ブリキの心臓 | ナノ

1


「悪かったって言ってるだろ。いい加減に機嫌なおせよ、本当に面倒な奴だよな、お前」
 アイジーたちは、グリムにあるジェラテリア・バールの一席にいた。シェルハイマーがよく行き来している氷菓子店らしく、中でもブリオッシュのなかにブルーベリーとシナモンのジェラートを挟みこむのが一番のお気に入りらしい。ハルカッタは異国にあるという緑の紅茶味のジェラートにホワイトチョコソースをかけるのがお好みなようで、ヒューイもそれに倣っていた。アイジーは温かいものが飲みたかったので予定通りミロを頼み、お持ち帰りという形でストロベリークーヘンのジェラートを頼んだ。危険なめに合わせた罰として料金はハルカッタ持ちとなっている。アイジーとしてはそんなことでは許せないが、二人は直接的には関係ないのだしこれ以上を求めても流石に酷だろう。以上のことで手打ちとしていた。
 しかし機嫌というのはいくら区切りをつけたところで幸先よさげに明るくスキップをするわけではなく、アイジーはぶすっとむくれたままだった。これには三人も手を焼いて、特にジェラートのお金を払っているハルカッタなんかは雷でも落としそうな目でアイジーを見ている。
「ペローにそんな服着てくるほうがどうかしてんだよ、ちょっと考えたらわかるだろ? 結局ヒューイのおかげで助かったんだしもういいじゃないか。外来貴族の俺にお金まで支払わせて他になにがお望みなんだ?」
「ごめんなさい、ミロ飲んでたから全然聞いてなかったわ、もう一度言ってくださる?」
「鼻くそが脳味噌に詰まって腐ってぶっ倒れておっ死ね、生き返るな生まれ変わるな地獄に落ちろくそったれ!」
 アイジーの襟元を掴んで唾を飛ばしながら罵るハルカッタを、ヒューイは「まあまあ」と言って諌めた。
「シフォンドハーゲンだってまだ気が動転してるんだよ……あんなことがあったんだし、ね?」
「でもこんな牛の糞みたいにでたらめなこと言われて易々と引き下がれっていうのか?」
「引き下がれないの? ちっぽけな人ね」
「お前の心のほうがよっぽどちっぽけだよこのくそったれのお嬢様!」
 流石に仲裁に徹していたヒューイも嘆息しかなかった。シェルハイマーはそんなヒューイの肩をぽんぽんと慰めて自分のジェラートをスプーン一口分ヒューイの咥内に突っ込んだ。それに対してふにゃりと美味しそうに頬を緩めるヒューイはまるで小動物のような愛嬌があった。
 ここに来るまでにヒューイという少年と幾度か話をしたのだが、彼の性格は極めて温和だった。どうしてこの二人と付き合っているのかが疑問に思うくらいのその穏やかさは、ユルヒェヨンカやキーナ=ペレトワレに匹敵する。シェルハイマーとハルカッタの仲裁役、というのが主なポジショニングのようで、ヒューイの存在を通してみた二人はいつもよりも更に子供っぽく見える。しかしヒューイ自身かなり抜けているところもあり――なにもないところで転びかけたりジェラートにスプーンが空ぶったりとかなりのおっちょこちょいだ――その点に関してはシェルハイマーとハルカッタはまるで世話焼きな両親のようだった。
「あっ」
 ヒューイは肘でジェラートの器を床にぶちまけてしまった。不思議そうに濁った緑色とミルクのように甘そうな象牙色がどろどろと床にしみて木目をなぞっていく。丸かったジェラートは歪に崩れ、皿はごろごろと遠心の輪を描き逆さまになって静止した。ヒューイは呆けたままになって床の彼方を見つめている。シェルハイマーは「可哀想に」と言って座っていた椅子から立ち上がった。
「ヒューイ、一張羅の服は汚れてないか?」
「え、と、うん」ヒューイはぺたぺたと自分の服をまさぐった。「大丈夫みたい」
「そか」
