ブリキの心臓 | ナノ

1


 とうとうコートやマフラーなしで外に出るのは耐えられないような寒さになってきていた。窓には薄い氷の膜が花を弾かせるように貼りついている。ふと膜の奥を見つめてみた。どうやら雪が降っているらしい。これは帰るときに一苦労しそうだなと、アイジーは思った。
(なにを黄昏ているんだい?)
 自分の隣に真っ黒い気配がスンと現れるのを感じた。とは言ってもこの気配は自分にしか感じられないものであり、いま《オズ》の構内にいるとはいえアイジー以外に認識できようはずもない存在だった。アイジーは視線を窓の外に向けたまま彼へと囁く。
「もう、こんな季節なのね」
(ああ雪のこと? 今日君は傘を持ってきていないようだけど、大丈夫なのかい?)
「ジャバウォック、母親みたいなことを言うのね」
 アイジーがそう言うと彼は眉を顰める。彼に目を向けていないアイジーもそのことはなんとなくわかったらしい。くるりと窓に背を向けて、廊下を歩き出す。
(ずっと前にも言ったと思うけど、そんなふうに僕を警戒せずに過ごさないほうがいいんじゃない?)
「よくもまあそんなことをぬけぬけと言えたものね、ジャバウォック。私はもう貴方を怖がることはやめたのよ」アイジーは溜息雑じりに言った。「第一、貴方の言うことって結構矛盾しているわ。警戒しろ、君の嫌がることはしない、けれどかまってくれなければ残酷呼ばわりする、怖がらせておいて助けてくれたり、気を遣ってくれたり、まるで躾を施す母親みたいだわ」
 困ったように、しかし得意げに語るアイジーに、ジャバウォックは少し唇を歪ませる。
 アイジーも、ジャバウォックが自分に対し妙な距離の取り方をすることに、なんとなく気づいてはいた。これは《呪い》と呪われた者の関係だとかそういう類じゃないことにも。二人の仲は悪いというよりは良好だし、これは人生をシェアしていると言っても過言でない相手として申し分ないはずだ。しかし、少々上から目線にものを言わせれば、懐いてくれるのは結構なのだが妙なところで線引きするのはやめろ、とこういうことである。アイジーにとってジャバウォックは自分自身であり、けれどやはり自分の存在と同化しているかと聞かれれば首を横に振るような曖昧な存在だ。兄弟とも言える歳をした麗しき青年は、到底自分の体だとも心だとも思えない。彼が自分の心情と不適合なことをすればやはり違和感や嫌悪感が湧く。アイジーは彼の秘密の線引きに、言うなれば辟易しているのだ。
(君は僕のことを家族かなにかと勘違いしているのか。君は僕の母親ではないよ)
「ええ、そうね。貴方の胸にはお母様ほどの立派なものはついていないわ」
 自分自身でも言っていて恥ずかしくなったのか、アイジーは少しだけ赤面した。けれどその朱みを切って捨てるように「でもね」と続ける。
「今や貴方は、エイーゼよりも私と長く一日を過ごす、そんなひとなのよ。そういうこと、少しでも思ったってかまわないじゃあないの」
(僕はひとでないよ、アイジー。君を脅かす《呪い》だ)
「だから、私は貴方に脅かされたことなんて一度もないわ」
 アイジーが強く言うとジャバウォックはそれから次げようとは思わなかった。
 少しだけ首を傾げて、アイジーは流れていく窓のほうへと手を遣る。
「ご覧なさい、ジャバウォック。もうこんな季節なんだわ」
 十五歳になってから、もうすぐ一年経とうとしている。
 あと数ヶ月もすれば、アイジーは十六歳になるのだ。
 十五回の麗かな木陰と、十六回の劈く日差しと、十六回の紅い木々と、十六回の凍てつく花を見てきた。雪も溶けて花が咲いていく時期、十六回目の木陰を過ごせば、アイジーは死んでしまうはずだったあの日から一年を迎える。そう、一年、一年も経った。この一年の間にどれほどのことがあっただろう。長く箱に閉じこめてきた人生が待ってましたと言わんばかりに吹き荒れた花吹雪のような彩の日々。きっとアイジーが掴めなかったであろうすべてが撒き散らされて、そしてそれを手づかみで拾い上げていくような、そんな冒険譚にも似た素晴らしい一年だった。
「いろんなことがあったじゃないの。私、そして私たち。こんなふうにまた来年も過ごせたらいいのにな。いつまでもいつまでも、めでたしめでたし、そんなふうに。だからそんな可哀想な絵本みたいなこと、言わないで」
