ブリキの心臓 | ナノ

1


 ふと陰が落ちた気がした。瞼の裏の白と緑の世界が途端に暗くなる。頬をくっつけているテーブルの上にみしりと自分以外の体重が加わるのがわかった。何事かとぼんやりした眼を開かせれば、途端爽やかな声が鼓膜を揺らす。
「やあ、アイジー。この麗しき天気の日に書架でお昼寝かい?」
 その声にアイジーの意識は輪郭を取り戻す。ぴょんと跳ねさせるように体を起こした。しかし目の前に願っていた少年の姿はおらず、「あら、あら」と戸惑いを隠さずに首を振った。すると真上から笑い声が聞こえてくる。振り向くと、やはり彼がいた。アイジーの背後でテーブルに手をつきながらこちらを覗きこんでいる顔がにんまりと太陽の花を咲かせる。
「シオン!」
「きょろきょろしてるアイジーって本当に面白いね、思わず意地悪したくなっちゃったよ」
「いやだわ、意地悪なのは厄介な二人だけで十分よ。さあさ隣におかけなさいな。私ったら話し相手がいなくてどう頑張っても眠ってしまうんだもの!」
 誇らしげに言うことじゃないぜ、とシオンは言われるがままアイジーの隣の席に腰掛ける。その瞬間薄ら寒さが掻き消されたような気がしてアイジーは少し驚いた。書架内は外の空気よりは暖かいがそれでもやはり肌寒い。隣に誰かがいるというのは思っていたよりも温暖効果を齎したのだった。ベロアのコートを膝にかけてアイジーは椅子に座りなおす。
「ダレンやファルコたちはいないのね」
「ダレンはあっちのほうでユルヒェヨンカやスタンといるよ」シオンは自分の背後、ドアにいっとう近い席を顎で示す。「ファルコはロイスと一緒に護衛官からペナルティ食らってる」
「またなの!?」アイジーは叫ぶように言った。「あの二人の頭って鳥みたい、なんでこうも懲りないのかしら!」
「昔っからのやんちゃくれだからね、あれはもう病気さ、しょうがないよ」
 シオンは、いまごろ寒空の下で《オズ》の全窓拭きをさせられている友人二人の顔を思い浮かべて苦笑いをした。きっと皹を起こしそうになっているに違いない。その様を監視する護衛官の顔色は甲斐のない無表情だろう。容易に想像できるシチュエーションは慣れたもの、普段そういう風景を見ているおかげだろう。全くありがたくもない。
「それで君は瞼を閉じたままでなにをしていたの?」
「もう、やめてちょうだい。私はぼうっとして、そうそう、手紙の返事を考えていたわ。まだ三通も残ってるのよ」
 アイジーはテーブルの上の封筒の数々を見せつけるように手を広げた。シオンはその中の一つを摘み上げてじいっと見つめる。
「さっすがアイジー様だ。どれも男からじゃないか」
「女の子のはとうに返し終わっただけ。楽なものだわ。いま貴族の女の子たちはボーレガード家のセオドルド様に夢中らしいの、適当にそうよね素敵よねって書いておけば満足するんだもの、楽なものだわ」
「えげつないことを言うなあ。君はそのセオドルド様とやらにきゃあきゃあしなくて大丈夫なのかい?」
「私、悪人面の人って苦手みたい」おかしそうに肩を竦めて言った。「そういえばシオン、もうそろそろイレギュラーバウンドの時期じゃない? 大丈夫なの?」
「まあね」
 なんでもないような顔でシオンは返した。それにアイジーは少しだけ安堵した。
 シオンは《バンダースナッチの呪い》に犯されている。怒り燻ると手のつけられない野獣と化してしまう半狂乱の呪いで、災厄の子になりやすい呪いのうちの一つだ。けれど彼はその運命を吹き飛ばす屈強な精神と優しい心の持ち主で、何年も何年もストレスやフラストレーションを溜めこんできた。そのツケ、その限界が回ってきて、いっとう恐ろしい段階の作用に突入してしまうのが《イレギュラーバウンド》なわけだが、その周期がもう巡ってきていたのだ。前回のイレギュラーバウンドはアイジーにとって苦々しい思い出ではあるが、シオンの秘密のようなものに触れることが出来たのを少なからず嬉しく思っている。しかし毎度毎度そう悠長なことは言ってられない。イレギュラーバウンドで一番苦しんでいるのはシオンなのだ。
「でも私とても心配だわ。またシオンなにか我慢してる気がするんだもの」
「考えすぎはよくないね。俺はこの通りピンピンしてるってのに。それよりも心配なのは君のほうだよアイジー。また前回みたいに無茶しでかしてくれるんじゃないだろうな」