 シェルハイマーは「ちょっと雑巾もらってくる」と言って店の中を徘徊していく。ハルカッタも椅子から立ち上がって「皿とスプーン、返してくる。俺のジェラート残り全部やるよ」とそさくさ消えてしまった。あまりの手際の良さにアイジーは目を丸くする。本当にあの二人はヒューイに甘いな、と思った。
 ヒューイはアイジーのほうを向いて申し訳なさそうに「ごめんね」と謝った。
「大丈夫? 服高そうだけど……汚れたりしてない?」
「……私は、大丈夫よ」
「よかった……本当にごめんね」
 未だに視線を悲しげな宙に彷徨わせるヒューイにアイジーはどうしようかとあたふたした。別にそこまで気にしなくてもいいだろうに、どうしたら機嫌が戻ってくれるのかと、そんなふうに頭を悩ませる。
 するとヒューイはいきなりアイジーの顔をぺたぺたと触りだした。そして徐に手を放してくすくすと笑いだす。訳がわからなかった。まだ顔の目の前にある手を訝しげに見つめるアイジーに、ヒューイは「ほら、やっぱり」と上機嫌に告げた。
「シフォンドハーゲン、困った顔してる」
「えっ?」
「やーい、引っかかった。あはは」肩を揺らして目を細める。「僕そんなに落ち込んでないよ、ふふふ、でも、どう? 相手の機嫌を取るのって大変でしょ? さっきの君みたいに」
 まるで、いや実際に、悪戯が成功した子供のように、あどけない笑みを見せるヒューイをアイジーは茫然として眺めた。少しむかっ腹が立ったが、それを口にするにももっと重大なことに気づいてしまったのだ。アイジーはぼんやりとした顔で首を傾げる。それからヒューイの顔の前で手を振った。そして小さく俯いて「貴方……」と控えめに切り出す。
「もしかして、目、視えてないの?」
「うん」
 淡々とした物言いだった。盲目的な眼差しは瞼で閉ざされて、代わりに流暢な唇がハスキーな声を紡ぐ。
「君の顔もね、よく見えないよ。まったく見えないわけじゃないんだけど、それでももうほとんど見えないって言ってもいいかな……昔はもっと見えてたんだけど今はもう全然だめだ。光とかは感じるんだけどね、明るい暗いはわかる。色までは、ちょっと、難しいけど。見えない代わりに気配とかには敏感になったんだ」ヒューイは先程まで目の前で振られていたアイジーの手を絡めるように握る。「あと、触っただけでどんな表情してるのかもわかるようになったよ」
 さっきの君の困り顔ったら傑作だね、と――ヒューイは愉快そうに言った。温和そうに見えてこういうところはちゃっかりあの二人と同じだ。案外お似合いの三人なのかもな、とアイジーは思った。
 ヒューイは絡めていた手を離し、また一つくすくすと笑う。見えていない彼の無邪気な笑顔に、また薄幸な印象が強くなった。
 しかし、なるほど、道理であの二人が世話を焼くわけだ。盲目の少年を一人っきりにするのは確かに心が痛むだろう。なにか粗相を起こしても許してあげたくなるし面倒だって見てあげたくなる。困っていたら助けてやりたいし、その薄幸に紛れた幸せそうな笑みを見れば誰だってかまってやりたくなる。こういうところもユルヒェヨンカに似ていてなんだかアイジーは微笑ましくなった。
「ほら」そこで目の前にずいっと白いものが現れる。「雑巾はなかったけどナプキンもらってきた」
 特に面倒とも思っていなさそうな表情でシェルハイマーはそう言った。そしてそのままヒューイに対して意地悪もせず礼をねだることもなく、彼は緩慢な動作でキュッキュと床にこぼれたジェラートを拭いはじめる。
「あ、ありがとうギーガ」
「店の人に説明したらさっきの半分だけジェラート持ってきてくれるって。しかもタダで」
「ありがたいわね」
「だよな、なにもしなかったシフォンドハーゲン」
 アイジーに皮肉を混じえながら甲斐甲斐しく床を拭くシェルハイマーに思わず笑ってしまった。帰ってきたハルカッタがシェルハイマーの屈んだ姿を見て口笛を吹く。
「いい眺めだな」
「俺の尻にキスでもする気か?」
「馬鹿言え、とっとと終わらせろよトロール」
「なんだと超バカ間抜け」
