ブリキの心臓 | ナノ

1


 タールや煤で詰まった酷い煙突の穴はまるで汚物の塊のようだ。ブラシを通すたびにクレオソートが落ちてきてあんまりな状態になる。火事が起きても知らないぞ、というほどにまでいき果てた煙突掃除を終えたブランチェスタは、毛先が酷い有様になったブラシを壁に立てかけた。
 ブランチェスタ=マッカイアは煙突掃除屋だ。朝から夜まで依頼可能、賃金は煙突の内容によって変動するがぼったくるような金額は要求しない。どちらかといえば良心的な価格でサービスを提供する。そう、アンデルセンでも有名な少女だった。
 バケツの中に煤を落としてある程度体を払う。諸事情から全身灰だらけの彼女は誰かの家に入るときは細心の注意を払わなければならなかった。まだ髪やうなじにざらざらとした気持ちの悪い感触を残しながら、しょうがないと割り切って緑色のドアを開けてカランコロンという音を聞く。
「終わったぜ、お客さん。煤受け外れたりしてねーか?」
 扉の中は、色とりどりの世界だった。薬屋というには可愛らしすぎる、玩具屋というのがぴったりな内装。不思議な幾何学模様を湛えた箱やオーロラ色の液体の入った瓶、チューブに入ったものや錠剤のものなど、ありとらゆる――そして未だかつて見たこともない――御伽噺に出てくるような薬の数々が、壁中に犇いていた。自分が纏う灰色の匂いとは違う、独特の清潔感のある匂いが鼻孔を控えめに擽った。モノクロのポスターが貼られたカウンターまで近寄っていくと、二階からドタドタと激しい足音が聞こえてくる。そのうち底が抜けるんじゃないかと思うほどの慌ただしさで降りてきたのは、ミルクティー色の髪を寝癖でぼさぼさとさせたシオンだった。
「おはよ、ブランチェスタ。今回もありがとう」
「おい、シオノエル、ここに寝癖ついてるぞ」ブランチェスタは自分の頭の右側あたりを指さした。「休日だからってこんな時間まで寝てたのか?」
「まだ七時半だけど、君って一体何時に起きたんだ?」
「えっと……五時半かな」
「五時半!? 休日にか!」
「六時から二件、仕事が入ってたんだよ。お前はぐっすりしてたみたいだけど」
「普通休日の朝は九時まで睡眠が許されてるのさ」
「お前一度鶏と一緒に起きてみたらどうなんだ? 丁度トサカも生えたことだし」
 ブランチェスタのからかうような言葉にシオンは寝癖をぐりりと弄った。どう押さえつけても跳ねてくるその毛束に、シオンは「まいっか」と放置を選ぶ。
「んじゃ、今日もありがとうね。はい」
 恐らく母親から託されたであろうポンドル紙幣の束をブランチェスタに差し出した。それを受け取ったあと金額を確認して、その紙幣を穿いていた靴の中に突っこんだ。いつものことなのでシオンも驚かなかったが、やっぱりいい顔はしなかった。
 煙突の状態で彼女を雇う賃金も変動するのだが、ケッテンクラート家は決まって煙突が詰まりかける寸前に依頼していた。おかげで彼女はケッテンクラート家の煙突掃除をしたあとうんざりするほど汚れる羽目になるのだが、その分の賃金は大きかった。おまけに体を綺麗にするための濡れたタオルを差し出してくれるし、喉の乾く夏などは冷えた氷を頬張らせてくれる。
 お互い口にはしないしブランチェスタも態度に出さないが、薄々感づいてはいる。ブランチェスタの性格上、誰かに情けをかけられることをとてつもなく恥ずかしいことだと思う節がある。だからブランチェスタは誰かになにかをしてもらうことを嫌い、弱音を吐くのを怯えたりすることが多い。そんなブランチェスタにチップとして多額の金銭を握らせる客もいなくはないのだが、ブランチェスタはその全てを“馬鹿にするな”と跳ねつけていた。拒絶されない方法はただ一つ、掃除の中でも最も賃金の高い状態までもっていくことしかない――ケッテンクラート家がいつもしているように。
 お節介でお人好しな家族だと思いながら、ブランチェスタはそれを享受していた。そしてブランチェスタが自分たちの思惑に感づいていることに、おそらくシオンは気づいている。これは暗黙の了解でもあった。どちらかといえば親しい人間におけるだけの、小さな優しさの掛け合いだった。
「ああ、そうだ、ブランチェスタ……君って朝ご飯はもう食べた?」
「んーん。抜かした」
「いつか死ぬぞ」
「死ぬかよ。大丈夫、お昼ご飯は適当に食うさ」
「まだ五時間以上もあるだろ。うちで朝ご飯、食べてきなよ」
「は?」
 ブランチェスタは素っ頓狂な声をあげてしまった。しかしそんなことなどお構いなしにシオンはブランチェスタの手を引く。口笛を吹くような軽やかさで自分の手首を掴んだシオンにブランチェスタは呆気にとられた。