 ふんわりと可憐に微笑んでみせるアイジーに、去年の今頃浮かべていたような悲壮感はない。愛しい双子と繰り広げた八年にも及ぶ意地の張り合いも、今こうして彼女を強く輝かせているものの一つなのかもしれない。眩ませるわけでも目を尖らせるわけでもない淡い光が、アイジーの周りを泳いでいた。
「こういう暗い話はもうやめにしないとね」くすりと上品に笑ってから、アイジーは人差し指を口元に寄せる。「あーあ、だめだわ、昔の癖が抜けてないみたい。なんでもかんでも大袈裟に考えてしまうのよね。おまけにとんだ悲観者だって、自分でも思うわ。小さい頃はこれでもとても明るい女の子だったのよ。自分でもおてんばしてたなって思うわ。家族みんなが手を焼くような、いい意味でも悪い意味でもお幸せな女の子だったの」
 そんなことはジャバウォックも知っている。ずっと一緒にいたのだから。だからこそアイジーの言葉は、アイジー以上に理解できた。
(そうだね……君は樹にへばりついていた青虫を“食べれるかしら”といってひっ捕らえるような、そんなおてんばな子だった)
「そんな記憶はないわよ! 嘘はやめてちょうだい! 花の蜜ぐらいは吸おうとしたかもしれないけど、流石に虫を口に入れるだなんてそんな……」
(可愛い涎も出ていたな)
「絶対に、ぜえっっっったいに、嘘だわ!」
 アイジーが耳を両手で塞ぎながらに首を振る様を、ジャバウォックは愉快げな目つきで眺めていた。すれ違う人々も何事かと振り返るのだが、相手があのシフォンドハーゲンの娘だと気づくと悪いものでも見たかのようにささっと怯えて無視を決めこむ。しまった、と気づいたころには気遣おうにも周りに人はおらず、アイジーはなんとなく肩を落とした。
「みじめだわ……」
(それで、今日の目当てのメイリア=バクギガンの研究室にはまだ着かないのかい)
「あと少しよ。貴方まだ場所を覚えてなかったの?」
(お生憎、女王様のお部屋の場所には興味ない)
 根も葉もない、というか、あまりにもあまりな言い様だった。この屁理屈男はと思いながら、アイジーは甘やかすかのように返事をするのをやめる。バイオレットグレーの瞳は穏やかに細められた。
「あ」
 そこでアイジーは対面の渡り廊下、向こう側の建物から歩いてくる人間を、窓越しに発見する。それはずっと探していたバクギガンではなかったが、彼女と同等ともいえる相手だった。むしろ《オズ》の謁見のなかではそれなりの位置だろう。もしかすると彼女よりも知識深いかもしれない。だとしても、ペレトワレやルビニエルなどには及びもしないだろうが。
 アイジーは少しだけ小走りになって、彼に近づいていく。角を曲がり、渡り廊下を歩み、小さな会釈をして話しかける。
「副指揮官!」
 ジオラマ=デッド。ここ《オズ》では頭取に次ぐ地位にいる厳格そうな表情の男だ。その実中身は穏やかなところもお茶目なところもあり、わりと見た目がマイナスなイメージを与えていることが多いタイプだろう。あのシェルハイマーやハルカッタですら、散々怒鳴られている彼に決定的な苦手意識を抱いていない。ある程度関わればそのギャップを知ることなんて容易いものなのだ。
「どうした、シフォンドハーゲン」
 傭兵なんぞをしているせいか傷だらけになっているその顔に有るか無きかの笑みを浮かべて、ジオラマ=デッドはアイジーに返した。
「お急ぎでしょうか?」
「ああ、早急に……いや……そうでもない、いや急ぐべきなのだが、そうだな、ああ、大丈夫だ。なんでもない」
 やけに歯切れの悪い返しにアイジーは首を傾げてしまう。ジオラマ=デッドは荒っぽい溜息をついて「本当に大したことじゃない」と言った。
「ただ、また頭取が《オズ》に来ていないようでな。あの軽薄な小僧め、伝達鸚鵡でからかいの一報をくれよって……! 今から護衛官のアルフェッカ=ハイネに捜索を依頼しようとしているわけだ。フン、見つけたら護衛官に顎から砕いてもらわねば!」
 これは相当脳天に来ているようだ。いつも厳格そうにしている顔に更に皺が寄り、これではまるで化け物のような形相だ。ユルヒェヨンカあたりなら泣き出すかもしれない。青臭いころはそれなりに見れたであろう顔が今や化け物のそれだ。これはひどいと思いながらも、彼にこんな形をさせる人間に興味が湧いた。けれど分を弁えようとアイジーは控えめな発言をする。
「そんな大事でしたらそちらを尊重してください」
「いや、あんなやつに時間を割くのも馬鹿馬鹿しい。なにか先に用があるのならそちらを聞くぞ」
「あ、ありがとうございます」
 気を遣わせてしまったかな、と思いながら、アイジーは「あのですね」と切り出す。