「言ったなカスチビ」
「貴方たちの愛情表現って本当に歪よね、トロールでもチビでもいいから静かにしてよ」
 アイジーはもう一口ミロを飲んで店の中を見回した。初めて来る店だったので飽きることがない。シオンに連れて行ってもらったジェリーフィッシュというアイスパーラーとは全く雰囲気が違う、あくまでもここはカフェの一種なのだという主張があった。全体的に深い青色や水色が散りばめられていてライトの色だけが明るいイエローと鋭いピンクだ。壁中にかけられてある絵画には魚の大群やウミユリが美しく異彩を放っている。店の中はジェラートとは違う仄かな花の匂いが踊っており、それだけで気分を高揚させてくる。今度エイーゼかブランチェスタやユルヒェヨンカと行きたいな、と思いながら、アイジーは爽やかに呟いた。
「ここ、なんていう店だっけ?」
「“ミセス・シーベッズリリー”、気に入ったのか?」
「ええ、おいしそうだし」アイジーはまたチラチラとあたりを見回して他の客のジェラートを眺める。「意外だわ。貴方たちはよくここに来るの?」
「俺はそうでもないかな」ハルカッタが言った。「知ったのだって結構最近だし」
「僕もだよ」
「ヒューイはまずお金がないもんなあ」
 ヒューイを気遣う割にはこういうことはズバッというのかとアイジーは驚愕したが、ヒューイはさして気を悪くしたようでもなく「そうそう」と相槌を打つだけだった。ヒューイはペローの住人なのだ、一日のご飯にも齷齪しそうなのにこんな娯楽的な食べ物を楽しむなんてそれこそ奇跡でしかないだろう。ここのお金はハルカッタが払ってくれるようだがそのハルカッタにしたって金銭的に余裕があるわけではない。
「ギーガって実はグルメなんだよ、こいつの紹介する店は絶対に美味しい」
「へえ」
「アイソーポスにもおすすめの店がある、すっごーく高いけど君には関係ないだろ? 今度行くといいよ、馬鹿みたいに柔らかい肉が食べれる」
 その肉厚と肉汁がどれほどか滔々と語りだすシェルハイマーにアイジーは食いしん坊かと苦笑した。ヒューイがシェルハイマーの語りを聞くたびに涎を垂らしてしまってそれが余計に笑いを誘う。
「そういえばヒューイって、私のことを嫌わないのね」
「え?」アイジーが呟いたふとした疑問にヒューイは首を傾げた。「どういうこと?」
「この厄介な人たちなんて、私がシフォンドハーゲンの娘ってだけで苛めてきたりしたのよ」
「懐かしいな」
「いい思い出だ」
「黙りなさい。他の人たちだってそうだわ、私が貴族ってだけでこーんな顔するのよ」
 アイジーが眉を吊り上げて頬っぺたを抑えたところでハルカッタが笑い出した。ヒューイもくすくすと笑って肩を揺らす。
「なのに貴方はそんなことないのね」
「んー、貴族とかそんなの僕にはあんまり関係のないことだったからなあ。嫌な人は嫌いだけど、いい人は好きだよ」
 少しずれた回答をするヒューイにアイジーはなんだか納得してしまった。貴族の嫌われる原因の大抵はアンデルセンやグリムを“野蛮人の知恵”と馬鹿にするからだ。だからこそアンデルセンやグリムの人間は貴族たちを“原始の石頭”の罵る。その文化争いと全く関係のないところで生きているペローの人間からすれば貴族も庶民もないのかもしれない。
「いい人ってたとえば?」
「ギーガとかニヴィールとか」
「いい人の程度が低すぎるわ」
「チッ、今なんつった?」
「あっ、今舌打ちした? 本当に素行が荒いわね」
「舌打ちじゃねえよキスだよ」
「シェルハイマーの尻に謝りなさい」
「くたばれよお前ら!」
「じゃあブランチェスタはどう? ヒューイ。とっても素敵な子だと思うわ」
「えっ、ギーガとニヴィールは今世紀最大のゲテモノって言ってたよ?」
「は?」
「ゲテモノだろ、あんなの、灰かぶり女が!」
「まあ友達としては鼻が高いんだろうね、でも敵としては」
「鼻持ちならない」
