ブリキの心臓 | ナノ

1


「呪いとは“自分自身”である、この言い回しは私が《オズ》に来るよりも前から囁かれていたものなのだ。呪わしく悍ましいその観念は預言者の告げる予言により発覚し“産まれてくる”自分なのだと、そういった表現をされることが多いな。あくまで呪いは呪いであり自分自身、自分の中にあるものだ。私や君はその自分の中にある存在と“向き合う”ことでその姿または人格と触れ合うことを可能にしている。そこでだ。人間関係について考えてみよう。人間とは本来自分と触れ合うものではなく、他人と触れ合うものだ。そして呪いはあくまで自分自身なのだから、これはその理意に反する。そして、繰り返しになるが、呪いはあくまで自分自身だ。自分を外に晒け出し触れ合うのが人間関係、つまりは自己主張、他人と触れ合うということになる――以上を踏まえると、自分自身である《呪い》を他人に目視し感じさせることも、あるいは可能ではないのだろうかと思うのだ」
 随分と長い間、聞くに耐えないというほどでないにしろ、おざなりな返事しかできないような話を、バクギガンはアイジーに滔々と語りかけていた。おそらく第五期生の中で先の内容を理解できるのはアイジーほどのものだろう。ジャレッドやゼノンズとて全く手をつけられないというわけではないにしろ、少なくとも、《呪い》の存在認知の話にはあまり共感出来ない筈だ。確認しただけでも、それを成せた人間はメイリア=バクギガンとアイジー=シフォンドハーゲンしかいない。あの聡明なキーナ=ペレトワレや呪いの解けたユルヒェヨンカ=ヤレイにしたところで、己の呪いの姿を見たことなど一瞬もないだろう。
 今アイジーがいるのはメイリア=バクギガンの研究室だ。教授の名を与えられた研究員には特別に《オズ》内の空き部屋から一室だけ自由に使える部屋を貰えるのだ。ヴァイアス=ルビニエルはそれを“調合室”とし、メイリア=バクギガンはそれを“手記室”としている。しかし部屋をよく見渡せば手記室など名ばかりで、部屋を占領しているのはよくそれを運べたなと感嘆してしまえるサイズのベッドだ。そして部屋の隅には申し訳程度に滑らかな木製の机と椅子が置いてあり――あのキーナ=ペレトワレが“あれは最早仮眠室だ”と言っていた理由がしみじみとわかる。壁に立てられた小さな本棚もすっからかんで、ただ無様にも机の上に散らかされてあった。アイジーはその椅子に腰掛けて、部屋を往復しながらべらべらとのたまうバクギガンをただじっと見つめている。何故こんなことになってしまったのかと首を傾げるしかなかった。
 確か――シェルハイマーとハルカッタ、あの二人から別れたあとすぐにバクギガンに捕まり、なんやかんやでここに連れて来られたのは記憶している――しかしあまりにもぼうっとしていたため、どうしてこんな話の流れになってしまったのかまでははっきりとしなかった。けれどこのバクギガンのことだ、けして無益な話はしないにちがいない、そんな感情からアイジーは無垢に従順に投げやりな耳を傾け続けていた。
「いくら《呪い》が自分自身、その姿が自分の脳でしか認識出来ないと言っても、外部に出すことは不可能じゃない筈だ」
「はあ……」
「呪いと共存するという路線で今まで私は研究を進めてきたが、どうやらまだ私が呪いの姿を見たというのを信じない人間がいるようでな……その為になんとかして私の話が偽りでないことを信じさせてやりたいのだが……ちなみに、ミス・シフォンドハーゲン」バクギガンは自分の背後をやんわりと指差した。「ここで先ほどから“あっかんべー”と君を小馬鹿にした態度を取っているクイーンの姿は、君には見えているだろうか」
「ちっとも見えておりませんわ」
 むしろそんなことをされていたのかとアイジーは眉を引き攣らせた。バクギガンはアイジーの見えぬ空に向かって「自重しろクイーン…………わかった、座る、座るから」と体勢を低くした。座りたいなら椅子を差し出そうかと思ったが、バクギガンはすぐに「気にしなくていい」と言ってベッドに腰掛ける。本当によかったのだろうかと顔を曇らせているとまたバクギガンは空に向かって「手厳しいな」などと言い放つ。多分噂の“クイーン”と話しているのだろう、会話が少し気になった。
「そういえばバクギガン教授は《ハートの女王の呪い》のスキルを応用なさると、以前お話していらっしゃいましたよね?」
「ん? ああ、そうだね。確か漏らしたことがあるかもしれない」
「応用とはどの範囲でですの? 聞いたときに気になってはいたんですが状況が状況でしたので……」
「どの範囲、か」
 バクギガンは難しい顔をした。言い辛いことを聞いてしまったのかとアイジーは少し申し訳なくなった。
 実を言うとその話にそこまで興味があるというわけではない。この話の流れだしついでに聞いておこうという、どちらかと言えばリップサービスに近いものがあった。聞いたほうが相手にとっても心地よいのだろうと勝手に判断してしまったのだが、それが裏目に出たらしい。ただでさえ自棄で怠惰だった心が更にのろまに焼き尽くされるのを感じた。
 しかしバクギガンは言い方を吟味していただけのようで、言い辛いどころかむしろ誇らしげに「つまりだな」と腕を組み直した。
「私の呪いは“強制力”――私の命令は抗えぬ力となり、たとえ抗えたとしても死んでしまう、というものだが、これは言い換えればスキルでもある。とても不吉で皮肉な話なのだが、ハートの女王の呪い、これは多分、スキルの共有から始まるものなのだ」
 ハートの女王の呪いとは、“絶対王政”の呪いだ。彼女の言葉には目に見えない“強制力”が存在する。彼女が発した“命令”に逆らった者は死ぬ――彼女の言葉は命となり、発せられた対象に浸透する。そしてそれは他の意識と関係なく暴走し、彼女の命を遂行する。命を自意識的に抗うことの出来る人間もいるらしいが、忘れてはいけない。彼女の“命令”に逆らった者は死ぬ。予測も前触れも用意もなく、いきなりその首がはねられる。なにもないところから鎌でも振り落とされたみたいに、ぼとりと首が落ちてしまう。彼女がやったのではなく、ハートの女王の呪いで。
「しかしだよ、ミス・シフォンドハーゲン。これが命を落とすリスクもなくただの“命令”として発することが出来たなら、それは素晴らしいスキルになり得るとは思わないか? それも対象を人でなく、物にまで変えれるとしたら」
「……そんなこと出来るんですか?」
 バクギガンはにやっと笑ってベッドを立つ。それからアイジーの腰掛ける椅子の側の机へと向かい、そこに置かれるペン立ての中に紛れてあったスプーンを一本、優雅な手つきで掬い上げた。
「見たまえ」
 バクギガンの深い色をした瞳がスプーンを見据える。それは熱い視線で、けれどそれ以上に、これからなにが起こるかを予想させるほどの威圧的な眼差しだった。

