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距離感とは実に掴みがたい。自分の一歩一歩が矮小に制約され、どんな小さな歩幅も大きな影響へと変化していく。足踏みことすらもちっぽけな変化に繋がり、どういった速度が適切なのかは互いの了承でしか計り知れない。距離感とは実に掴みがたい。とても厄介だ。
「せーんせー」
テオドルス=ボーレガードは飴色の髪を揺らしながら壁に頭をついて気だるげに言った。扉は完全に全開していてそこから見えるかぎりの景色において、部屋の扉を開けた人間はこの背の高い少年の他にはおるまい。
ギルフォード校の学び舎には教室とは別に職員の使う部屋が何室か設けられている。校長室や職員室とは別の、教科準備室や応接間、会議室などだった。その中でも教科準備室は社会科学や人文科学など特定の教科の教師のみが使われる部屋で、テオドルスが開けた扉の部屋は人文科学系の教師が使う準備室だった。
そういった部屋に生徒が立ち入るとき、必ずノックや掛け声を必要とされる。それが教師と生徒間の暗黙の礼儀でもあるし距離感でもあった。けれどテオドルスはあろうことかそれを全て吹っ飛ばしてその部屋の教師に呼びかけをした。その部屋には生憎と一人の教師しかいない。彼女は躊躇うことなく振り向いて、その気だるげな声をあげた少年に窘めるような笑みを浮かべた。
「相変わらずですね、ミスタ・ボーレガード。貴方にはノックするための手もかけるための声もあるでしょうに」
「でも扉を開けるための足もそれを固定するための頭もあったもんで」
教師であるキーナ=ペレトワレは小さく吐息した。視線を彼の足元に落とす。仕掛けておいたドアストッパーは蹴っ飛ばされたまま可哀想な影を落として転がっていた。
「その足は地を歩くためのものであり、その頭はものを考えるためのものです」
それにテオドルスが言葉を返そうとしたとき、その声の内容を知っているかのように、ペレトワレは微笑んだ。そしてその声を制するように「それで、なんのようでしょう。ミスタ・ボーレガード」と首を傾げる。
テオドルスは不機嫌そうに顔を顰めたが無視を決め込むことはなかった。扉に預けていた頭を起こして姿勢を正す。
「さっきの言葉の意味、聞こうと思って」
――もう少しゆっくりと。話しかけようにも話しかけにくいでしょう?
「宿題ですよ。ミスタ・ボーレガード。貴方が自分で考えなければなりません」
そう言った彼女は授業に必要そうな書類を漁っている。きっと次の授業で使うものなのだろう。一通り用意したあと、彼女は持てるだけの資料を持って立ち上がる。
「もう鐘が鳴ります。貴方も早く教室に」
「持って行くの手伝います」
テオドルスは小さく言った。しかしペレトワレはくすくすと笑って「無理ですよ」と返す。
「この部屋にも入ってこれない貴方が、ここにあるだけのものを持ち運べるとは思えない」
テオドルスは今まで以上に顔を顰めた。
しかし部屋に入ろうとする足は、寸でのところで止まってしまう。
彼は、彼女との距離の取り方を掴めないでいた。
一度彼女に無断で部屋に入ったことがあったが、そのときは鬼のように怒られてしまったし、かと言ってノックなしで声をかけてもさっきのように許されるようだ。彼女は全ての距離感を計算している。どこで線を引くべきか、どこで壁を除くべきか、その全てを知ったうえでああやって微笑んでいる。
テオドルスは黙ったままだった。そして小さく一歩を踏み出して、彼女から目線を逸らさずにまた一歩踏み出す。彼女の荷物の半分以上を持って、扉のほうへと戻っていく。
「で、どこですか」
ぶっきらぼうに言った。首だけで振り向いて、催促する。
「三階まで」ペレトワレは返す。「そこまででいいです、でないと貴方も遅刻してしまいますからね」
その言葉を聞くと同時にテオドルスは歩き出した。ペレトワレもそれに続くように歩き出す。
テオドルスとペレトワレがいた準備室から彼女の言う“三階まで”にはそれほどの距離はない。歩いて二分、早歩きして一分半、走って一分。歩数で言うなら二百歩強。それほどでしかない。
「速いです、ミスタ・ボーレガード」
けれどそれは歩幅が違えば容易くひっくり返る数字だ。どちらかと言えば歩くのが遅いキーナ=ペレトワレ。どちらかと言えば歩くのが速いテオドルス=ボーレガード。歩調の違う二人は目まぐるしい景色も風を切る音も違う。
テオドルスはちらりと後ろを振り返る。廊下の窓から射しこむ光を浴びて、彼女のブロンドが煌めいていた。
「貴方はいつも大股気味に歩きますね、それは何故ですか?」
何歩も離れたところにいる彼女はテオドルスにそう言った。そこから動くつもりがないのか、彼女はもう歩みを止めている。
「手を上げていない生徒をあてんですか」
「教師にはその権限があります」
「生意気」
「さて、どちらがでしょうね」
首を傾げて笑うペレトワレは余裕そうな声音だった。テオドルスは不機嫌に顔を顰める。
「先生はいつも歩くときに遠慮してますね。なにかに合わせるみたいに。だからそんなにのろまなんですか?」
「随分と辛辣なことを言いますね。貴方と比べれば私はカメのように遅いのですか」
「別にウサギがえらいって言ってるわけじゃないんですよ、後先考えずに進んでくバカなんだから」
「あまり卑下するものではありません」
「はいはい」
「“はい、先生”」
「俺は先生じゃないですよ、先生」
流石にこれにはペレトワレもムッときたらしい。けれど、初めて笑みを崩したというのに、テオドルスはちっとも嬉しそうではなかった。元来人の調子を崩して楽しむような彼がこんな反応を見せるのは珍しいことだった。彼はそんなものよりも、もっと別のものを欲しがっている。
「先生、俺はロマンチストじゃないんで、抱きしめる手も囁く声も持ってない。多分だけどな。だから、質問です。いいでしょう、それくらい。だって、宿題の質問には、教師は答えるべきなんだよ」
彼女は彼を拒みもしない。けれど必ず緻密な落とし穴を作る。その粗を探すのはとても骨が折れるし、遠回りさせられているような気分になる。
距離感とは実に掴みがたい。自分の一歩一歩が矮小に制約され、どんな小さな歩幅も大きな影響へと変化していく。足踏みことすらもちっぽけな変化に繋がり、どういった速度が適切なのかは互いの了承でしか計り知れない。
追いつかなきゃいけないものは彼にとってはのろまなカメでしかなく、のろまなカメにとって彼は夢見るバカなウサギでしかない。話しかけるのはいつも自分からだ。けれど踏み込むことは許されないから棒でガリガリと抉られた線の外で淑やかに声をかけることしか出来ない。ノックなんて意味はない。そんな陳腐な音なんかじゃ、とぼけた相手はきっと振り向かない。
「俺がゆっくり歩いたら、先生は話しかけてくれるんですか?」
距離感とは実に掴みがたい。
とても、厄介だ。
少年はかなしの言葉
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