ブリキの心臓 | ナノ

1


 随分と長いこと走っていたものだ。おかげで脚はガクガクと震えている。昔はどれだけ動いてもちっとも疲れなかったというのに、今はこんなにも疲弊して、そして息を切らしている。
 庭の近くの柱に身を寄せて、アイジーは息を整えた。肩を上下させて柱へと雪崩れ込む。華奢な身体は滑り落ちるようにへたり込んだ。もう起き上がれそうにない。これだけ必死に息を整えても、それは無意味に等しかった。まるで心臓が押し潰されているみたいだ。呼吸はだんだんと乱れていく。どんなに押し殺そうとしても、それはまるで霧みたいに胸から溢れ出して。どんどん染み渡る。冷たく反響する。溺れそうなくらいの波がアイジーを飲み込む。
 エイーゼの言葉が、呪いみたいに、耳にこびりついて離れない。

 “赤の他人だ”

 タガが外れたように、瞳の中を灼いていた熱が滴となって溢れていった。ぼろぼろと零れ落ちるそれは行き場をなくして、やがて膝へと沈んでいく。涙の奇跡は幾重にも分かれて頬を濡らしていた。強く息を吐くたびに胸が潰れていくようで苦しい。悲しみで激しく伸縮する心臓が痛んだ。
 もしかして、エイーゼはずっとそう思っていたのだろうか。自分とは赤の他人だと、こんな人間は家族ではないと。双子の兄妹だと思っていたのは自分の方だけで、災厄の子であると知ってしまったときから、彼の中から妹は消えたのだろうか。人前だったから仕方がない、ああ答えなければシフォンドハーゲン家の家格に関わることだった、どうしようもなかった、エイーゼが正しい――そうは思っていても、そのエイーゼの正しさは別方向へとアイジーを突き落としていく。エイーゼは正しいことを言っている。アイジーとエイーゼは赤の他人だ。ただ単に血が繋がっただけの、顔がそっくりなだけの、いつか自分を殺しかねない、そしてもうすぐ死んでしまう、ただの赤の他人だ。嫌だ厭だとは思っていても思考回路は言うことを聞いてくれない。きっとエイーゼはずっと私を嫌っていたのよ、きっとどころか絶対にそうだわ、誰が自分を殺すかもしれない人間を好きになってくれるというの、第一あの時彼が木から落ちてしまったのは私のせいなのよ、嫌われて当然だわ。
「ふ……あっ、あ、ああああっ!!」
 アイジーの頭は膝へと崩れ落ちた。嗚咽は慟哭となって反響する。吹きぬけた風はアイジーのシルバーブロンドを掻き乱すだけだ、優しく撫でることも包み込むことも、なにもしてくれない。独りぼっちで柱にもたれて人知れず泣き続けるアイジーは、誰の目から見ても惨めだった。
 こんなことなら、あの時部屋から出なければよかった。退屈も鬱屈も窮屈も、全て我慢すればよかった。あのときどんなに辛くたって、今のような気持ちになるくらいならきっと何千倍もマシだった。自分が嫌になる。馬鹿だった、迂闊だった、大人しくエイーゼの言うことを聞いていればこうして泣くこともなかっただろうに。
 どれだけ後悔しても仕切れないし、時間が戻るわけではない。アイジーが泣いているこの瞬間にも、エイーゼは友達らと笑い合っていることだろう。赤の他人といるよりも楽しい、血の繋がらない家族たちと素晴らしい時間を過ごしていることだろう。
 こんな世界に生きていたくない。災厄の子で、エイーゼに嫌われて、もう誰もいない。息をするのも辛い。目の前に井戸があったなら身を投げていたに違いない。手元にナイフがあったなら首を掻き切っていたに違いない。もう全てがどうでもよかった。
 誰か、今すぐこの息の根を止めて。

