ブリキの心臓 | ナノ

1


 別に寂しくないわ、とアイジーは自分に言い聞かせた。その時点で自分の負けだった。
 ジャバウォックと関わりがなくなってから、暫らくほどの日が経ってしまった。いつも頭の中で鳴っていた小言のような声は聞こえなくなってから久しいし、真っ黒い姿など見ることもない。勿論これまではそれが当たり前だったし最初に彼の姿を見たときなどアイジーは恐れに恐れ震えていた。今まで通りに戻っただけということでありそれ以上でもそれ以下でもない。それにあのジャバウォックは元を振り返ればアイジー自身であり呪いなのだ。そう、呪いだ。自分自身を苛む患わしい存在。死の呪い。馴れ合うように、なんやかんやで付き合ってこれた、今までのほうがおかしかったのだ。ただ正しい方向へと修正されただけ。それだけ。ずっと一緒にいるわけでもなし、きっと間違ってはいない筈だ。
 しかし、正しいことをしている筈なのに、なんとなく胸に突っかかりを覚える。寂しいというより心許なく、心許ないというよりは懺悔的で――別れ方が、いけなかったのかもしれない。あんな酷いことを言って、そしてそのままに決別してしまった。決別と言っても呪いの存在自体が消え失せたわけではないが、少なくとも彼が干渉的でなくなったのは間違いない。いくら彼が直前に自分の気に障るようなことを言ったとはいえ、自分も随分と子供っぽいことを言ってしまった気がする。それどころか、思い返せば存外彼はそんなに酷いことを言っていたわけではない。あのときは自分の精神状態が不安定だっただけで、彼は本当のことをあるがままに言っただけだった。しかも話の流れからすると、あんなの彼なりの、ちょっと皮肉を交えたジョークみたいなものではないのだろうか。そう考えると更に後ろめたい気持ちでいっぱいになり、アイジーは荊でがんじがらめになっていた。
 ただ名前を呼べばいい。
 呼んでしまえばきっと、彼はあのワインのような口どけのする魅力的な声で“なんだい、アイジー”と控えめに返してくれるはずだ。
 けれどそれをするには申し訳なく、あんな別れ方をしてしまったあと、どう話せばいいのかもわからない。自分にはもうそれは許されないような気がして、アイジーはなかなかそれをやりきれないでいた。
「……ふうっ」
 溜息にしては力強い吐息をアイジーは漏らす。寂しくないと自分に言い聞かせた。言い聞かせなければ、寂しかったのだ。
 アイジーは《オズ》から帰る途中だった。外は雨上がりで、下り坂から街を見下ろせば、薄く汚れた薄水色の空模様がくっきりと、煉瓦一面に鏡が貼られたかのように水溜りに映し出されている。《黒い森》の付近では幾重にも注がれた七色のリボンが沈みこみ、深い影に彩りを与えている。坂を下れば手配させておいた馬車が見えてくるだろうと、アイジーはただ黙ってその長い下りを歩いていた。
 しかし、そのとき知り合いが見えた。最近めっきりと見かけなくなった人物だ。
 彼女のトレードマークでもあるブロンドのショートカットは、湿気のせいか、いつもよりもたっぷりとしていた。隣には六歳ほどの小さな女の子がいて、仲良さそうに手を繋いでいる。その幼い女の子は浅黒い肌をしていて、彼女の肌の色と比較すると真っ黒にも見えた。
 アイジーは少し嬉しくなって、その彼女に声をかける。
「こんにちは、リジー。貴女も今帰りかしら?」
 目の前にいた彼女、リザベラ=クライトはアイジーの声に振り向いて、真っ青い目を見開いて「久しぶり」と微笑んだ。手を繋いでいた幼い少女は閉じた傘を振り回してアイジーのほうをじっくりと見つめる。アンバーの瞳は真ん丸で、実年齢よりも少しだけ大人びて見える顔つきだった。くるくるとしてある黒い巻き毛は二つに結ばれてあって、とてもチャーミングだ。アイジーの顔を見てからリジーの顔を見上げるその少女は、よほどリジーに懐いているのだろうと思われた。
 リジーはその子の頭を撫でてからアイジーに話しかける。
「今日も《オズ》に来てたんだね。相変わらず研究熱心だな、アイジーは」
「そういう貴女もじゃない」アイジーはにっこりと笑った。「でも、最近すっかり見かけなくなっていたから少し心配していたわ。寒くなってきたし……風邪でも引いていたの?」
「いや……別にそういうわけじゃないよ」リジーは言いにくそうな表情で答えた。「でも、心配してくれてたんだね、なんかごめん」
「全然かまわないわ、気にしないでちょうだい」
 アイジーはそう言い終えるとバイオレットグレーの瞳を幼い少女へと向ける。少女はじっとアイジーを見ながらリジーの服をぎゅっと掴んでいた。アイジーは首を傾げながら微笑ましそうにリジーに言う。
「随分と小さなお友達ね」
 リジーはじんわりと滲むような苦笑を浮かべた。少女の柔らかそうな頭を撫でながら「友達じゃ、ないの」と返す。
「え? ……ベビーシッターでもしているの?」
「いや。そういう意味で言うなら逆かな。スーは……ステイシーは私に傘を持ってきてくれたみたいだし」
「もうやんじゃったけどね」
 そのときはじめて、少女は声を出した。幼い子によくあるような、少し舌足らずな喋り方。アイジーは更に微笑ましくなってその子に視線を合わせようとしゃがみこむ。
「ステイシーっていうのね」
「うん。ステイシー=クライト、六歳です」
「そう、六歳なのね…………えっ、クライト?」
 アイジーは思わず立ち上がってリジーと目を合わせる。リジーは口元を軽く押さえながら呻るように言った。
「……全然、似てないよね」一拍置いて。「私の末の妹なの」
 似てない、なんてレベルじゃなかった。髪の色も、肌の色も、骨格も、なにからなにまで違う。持っている雰囲気はどことなく同じではあるが、容姿の点では赤の他人だ。アイジーは驚きに目を見開いてぎこちなく続ける。
「ま、まあ、姉妹が似ていないなんてよくあることだし、そう気にしなくても」「誰とも似てないの」リジーは被せるように言う。「お父さんにもお母さんにも、兄にも弟にも他の妹にも、誰にも似てないのよ――――スーじゃなくて、私がね」
 ステイシーは心配そうにリジーを見上げる。
 ああ、そうだった。彼女は、《醜いアヒルの子の呪い》なんだった。