「その通り」
「……もういいわ。私がこういう話題に持っていったのが悪いのよね、諦めるわ、貴方たちを」
「諦められたぞ」
「呆れられてないからいいんじゃないか?」
 気の抜けた会話がだらだらと続いていくなかアイジーはさっきまで自分の機嫌が大胆に損なわれていたことなど忘れていった。ヒューイとも易々と打ち解けられたし、さっきまで自分がどんな目に合っていたのかも記憶の彼方だ。ただジェラートとミロの匂いにまどろむように会話の根を張り巡らせている。
 ペローから離れたことで緊張が緩んだのだ。殺されるかもしれないと思った瞬間は弾けて、今自分はグリムにいる。いくらなんでもさっきの男たちがここまで追ってくることはあるまい。ペローには“名前のない人間”なんてうようよいるだろうし、それこそ星の数ほどだ。その点ヒューイには名前があるのだし、随分とリラックス出来る。アイジーの肩はすっかり解れていた。
 と、そこでアイジーは一つの疑問にぶち当たる。成り行きや空気でお互いに自己紹介をしなかったため、ヒューイのフルネームをアイジーは知らないのだ。ファミリーネームはなんというのだろう、家族はどんな人なのだろう、そんなことがオーロラ色のシャボン玉のようにふよふよと浮かび上がってくる。
「ねえ、ヒューイ、そういえば貴方のファミリーネームはなんだったかしら?」
 アイジーのその言葉にヒューイは押し黙った。固まるとも少し違う静止にアイジーは何か聞いてはいけないことだったのかと怖くなった。しかしどうやらそういうふうでもなく、ヒューイはしばらく考えたのち、楽しそうな声で返す。
「シーベッズリリーっていうのはどうかな?」
「……え?」
 アイジーが素っ頓狂な声をあげるとヒューイは「ヒューイ=シーベッズリリー、なかなかクールだよね」と盲目的な目を細める。するとシェルハイマーが「ちょっと音が悪いかな」と言いながら揚々と笑った。
「ヒューイ=ジェラートとかどうだ? 面白いぞ」
「自分の名前聞くたびに甘くなっちゃうよ」
「だったら俺の名字をやろうか? ヒューイ=ハルカッタ」
「お嫁さんにしてくれるの?」
 その一言に三人は急に爆笑する。アイジーはまったくついていけず、ぽかんと口を開けるだけだった。その固まったバイオレットグレーの瞳を見てハルカッタが説明を加える。
「聞いたんだからお前もなにか考えろよ、とびきりスマートなのを頼む」
「……どういうこと?」
「ああ、言ってなかったっけ?」シェルハイマーは親指をヒューイに向けて自慢げに続ける。「こいつの名前、俺たちで考えたのさ! クールだろ?」
「――――――は?」
 アイジーは毒蠍にでも刺されたかのような表情をした。しかしそれを無視して三人は続ける。
「ペローの人間は名前のないやつばっかりだったじゃん。なんて呼ぶか悩んだから勝手に考えちゃうことにしたわけ」
「二人が名づけてくれるまで僕ってばガキとかしか呼ばれてなかったんだ、もうやだやだ」
「もう未だにナイスファインプレーだよ。すっかり馴染んじゃったわけだし」
 《ジャバウォックの呪い》は、運命の日に名前のない英雄に殺されるという、死の呪い。だから名前のない人間を避ければいいのではないかという結論に落ち着いて、それ故にアイジーはペローには足を踏みこまなかった。名前のない人間を避けなければならなかったからだ。でないと、死んでしまうからだ。殺されてしまうからだ。
「そうだシフォンドハーゲン!」
 “ヒューイ”――《青髭の呪い》に犯された少年。
 この明らかに殺す側の少年は。
「君、僕のファミリーネームを考えてくれないかな? できれば覚えやすいのがいいな」
 “名前のある人間”側に、含まれるのだろうか。




故意に盲目



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