「“千切れろ”」

 千切れた。一瞬だった。硬そうな柄は自らの体をぐにゃりと螺旋状に歪めて、まるで噛んだばかりのガムのような柔らかさでぼとりと床に落ちる。切断面はぐちゃぐちゃで、あくまで捻り千切られたのだということがわかる。
 ぶわりと鳥肌が立って、アイジーの心臓はバクバクと震えだした。呆気にとられる目とは反対に、力なく緩みきった唇は「すごい」と無意識の音を出す。
「すごい、すごい! 素晴らしいわ! まるで魔法のようですわバクギガン教授! 本当に、なんて……あの、よろしければ記念にそのスプーン貰っても構いませんか!?」
「そんなに興奮されるとは思わなかったな」バクギガンは照れくさそうに苦笑した。「ちなみにこのスプーンは家のものなんだ、ばれたら私が母さんに怒られる」
 バクギガンは咳払いをして「“元に戻れ”」と命令する。すると床に落ちていたスプーンの首は糸に操られているかのような滑らかな動作でスプーンの柄の上に戻る。ぐにゃりと数回転したと思えば、傷も歪みもない、最初見たときのままの艶やかなスプーンが、彼女の手に握られていた。
 アイジーはしみじみと首を傾げて拍手を贈る。
「信じられませんわ、こんなことまで出来るなんて……!」
「これがスキルの応用だな。まだ人に試すのは“もしも”があると怖いから試せないが、少なくとも前よりは危険性が薄くなった。おかげでここ数日は口枷がいらなくなったね」
 そう言うバクギガンは清々しい笑みを浮かべている。真っ白い歯を煌かせて、本当に清らかな感情で、窮屈だった繭の中からようやっと抜け出せた蝶のように、健やかに伸びやかに。そりゃあそうだろう。約二十年間も重い口枷を着けてきたのだ。自分から言葉を奪い、音の根を固め、口を開かないようにした、その金属の錠前を外すことの心地好さは、きっと彼女にしか知り得ない。今はもう彼女自身が自制を学んだ状態にあるが、その前は彼女は誰彼構わず殺しかねない本当に危険な《災厄の子》だったのだ。世が世なら生まれた瞬間に殺されていたかもしれない。アイジー同様、他者に害を成す災厄なる存在だったのだ。
 はじめて会ったとき、目の前にいる果てしない自信に溢れた彼女は言っていた。ずっと死にたくてたまらなかった、と。――こんな、自分が誰かを殺してしまう念を抱きながら生きていくくらいなら、とっとと死んでしまいたかった――その気持ちはアイジーには痛いほどわかる。最愛の兄を殺してしまうという可能性の存在は途方途轍もない。今すぐに心を引き抜いてしまいたいほどの苦しみ、今すぐ心臓を引き取ってしまいたいほどの苦しみ。アイジーは少しだけ身を縮こまらせながら心臓のあたりをぎゅっと掴んだ。
 ちらりとバクギガンのほうを見る。自分の味わっている苦しみをどうにか乗り越えて、そしてこうやって生きている彼女。アイジーにとってはそれがとても不思議だった。不思議で不思議で堪らなかった。互いに共感できる筈の人間、それも災厄の子同士である筈なのに、アイジーにとってこのメイリア=バクギガンは首を傾げたくなるほど自分とは違っていた。
「ひとつ、よろしいですか? バクギガン教授」
「なんだい、言ってみたまえよ」
「どうしてバクギガン教授は、死ななかったのですか?」
 それを聞いた途端、バクギガンは首を突き出して眉を顰めさせた。アイジーは「えっと」と口ごもりながら躊躇いがちに言葉を繋げていく。