 胡乱な目つきをしていてもシオンの意識が自分の肩に向かっていることにアイジーは気づいていた。あの夏の夜、アイジーはシオンに、正しい意味で、食われかけたのだ。もう傷は治っている、けれど傷が癒えた程度で不安が掻き消されるわけがない。シオンにとってこのことはなによりも恐怖に価した。
「今後、あんな無茶な真似をする気なんてないわよ」アイジーは冗談っぽく言った。「それでも不安なら、まずは私の不安を解消することね。シオン、貴方、本当に大丈夫?」
 シオンは苦笑して「大丈夫だよ」と返した。けれどこんな言葉で引き下がるようなアイジーではない。
「なにか……私にできることはない? なんでもするわ」
 出来ればサンドバックになること以外で、と心中でつけ足した。
 アイジーの言葉を聞いた途端、シオンの苦笑が少しだけ歪む。唇は引き攣るように固まって、眉の弓形がいっそう強くなる。それから「アッアー……」と濁すように、不機嫌そうに、口を開いた。
「アイジー、あんまりそんなことを言うものじゃないよ。何度も言ってると思うけどさあ、君は勘違いされやすいんだ、いろいろと」
「待ってよ、なんでいきなりそんな話に変わってしまうの? 私は貴方のためになにか出来ることはないかって聞いただけなのに」
「君は口振りが大げさすぎるんだ」シオンは椅子を引いてアイジーに向き直る、前屈みになって人差し指を突きつけた。「なんでもする、なんてのは向こう見ずで考えたらずな人間の言うことだよ、君はなんでもされてもいいのかい?」
 アイジーはまたいつものよくわからないお説教かと肩を落とした。しかしそういう態度を少しでも見せるとシオンは咳払いをする。せめてもの誠意を見せるためにアイジーは同じく椅子を引いて彼のほうに向き直った。
「もしかしたら俺は君にどんなことだってするかもしれないしさせるかもしれないんだ」ふっと苦笑して眉間の皺を消す。「たとえば君が傷つくようなことをね。俺は君という友達に傷ついてほしくない。アイジーは俺にそんな非道いようなことをさせるのかい?」
 シオンの言っている意味は半分もわからなかったがアイジーは一つ気づいたことがあった。だからむふんと鼻を膨らます勢いで得意げな顔をする。胸の前で腕を組んでアイジーは強気に言った。
「でも私たちって特別な友達だわ」
 その言葉を聞いてシオンは呆気にとられた。
「そう言ってくれたのは貴方じゃないのシオン。私、貴方のどの友達よりも貴方にいっとう近いところにいるのよ。なにを躊躇うことがあるの? シオンのためにおてんばすることなんて慣れてるわ」
 ぽかんと口を開いたまま踊るようなバイオレットグレーの瞳を見つめるシオン。高揚か感動か、星粒でもこぼれ落ちそうな虹彩が震えていた。それから優しげな、それこそ太陽のような笑みを颯爽と浮かべてシオンはアイジーに掴みかかった。シルバーブロンドの髪を耳のあたりから掬い上げ、まるで犬と戯れるようにぐしゃぐしゃと撫でまわす。
「君ってば本当に言ってくれるよなあ、アイジー!」
 このままじゃ髪の毛同士が絡まるだろうと抗議しようとしたが、シオンの楽しそうな顔を見てそんな気も失せた。かろうじて抵抗の表明をしていた真っ白い手がだらんと落ちる。されるがままになるアイジーの顔もふんわりとはにかんでいた。
 そのときどこからか舌打ちが聞こえた。耳のあたりを隈なく弄られていたアイジーは気づかなかったが、シオンだけはぴくりと反応する。わしゃわしゃとアイジーの頭を撫でくりまわしたまま、アイジーの背後にいる少年に目を向けた。シオンは目を瞬かせて、だんだんと手のスピードを緩めていった。そこでようやっとアイジーも異変に気づく。シオンの両手にやんわりと触れて「シオン?」と彼の顔を見上げる。こちらをとうに向いていない彼の眼差しは、アイジーの肩の奥に注がれていた。
 どういうことだろうとアイジーは振り返る。上半身を捻らせて目を対象と通わせた。そこには見るに久しい、アイジーにとっては小憎らしくてたまらない少年が、不機嫌そうに佇んでいた。
「……ゼノンズ」
「やあ、アイジー」わざとらしく愛想よさげに微笑んでから、ゼノンズはシオンへと冷たい視線を向ける。「ケッテンクラート、その乱暴な手を離してもらおうか。女性の髪の触りかたじゃない、アイジーが可哀想だ」
 アイジーのことを全てわかったかのような横柄な態度。挨拶もなしにシオンに突っかかった彼に、アイジーは苛立ちを覚えた。


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