「副指揮官は、《呪い》とはなんだと思いますか?」

 ジオラマ=デッド数度瞬きをして、それから「そんなもの……」と滔々と続ける。
「万代不易森羅万象にも属さない、リアルからもイデアからも脱却したと言える、人の精神や身体及びエートスに先天的な害悪を齎す、神話と」「そういうことを聞いているわけではないんです」
 呪いとはなにかと聞かれたとき研究者にとっては最もテンプレートである答え方。それとは別のことをアイジーは求めているのだ。
 万代不易森羅万象にも属さない、リアルからもイデアからも脱却したと言える、人の精神や身体及びエートスに先天的な害悪を齎す、神話と言っても過言でない、未だ解明不可能な概念の通称――呪い。しかし異国ではそれを呪いとは呼ばず、それどころか、害悪を齎すものだとすら認識していないのだという。ある国ではそれを《不治の病》といい、ある国ではそれを《念》という。挙句の果てには《神のご加護》とまで称する地域も存在する。これはつい最近知ったことであり、アイジーにとっては呪いは《呪い》以外のなにものでもなかった。
「もっと根本的なことを、もっと、こう、感覚的なことを聞いているんですの。いいかわるいか、正義か悪か、明るいか暗いか、大きいか小さいか、固いか柔らかいか、有か無か、そういうことを聞いているんです」
 アイジーの言葉にジオラマ=デッドは表情を固めた。これ以上ない問いにぶちあたったかのように、どうしようもない苦悩をぶら下げる。
「それは……むしろ創世問答的な分野にまで意見を伸ばすことになるぞ」
「そう難しいことを聞いているわけではありませんわ。ただ、私たちは呪いを呪い以外の視点で見れないものだから」
「ずっとそんなことを考えていたのか?」
「そうですね……私はもう呪いとはなにかわからなくなってきているので」
 アイジーの呪いは死の呪いだ。名前のない英雄に殺されてしまう、死の呪い。そして同時に災厄の子でもある。その身の呪いのせいで双子の兄に災厄を齎す存在。一年前まで、アイジーが死ぬのは当然のことだった。呪いの意味でも災厄の意味でも。アイジーは死ななければならなかった。いつもいつも考えていた。どうしてアイジーはエイーゼの双子として生きているのか。誰にも求められず、愛されず、エイーゼの疫病神として、どうして生きてきたのだろうか。どうして生まれてきたの――そしてその問いの果てに沈溜していく――死にたくないという思い。死にたくない。やっぱり死にたくない。エイーゼとずっと生きていたい。そしてそれは叶い、アイジーは今も生きている。エイーゼと愛し合い、笑顔に包まれながら生きることを許された。死の呪いの陰りも見えない毎日。解けない災厄の子である謎が唯一の澱みだったが、その存在がまた、アイジーにとっての《呪い》をわからなくさせている。死の呪いに、己の呪いでは考えられない災厄の子である事実。呪いは不幸のはずなのに、呪われていなくても不幸な人間はいる。
「もしかすると、呪いって呪いじゃあないのかもしれませんわ」
 自分でも意味の分からないことを言ったような気がして、アイジーは恥ずかしそうに俯いた。
「だったらなんだと言うのか……悪夢か?」
「眠ってもないでしょうに」
「なら大罪か、禍罪か、どっちにしろそんなところだろう」
 ジオラマ=デッドの返答に、アイジーはなんとなく察した。彼にとって呪いは“悪いもの”なのだろう。その信条が言葉の端々から伺えた。
「なるほど。ありがとうございました。参考になりますわ」
「そうか? ならいいんだが……話は以上か?」
「ええ」
「わかった。では俺は急ぐぞ」
 ジオラマ=デッドはクラシカルなブーツをゴトントンと鳴らしながら去っていく。アイジーはその背中を見つめて手を振った。寒さで足元が竦んだあたりで踵を返す。まだ窓の外は雪の白粒が妖精の落とし物のように降っていた。
(創世問答的、ね)
 アイジーしかいなくなった廊下で、ジャバウォックは憂うように呟いた。
「とても驚かれてしまったわ」
(そりゃあそうだろう。あんな質問するほうがどうかしてる)
「じゃあ私はどうかしてるのね」
(開き直るんだ)
「ちなみに貴方はどう思うの? ジャバウォック。呪いの貴方からして、呪いってなに?」
 ジャバウォックはアイジーのほうへゆったりと視線を移した。それから黄金の瞳を細めて失望するように言う。
「よくないものだよ。アイジー」





素敵な囁き



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