「――アイジー?」

 深いバリトンの穏やかな声が、彼女の名前を呼んだ。
 滲んだ視界のまま、アイジーは顔を上げる。
「お父様……」
 自分や双子の兄の色とは違う、優しいアイスブルーの瞳が、心配そうに自分を見つめていた。柱にもたれて座り込むアイジーの目の前に膝を着き「大丈夫か?」と問いかける。
 どうしてオーザが目の前にいるのだろう。仕事は。終わったのか。だとしてもなんでこの庭にいるのだろう。オーザは滅多なことがない限りここに来たりはしないのに。いろんな思いが脳味噌をぐるぐると駆け巡っている中、オーザは「何故泣いている」と声をかけた。
「……なんでも、なんでもありませんわ」
「そんな筈があるか」
「今日は絶好の号泣日和だったから……いつも泣けない分泣いておこうと思っただけだもの」
「いつも泣きたい気分なのか?」
 自分でボロを出してしまったことにアイジーはハッとする。その反応にオーザは小さく溜息をついた。恥ずかしかった。シフォンドハーゲンに害悪を呼び寄せる災厄の子であるには変わりはないけれど、せめて父親に呆れられないような人間になりたかったのに。
 しかしオーザはそんな心境を夢にも見ず、アイジーのしっとりした髪ごとその頭を撫でる。
「もう泣くな」
 そして懐から青紫のハンカチを取り出してアイジーの涙を優しく拭ってくれた。
 アイジーは肩を強張らせる。
 シフォンドハーゲンの名を大切にする厳格な父親は、果たしてこんなに優しかっただろうか。幼少の記憶を遡っても特に構ってくれた記憶はないし、どちらかと言えば息子の方を可愛がるような父親だった。勿論それは当たり前の反応だろうし、いずれは死んでしまう娘のことなどどうでもいいと思う気持ちも理解できる。だからこそ今まで何も言わないでいた。なのに、今その父親は自分の涙を拭っている。心配をして、同じ目線で見てくれて、そして頭を撫でてくれる。びっくりなんてものじゃなかった。嗚咽が喉に絡まって上手く声が出せないけれど、もしいつものコンディションのままだったとしたら「お父様、悪い病気にでもかからしたの?」と額に手を当てていただろう。それほどまでに稀有なこの状況に、アイジーは口を半開きにした。
「お前がどうしてもと言うなら理由は聞かない」
「……………」
「でも一人で泣くのはやめろ。少しくらいは、父親を頼れ」
 自分を射抜くアイスブルーの瞳に涙が蒸発されていく。こんなに冷たい色をしているのにまるで柔らかい日差しのようだった。十四年間生きてきて、初めてオーザに“父親”を感じた気がした。自分に興味がないと思っていた彼が、自分を娘と認めてくれている。
「……お父様、」
 あの、と小さく声を漏らす。まだ声は潤んでいて、変なタイミングで裏返ったり忙しない。それでもオーザは笑うことなく、アイジーの言葉に耳を傾けてくれた。
「私、私は……」
 お父様の娘かしら――そう尋ねようとしたときに、さっきのハンカチが目に入る。青紫のハンカチだ。彼のイメージからは少し離れる色。この色が好きだったとは初耳だ。そんなことをぼんやりと考えていたら、さっきから温めていた言葉を押しのけて、それが舌に飛び乗ってしまう。
「そのハンカチの、色……」
 やってしまった、と思った。
 なんでそんなことを聞くのだろうと思われたはずだ。
 しかしオーザは「ああ、これか」と苦笑して続けてくれる。
「お前たちが生まれてから、私の持ち物はどうも青紫が増えてしまってな」
「えっ」
 予想していなかった言葉にアイジーは目を丸くする。
「あのスミレにしたってそうだ」
 庭の花壇のほうを一瞥して、溜息混じりに答えてくれた。
「まるでお前とエイーゼの瞳の色のようだろう?」
 またじんわりと視界が濁った。それでもさっきのような悲しみはなくて、まるで天使の梯子でもかけられたみたいに神々しい気分だった。
 赤の他人なんかじゃない。
 自分のことをどうでもいいと思っていた父親。エイーゼばかりを可愛がってちっともこっちを向いてくれなかった父親。そんなことはない。そんなことなどなかった。オーザはいつでもアイジーの父親だったし、そしてアイジーとエイーゼは双子の兄妹だ。どう否定しようとしても変わらない、変えられない、エイーゼはアイジーの半身だった。
 またぼろぼろと零れだす滴にオーザは「だから何故泣くんだ」と涙を拭ってくれる。
「昔はエイーゼのほうが泣いてばかりだったのにな。いつからかお前たちは正反対になってしまって」
「……う、ふふふ、一体いつの頃の話ですの?」
「もう十年以上も前のことだ。時が経つのは早いものだな」
 そう言って苦笑する父の顔は優しかった。心に刺さった冷たい棘を一本一本抜き取ってくれる。その優しさに幸せを感じ、やはり涙は停滞したりしなかった。
 どうしていいかわからなくなったオーザは「そうだアイジー」と一つの提案を持ちかける。
「今度グリムへ行こう」
「え……」
「私とエイーゼとアイジーの三人で」
 オーザに外出の許可を許されるのは初めてのことだった。アイジーは目を見開いて、そして間抜けな顔のまま固まってしまう。
「エイーゼが高等部に上がるから、制服を新調せねばならんのだ。仕立て屋はグリムにしかないから近々行くつもりだった。そのとき一緒に連れて行ってやろう」
「……本当に?」
「ああ、勿論だ」
 だから泣き止んでくれ。
 そう言われずとも、アイジーの涙はぴたりと止まっていた。
 正直エイーゼと顔を合わせたくはなかった。また泣き出してしまうかもしれないし、次はなにを言われるのかとびくびくしてしまう。数日前は視線を集めたくて堪らなかったのに、今はとにかく顔を合わせたくなかった。
 でも、外に行ける。
 初めての外だ。
 今まで見たことのない世界がそこにはある。無知で馬鹿な自分が初めて目にする屋敷以外の世界だった。心が躍るのは当たり前だった。
「約束よ、お父様。破ったら世界一恨むわ」
 ぎこちなく微笑むアイジーにオーザはほっとする。
 このとき初めてアイジーは自分が囚人でないことを知った。





ゆるんだ首輪



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