたらしく、陰で休学もしていたようですね」
 その言葉にアイジーはギョッとした。そんなの聞いてない。薬、休学。そんなもの、エイーゼから感じたことのないワードだった。
「ああ……どうやら数か月前から私たちに秘密で薬を飲んでいたらしい……鎮痛剤みたいなものでそれほど効果は得られなかったらしいが……毎朝学校に行くふりをして部屋に篭っていたようだ、チェリーカットがそう言っていた」
「チェリーカットが?」
「どうやら休学に手を貸すよう、エイーゼに命令されていたらしい。授業のノートはリラ=エーレブルーが取ってくれていたそうだ」
 意外な人間の名前が出てきてアイジーは戸惑った。しかしそれは尾を引くことなく風化される。
「お父様……私、わ、わた、私……」
 最後まで言うに言えない言葉が無様に宙を舞う。その言葉の続きがわからないオーザではなかったが、彼はその言葉を肯定しきれないでいた。
 エイーゼはシフォンドハーゲンの次期党首だ。アイジーよりも生かすべきはエイーゼだ。だからアイジーは十五歳の誕生日で死ぬ予定だったし、そうやってそういうふうにそうしながら生きてきた。選択が今になっただけでなにも変わらない。アイジーが死ぬべきだ。そう言うだけでエイーゼは救われる。シフォンドハーゲンとしては正しい選択のはずだった。
「……エイーゼの机に、書き物が置いてあった」
「え……?」
 しかし、それを見越してだろうか。エイーゼはその答えに行き着かないように予防策を張っておいた。
「それは、お前が、アイジーがシフォンドハーゲンの当主になったときにやらなければならないことのリストだった」
「私が、当主に?」
 イズは顔を上げた。泣き腫らした目でオーザを見遣る。
「なんですって」
「確かに次期当主に相応しいのはエイーゼだ」
「その通りですわ。第一私は女の身です、女が当主になど」「エーレブルーは代々女が一族を取り仕切る女流貴族だ」
 その言葉にアイジーはハッとなった。それからイズも押し黙る。
「もうシフォンドハーゲンの跡取りを理由に犠牲を押し付けないよう、あれが考えた策だろう」
「……貴方は、エイーゼが死んでもかまわないというのですか?」
 アイジーが口に出さないようにしたことをイズは口にした。薄い色の瞳には女々しい憎しみが募っていた。その瞳を見たことがある。アイジーに災厄の子であると言い放ったときに見せた、失望の孕んだ瞳だ。
 オーザは顔を歪ませる。低い声で「忘れたのか、イズ」と苦しそうに言う。
「私とて、父親だ」
 その言葉にどんな想いがこめられているか正確にはわからなかったが、それを聞いた途端イズが怯んだのをアイジーは見逃さなかった。空気はだんだんと硬直して、音が減っていく。ついには誰も声を上げなくなった。
「準備が整った」緊急手術室からオーレスター=バクギガンが顔を出す。「今からするのは心臓がこれ以上萎縮しないよう中に器を入れるというようなものだ。だがこれが噂の《呪い》による病だと言うなら……あまり期待はしないでほしい」
 その言葉にオーザは頷きながらも顔を蒼ざめさせた。
 バクギガンが呼ばれて、名残惜しげに緊急手術室へと引っこもうとする。しかし、なにも喋らない、なにも主張しない、ただ骨のようにそこにあるだけの、顔を俯かせるアイジーを見て、言い聞かせるように囁いた。
「……早まらないように」
 バクギガンは足早に去った。ドアがバタンと閉ざされたとき、アイジーはなにかを諦めるように笑う。

 大丈夫。早まったりしない。早まることなどありえない。自分が災厄の子だと知って九年間、ずっとそれだけを考えてきたのだ。もう十分なくらいだった。遅すぎたくらいだった。

 アイジーはエイーゼを愛していた。大切な半身、生まれたときから傍にいた人間、自分とそっくりの顔をしているのに、それでもやっぱり哀しいくらい、全然違う双子の兄妹。けれどやっぱり、全てを分かち合い、繋がりがあり、同じなのだとしたら。双子の神秘が、叶うのだとしたら。アイジーがしなければならないのは、選択だ。
「我々は……待機していよう」
 オーザの声でやっと空気が動き出す。召使いもハウスメイドもいそいそと立ち振る舞い、イズがチェリーカットの肩の上に手を置いて「貴女は気にしないように」と呟いた。このことにはチェリーカットも少なからず関わっているので彼女としては立場が悪いのだろう。チェリーカットもその言葉に肩を柔らかくしていたが、依然表情は硬いままで、イズの中にあるおどろおどろしい感情と罪悪感に塗れていた。
「アイジー、お前もこっちに……」
 と、そこでやっと気づく。さっきまで立ちつくしていたアイジーがいない。あたりをきょろきょろと探して見てもどこにもいない。部屋に篭ったのかと思って探すのをやめたとき、ふと、窓に、真っ黒な翼を生やした月光色の髪の少女が、夜の彼方へと飛び立った気がした。





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