「その……自分は災厄の子なのに、死んだほうがいいのに、もしかしたら周りからも……死んだほうがいいと思われているかもしれないのに……どうしてバクギガン教授は生きようと思って……死にたいという感情と押し伏せてまで生きてこられたんでしょうか」
 バクギガンは可哀想なものを見る目でアイジーのことを見ていた。そんな目で見てほしくなくて、アイジーは思わず泣きそうになる。しかしその自分を見る目にはどこか共感が持てて、そしてこの眼差しは同情の他になく、もしかしたら自分もいつかこんな目を来る日が来たりするのかしらとそんなことをぼんやりと思った。
「君だって、本当は死にたくないだろう?」
「……ええ」
「口先でなら何度でも死にたいと言える。それでも心の中では、いつだって生にしゃぶりついていた。そういうものだ。人間なんて」
「……かも、知れません……ですが」
「私の場合は、キーナがいた」
 アイジーは紡ごうとしていた言葉を押しこめた。バクギガンの玉音のような声に耳を傾ける。
「キーナはいつも私を慰めてくれた。いや、慰めるとも少し違う。彼女は、私の味方でいてくれたんだ」
「味方……ですか」
「そうだ。昔からあいつは、周りが言うことと正反対のことを、いつも私に言ってくれた。あいつはけして偏らなかった。いつも私を中和してくれた。誰かが私を敵としたときは隣にいて、味方をしてくれた。私を責めることもあったけれど、私を苛むことはなかった。私が弱音を吐けばいつも最後まで聞いてくれた、強気な物言いをしようとしたら口を開く前に諫めてくれた。キーナはいつか言っていた――敵になることも味方になることも誰にだって出来る、問題は、周りが全て敵だったとき、味方になれるかどうかだと」昔のことを思い出すようにバクギガンははにかむ。「その意味では、キーナは本当に心強い味方だった。私はそれだけで癒された。まだ生きていてもいいと思えた。たとえ世界中の誰が私のことを恨んでも、キーナだけは味方でいてくれると、それだけで私は、生まれて初めて救われた気がしたんだ」
 いい話ですね、とアイジーが微笑めば、バクギガンは更にはにかんだ。二人は古くから仲が良かったと聞くが、なるほど、それはそれは随分と堅い絆で結ばれているらしい。運命の金色の糸は死が二人を別つまで繋ぎとめられているだろうし、もしかしたら来世でだって繋がったままでいるかもしれない。バクギガンの笑顔を見ていると、そんなことさえも思った。
「死にたいという気持ちは多分、風船のようなものなんだと思う。重りの石がなくてふらふらと、天に召されてしまいそうなか弱い風船。それをなにで止めておくかが大事で、見誤れば何度も浮かび上がってしまうし、見極めればもう死にたいという言葉を紡ぐこともなくなるだろう。それが私にとってはキーナだった。キーナが最初の重りだった。それからは父さんや母さんも私を繋ぎとめるようになった。有り難くて涙が出るね」
 そう言って、バクギガンはスプーンをペン立てに戻した。カランと響きのいい音を立てて、スプーンの銀色は縁に沈む。アイジーはそれをぼんやりと眺めながら、先ほどのバクギガンの話を頭の中で反復させていた。
 風船。
 死にたいという感情は、風船。その例えを素直に受け取れない自分は本当に捻くれているなと思った。燻した感情はきっと舞い上げる気流にしかならない。
 あーあ。
 その風船を作った人だって、この世界にはいるんでしょうよ。





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