「従兄弟の筈のスタンのほうが、まだ似てるくらいだよ」
 リジーはステイシーの両手を握ってあやすように揺らした。ステイシーも嬉しそうに首を傾げる。
 《醜いアヒルの子の呪い》――この呪いに犯された人間は両親から生まれるはずもないような容姿として生まれる。その呪いの効果から不義の事件を匂わせたこともあり大変問題になった。
 そしてそんな忌ま忌ましい呪いに、このリザベラ=クライトは犯されている。その証拠として彼女の容姿はステイシー=クライトと少しだって似ていない。
「昔は結構それでからかわれたりもしちゃったんだ。すごーくコンプレックスだったの」
「……でしょうね」
 アイジーは二人を見比べて答えた。
 なるほどちっとも似ていない。これじゃあまだアイジーとリジーのほうが似ていると思えた。それほどまでに――リジーとステイシーの血縁感はなかった。
「おまけにうちは大家族でね。兄弟が多いんだよ。兄は新聞社で働いてるディックに煙突掃除屋をやってるアーンの二人、次女のリアは妹で、あと弟のエド、末っ子のスーと私と両親合わせて、計八人家族」
「賑やかそうでいいわね」
「そうだね」リジーは楽しげに、苦笑した。「でもそれだけ人数が多いと、私の“異色さ”が目立っちゃうんだ」
 アイジーは楽しげにするステイシーに目を遣った。いかにも活発という言葉の似合う浅黒い肌に、可愛らしくカールした髪。――リジーの肌はどちらかと言えば白いほうだし髪だってブロンドのストレートだ。たしかにリジーの家族全員ステイシーのような見目をしているとしたなら、リジーはかなり目立つ筈だ。それも、悪いほうに。
「私だけじゃなくて兄弟みんながからかわれるものだから、一時期家族内でもギクシャクしちゃって……今はみんな、なんていうのかな、大人になったから」その言い方がおかしくてリジー自身も笑ってしまった。「そういうことは全然ないけどね。家族も周りも含めて。流石に呪いとかデリケートな部分をがやがや騒ぎ立てるのは勇気がいることなのかもしれないね」
 その方式に則って言うのならシェルハイマーとハルカッタはよほど勇気があったんだろうな、とアイジーはそんなことを思った。
「スーが生まれて予言を貰いに行ったときね、言われたんだ――今回の子は似てないだのなんだのでからかわれることはないでしょう、って。それから本当になくなっちゃった。預言者ってすごいよね」
「……そうね」
「うちってさ、実は、祖父の代に異国から亡命してきたらしいんだけど、そのせいもあって、最初は馴染みが悪かったみたい。スーを見てもわかるでしょう? 明らかにこの国の人間じゃないじゃない……それで周りからは冷たく……じゃないけれど、まあ、あんまり上手くやっていくことが出来なくて、それでやっと馴染んできたのに、そこに私が生まれたの」おかしいでしょ、とでも言いたげな笑みを浮かべて自分の顔を指差した。「完璧にこの国仕立ての、親からは程遠い私がね」
 それはどれほどだろう。
 今まで彼女は呪いのせいで、どれほど嫌な思いをしてきただろう。自分だけ違うということにどれほど苦しんできただろう。
 そう思うとアイジーは切なさに顔を曇らせるしかなかった。
「……まあ、そんなかんじかな」
 リジーはぽつんと呟く。
 アイジーは控えめに「そう」と返した。それから少し明るい声で「納得したわ」となんでもないふうに振る舞った。


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