 カウンターの奥、二階へつながるその暖色の階段を登ろうとしたとき、ブランチェスタはハッとなってシオンの手を振りほどく。彼の手の平は少しだけ灰で汚れていた。そのことにどうしようもない気分になって顔を曇らせる。しかしすぐに雷のような目を尖らせてシオンに言い放つ。
「別にいい、いらない」
「そう遠慮しなくてもいいって」
「そうじゃねえ。あたしは別に昼間で我慢できるから、そんな気は遣わなくてもいいんだよ」
「お願いだよ、ブランチェスタ」
 訴えるようなブランチェスタの言葉に強く返答した声。シオンとブランチェスタは階段の上の二階に目をやる。そこには柳眉のきりりとした女性が腰に手を当てて立っていた。
「ちょっと朝ご飯を作りすぎちまったのさ、もしお腹が空いてるんなら処分に手伝ってくれない?」
「レーン……」
 シオンの母、レーナティア=ケッテンクラートがにこっと笑った。
「このまま残飯として捨てるのは勿体ないだろう? いいかい?」
「…………じゃあ、いただきます」
 控えめな声でそう言ったブランチェスタに、シオンは「そう来なくっちゃ!」と声を張り上げた。どたどたと不格好な体勢で階段を無理矢理登らされる。二階へ辿りつくとそこには生活感のある独特の雰囲気が広がっており、薬屋さんの面持ちは消え失せていた。窓枠に飾られた植物や家族の写真、壊れかけた音のする時計がティクタクと響く。木製のテーブルには湯気の目立つ青色の皿に乗せられたハニートーストが三人分鎮座していて、甘い甘い香りでブランチェスタは誘惑してきていた。
「適当に掛けておいてくれよ」ブランチェスタ用のナイフとフォークを用意するシオンがそう言った。「オレンジジュースとアイスコーヒー、どっちがいい?」
「じゃあ、アイスコーヒー……」
「了解」
 ブランチェスタは赤いマットのチェアに腰掛けて椅子を引いた。
 テーブルに並べられた朝食、黄金色に輝くハニートースト、丁度三人分。その様子をじっと眺めてブランチェスタは思った。なにが作りすぎただ。最初から朝食に招くつもりだったくせに。
 遅れて席に着いたレーンとシオンが、それぞれブランチェスタの前に蜂蜜や食器を置く。最後にアイスコーヒーがコトンと小さな音を鳴らすと、完璧なブレックファーストの出来上がりだった。
「好きなだけ蜂蜜をかけていいからね」
 その言葉にブランチェスタは少しばかり戸惑った。
 こうして有難く食事に誘ってもらい、当たり前のように飲み物やらなにやらを差し出されたわけだが、ブランチェスタは目の前の食べ物を今までに食べたことがなかった。煙突掃除に行った家で見かけた食事に憧れたことはあったがこうして食べることになったのは初めてなのだ。見たことはあっても、何物なのかがちっともわからない。蜂蜜をかけろと言われても相場が分からない。どれくらいが適量なのか想像もつかない。とりあえずシオンやレーンの真似をして蜂蜜をかければ、甘い匂いは更に強くなって、戦くほどにブランチェスタを襲ってきた。
「めしあがれ」
 レーンはブランチェスタに微笑んだ。優しい笑顔だった。ブランチェスタはナイフとフォークを持ったまま固まってしまう。
 正直な話ナイフとフォークを使って食べるのは久しぶりなのだ。どういう使い方をしていたか、ちっとも思い出せない。とりあえず覚えている限りの動かし方を試してみたが、決して上手とは言い難い形状で切り取られてしまった。隣でシオンがププッと笑っているのが聞こえる。悔しくなって眉を吊り上げながら、ブランチェスタは一口それを啄んだ。
「――――おいしい」
 それは優しさの味だった。まるで小鳥が囀るように柔らかい風味が舌先で踊り、蜂蜜の輝くような甘さが咥内に幸福を呼びこんでくる。
 とても温かいそれにブランチェスタは目を見開いた。
 とても温かいそれに、ブランチェスタは黙りこんだ。
「いっぱい食べてくれよ」シオンは言った。「お腹が破裂するまででも、死んじゃうまででもいいから、ほら」
 ゴールドの瞳が優しげに自分を見つめている。いつもなら居たたまれなくなっただろうその眼差しを、ブランチェスタはどこか心地よく感じていた。とても幸せな空間だった。
「おいしい、おいしいよ」
 ふと、唇に塩辛いものが入りこんだ。悲しみの味でも哀しさの味でもない。ただ愛おしいくらいの懐古が、彼女の胸で躍っている。
 こんな家族みたいなことを、ブランチェスタは長いことしていなかったのだ。
「そっか」
 蜂蜜まみれになるブランチェスタを眺めながらレーンは苦笑した。シオンはオレンジジュースを飲みながら、ブランチェスタの和らぐ肩をぽんぽんと叩いた。





甘すぎてこぼれる



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