ブリキの心臓 | ナノ

1


 それは《オズ》第五期研究生の登録式から一か月ほど経ったある日のことだった。風はほんのりとした暖かみを帯び、肌触りもしっとりとしてきたその頃。
 今にも泣き出しそうな空に怯える人々が蕾のままの傘を携えて往来を繰り返している。グリムの薄紅色の石畳から黄色い石畳に変わるまでの道のりには爆発しそうな量の果実が箱に詰められて売られている。ずんずんとその石畳を明るい色のほうへと進んでいくと、気の遠くなるような魔の坂道に視界を占領される。それが《オズ》へと行けるほぼ唯一の道だった。
 《オズ》研究員の平均的な当直時間は一週間に十時間もない。まだ学校に通っているような若者や働き盛りの青年が多いこともあり、用事を終えた午後の数時間や体休めにも飽きた余暇のすぎる休日など、そういうった“溝の時間”に来る者がほとんどだった。中には一日中居座っている護衛官の二人や、歴代の研究員の中でも圧倒的な当直時間を誇るアイジー=シフォンドハーゲン、副指揮官という立場から長時間《オズ》構内にいなければならないジオラマ=デッドなど特殊なスケジュールを持つ人間もいるが、それはごく僅かな人数のうちに限る。第一《オズ》の頭取である筈の人間ですらなかなか姿を見せないのだ。そのあたりの時間的規律が緩いのは当然のことだった。だからこういった雲の重たい休日にわざわざ《オズ》へ赴こうとする人間が少ないのも真っ当な話だ。どうしてわざわざ雨の降りそうな天気の中足が鈍くなるような長い長い坂道を泥つくままに登らなければならないのか。大抵の人間なら首を振って引き返すか家から一歩も出ないに違いない。それは少年、ギーガ=シェルハイマーとニヴィール=ハルカッタもそうだった。
「くそ、こんな坂道じゃ馬車だって通れやしない……さっきから黙りこんでるけど死んでないかい、相棒」
「ギーガ、俺の尻に推進ジェット取りつけてくれ」
「とんでもない屁が噴き出すぞ、やめとくことだ。とにかく、もう半分まで来たんだ、あとちょっとだぞ」
「あんの護衛官の雌豚どもめ……なんでわざわざ休日に来なきゃいけないんだよ、ふざけるな」
「そりゃ池の中にザリガニを放したからだろ」
「そういうお前はタニシ放しただろうが」
「ちょっとしたお茶目にあの雌豚ペナルティーなんか科しやがって……なにが草むしりさ。どんだけ敷地あると思ってるんだ」
「しかもちゃっかりザリガニとタニシは水槽を作って飼ってるんだってよ」
「おい返せ」
「その通り」
 ニヴィールは頷いて、そしてまた一歩強く踏み出した。
 先日、あろうことかこの二人は、護衛官・アリス=ヘルコニーが管理している池に別な生物を勝手に放ったのだ。それを発見した彼女はすぐさま警笛を鳴らし取りつく島もなく彼ら二人にペナルティーを科したのだが、時刻も時刻だったのでそれは翌日に繰り越された。よって二人はわざわざ休日に《オズ》へ赴かなければならないという至極煩わしいことを強いられているのだ。
「思うに護衛官はアルフェッカ=ハイネよりもアリス=ヘルコニーのほうが要注意だ。アルフェッカ=ハイネが厳重注意だと下したものでもあの忌々しきアリス=ヘルコニーの手にかかれば一発でペナルティーだから」
「噂じゃあアンデルセンの馬鹿ども、ファルコ=メイヒューとロイス=イーガンも悉く目をつけられているらしい」
「なに、それは遺憾だな」
「もっと目をつけられるだけじゃなく牢屋にまでぶちこまれちまえばいいってのにな」
 もうすぐ《オズ》に着くからか、さっきよりも口数の多くなった二人。お互いの会話に集中しているせいか、前方にいた一人の少年に気づかなかった。
 どん、と――ニヴィールは何者かにぶつかる。ニヴィールはそれによろけただけだったが、ぶつかった相手はそうもいかなかった。坂道を登っていたそのままの体勢で前のめりになり、石畳の凹みに躓いて大仰にこけてしまう。そのことに一瞬笑いのこみあげてきたギーガだったが非は完全にこちらにある。とりあえず礼儀としての「大丈夫か?」を転倒した少年に囀った。
「ああ、うん、大丈夫だよ……こちらこそごめんね、そっちに怪我はない?」
 座りこんだ体勢のまま少年は振り向く。そばかすの散った顔に盲目的な眼差し、傷んだせいかブルネットの髪は色素が落ちてまるで老成したようなチャコールグレーへと変色している。服は見るからに土臭くて、おまけにボタンがなかったり裾が解れていたりとかなりだらしがなく貧相だ。それでも眉間に皺を寄せるような存在でないのは彼の放つ雰囲気かもしれない。その眼差しといい繊細な表情といい、手を差し伸べてやりたくなるような薄幸そうな独特の雰囲気があるのだ。
 ニヴィールは「いや、ない」とぶっきらぼうに言って、座りこんだ彼に立ち上がるための手を差し伸べた。人でなしではあるが常識がないわけではない。流石にこんな青瓢箪な少年に苛立ちを募らせてもどうにもならないことくらいわかる。だからあくまでも善意で、彼はその少年に手を差し伸べたのだ。しかし少年はそれに見向きもせず――むしろ気にもしていないかのような仕種で早々と一人で立ち上がった。
 その態度にニヴィールはムッと顔を顰める。少年はパンパンッとズボンの汚れを払って「本当にごめんね、次からは気をつけるよ」とハスキーな声で告げた。その言葉も厭味のように感じられ、もう二人の中から善意という言葉は完全に消え失せていた。
「ああ、気をつけろよ。俺のズボンだってこんなに汚れちまったんだからな」
 極めて意地悪そうな声でニヴィールは舐るように言った。ギーガもフッと薄く笑って賛同するようにそうだそうだと囃したてる。
 とは言っても、ニヴィールのズボンは少しも汚れてなどいない。目の前の小柄な少年にぶつかったからといって転倒するような体をしていないのだし、泥なんかがズボンに着くなどあり得ない。ズボン自体はよく見ると汚れたりしていたが、それは彼が過去に遊んだときに自業自得でついてしまったものだから少年は一切関係ない。
 誰から見ても明らかに汚れなどないズボンを見せつけるように、ニヴィールは少年に向かって片足を上げた。
「これ、俺の一張羅だったんだよ。お前の穿いてる襤褸みたいなやつとは比べ物にならないくらい高かったのにな」
 隣のギーガが性格悪そうにくすくすと笑うのを横耳で聞いた。
 この気に食わない少年はいったいどんな反応をするのだろうと思った。先ほど無視をしてくれた仕返しだ。困り果てて顔を歪めればいい。ニヴィールはそう思っていた。
 しかし少年は眉間に皺を寄せて憤慨することも“汚れなどないじゃないか”と訴えることもしなかった。代わりに、バッと彼の足元に跪いて「本当かい!?」と声を悲愴に荒げたのだった。
「そりゃあ本当にすまない……時間はかかるかもしれないけど、僕綺麗になるまで落とすよ……本当にごめんね」
 少年はこっちが罪悪感を抱くほど真摯な表情で、汚れもないズボンを軽くも生真面目な手つきでぱんぱんと払っていった。流石にこれには呆気を取られる。ギーガも目を丸くしてその少年の様子を真ん丸になった目で見つめていた。
 繰り返すが、彼のズボンには汚れなどないのだ。それは見れば誰もがわかるし、明らかな事実だった。それなのにこの少年はお構いなしにズボンを綺麗にしようと齷齪している。もしかして天然を装ったたちの悪い確信犯かと思ったが、どうやらそうではないらしい。ニヴィールは狼狽えるしかなかった。
 しかし、そこでハッとなって気づく。彼の所作の逐一に妙な違和感を感じたのだ。それはギーガも同じなようで、二人して顔を見合わせる。彼らの推測が正しければ、この少年の厭味でいて真摯な態度にも説明がつく。ニヴィールは慎重そうな低い声で「なあ」と少年に話しかけた。

「お前、目が視えねえのか?」

 少年は弾かれたようにばっと顔を上げる。ハルカッタはその目を見つめこんだ。盲目的な――いや、実際に盲目なのだろう――そのまっすぐな双眸は、こちらを向いていても、不思議と“目が合った”という気にはなれなかった。少年は不器用そうに微笑んで頷く。
「よくわかったね。実は、そうなんだ」
「その目でどうやってここまで来たんだ?」ギーガは腰を下ろして少年と同じ目線になるようにする。「一人みたいだけど、馬車で来たのか?」
「いや、手探りで」二人の驚いた顔に少年は気づいていないようだった。「登録式の日は特別に馬車を用意してくれたんだけど、それ以降はそうもいかないらしくって……とりあえず道順を頑張って覚えて、あとは人に聞いたりしてここまで来たんだ」でも、と苦笑するように続ける。「この坂を上るのはどうにも怖くてね、ほら、もうすぐ雨が降りそうだろう? 甘ったるい匂いがするもの。傘を差し始めた人が降りてきたら傘が邪魔になって僕が見えないだろうから、ぶつかるのが嫌だったんだ……結局ぶつかっちゃったけどね」
「一体、どこから……」
「ペローだよ」
 少年の言葉にギーガはぎょっとした。気配で感じ取ったのか、少年はくすくすと笑う。
「だからこんな汚い服着てるのか」
「えー、それを言うのかい?」
「あんなごった返したような街からよく目の見えないお前が出てこれたな」
「昔は見えたんだよ、だからペローの街の中はぜーんぶ記憶してるの。区画整理なんてペローじゃないし、あそこで生きていくぶんにはちっとも困らないよ。こういう遠出のときは別だけどね」
 そう言って照れくさそうにする彼は再び汚れを払う作業に従事した。
 このままニヴィールがなにも言わなければ、きっとこの少年は透明の汚れを永遠に払い続けるだろう。そうしてずっとすまなそうな顔をして、今にも泣きだしそうな空の下、ずっと跪いたままでいるだろう。
 ふとギーガが目配せしてきた。こちらもばつが悪そうな表情をしてニヴィールに訴えかけている。実を言うとニヴィールも同じ気持ちでいるのだ。悩ましそうな声で「おい」と少年に声をかける。
「あ、ありがとう……もういいよ、綺麗さっぱり汚れは落ちた」
 ニヴィールがそう言うと、少年は「よかった」とにっこり微笑んだ。その表情に更に痛ましくなって、二人は思わず顔を逸らしてしまう。少年は少しも気づかなかった。
 少年は立ち上がって「本当にごめんね、それじゃあ」と坂道を登りはじめる。その足取りは拙くて、空気を掻く手は薄く跳ね上がっていた。きょろきょろと探るような首の動きはとても無垢で、そしてだからこそ不憫だった。
 ギーガはすくっと立ち上がる。
「……あ、犬の糞踏みかけた」
「あのまま直進したら門にぶつかるぞ」
「まだ《オズ》に来たばっかりだっていうのに難儀なことだね」
「お、っと……さっきのはギリギリだったな。もう少しで躓くところだった」
 だんだんと自分から遠ざかる背を眺めながら、二人はぼそぼそと呟きあう。そのとき丁度、ぽつんと、ニヴィールの鼻に滴が弾けた。それから堰を切ったようにあちこちで深い色の丸いしみが生まれる。曇り空は雨空へ、今まで溜めこんでいた涙は溢れるように地上の彼らへと降り注いだ。二人は小走りになって坂を登る。
「散開用意」
「計画をどうぞ、サー」
「お前はそのジャケットを脱いで私と目標にかけろ、私は目標の手を引いて目的地に向かう」
「ふざけるな、俺一人だけに濡れろっていうのか」
「ばーか、水も滴るいい男ってやつを一人占め出来るんだぞ、目的地に着いたらたっぷり賞賛してやるよ」
「なるほど、悪くはないな」
「以上、通告完了。これにて計画を遂行する」
「目標まであと十数メートル、怖がらせないように注意しろ」
「おいおい、立場が入れ替わってるだろ!」
 二人は雨の中をどっと駆け出す。そして目の前の盲目の少年の両肩を、優しさの欠片もない力で勢いよく叩いた。





黙って立ち去れないお人よし



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