ブリキの心臓 | ナノ

1


 季節は随分と温かみを失くしていて上着の一枚もなければ随分と肌寒く感じられる。いつの間にか移り変わるようになった空の色や香ばしい木の葉はそれを増長させていた。
 アイジーも薄い長袖とおさらばしてしっかりした生地のものを着るようになったし、それもカーディガンを羽織らなければなかなか耐え難い。コートを着る日もそう遠くはないだろう。マフラーや手袋まではいかなくてもそれほどの防寒具は必要になってきていたのだ。
「なのにブランチェスタったら相変わらずあの薄いシャツ一枚じゃない! 見ているこっちが寒いわ!」
 《オズ》から街へと下りる長い坂の中腹あたりで、アイジーは憤慨したように強く言った。隣で悠々とと推進ジェットチェアに乗るユルヒェヨンカが“もっともな言い分である”と頷いている。時計が午後の鈍角を刻み始めたときのことだ。
「確かにあの腕を出した服は今の季節には相応しくないね。衣更えが遅すぎるって感じ」
「でしょうとも!」
「私も、昔っからブランチェスタと仲良かったわけじゃないんだけど、確か去年煙突掃除してもらったとき、冬になってもあの格好だったことがあった気がする」
「ブランチェスタって北風の子かなにかじゃないの?」
「シオンは雪の女王なんじゃないかって言ってたよ」
 ユルヒェヨンカはくすくすと楽しそうに笑った。それから少しだけ首を傾げて「でも」と続ける。
「可哀相だよね。ブランチェスタ、上着を着ないんじゃなくって、持ってないんだって」
「そうなの?」
「うん、そうなの。あることには、あるみたい。カーディガン一枚。たったそれっぽっち。今着たら冬の本番になったら寒いでしょ? だから着ないんだって」
「……そうなの……」
 ブランチェスタは宝石商であるマッカイアの娘だ。煙突掃除屋なんてことをしているが、本来なら貴族並の境遇にあるべき恵まれた少女の筈だった。しかし彼女の義母と義姉が彼女を冷遇し、服や部屋を取り上げたのだ。今は自分の部屋も食事も全て揃っているようだけれど、服を買ったりお小遣を渡したりはしてくれないらしい。シベラフカ家との交流が深まるたび扱いも柔らかくなっていっているようだが、それでもまだ傍から見れば些か厳しい環境に置かれているように思われる。煙突掃除を小遣い稼ぎとしているようだけど、それで稼げる金など高が知れている。今日アイジーたちよりも少し先に《オズ》から帰っていった彼女は、もしかしたら今その煙突掃除の仕事をしているのかもしれない。これから寒さが厳しくなっていくだろうに、カーディガン一枚は流石にいただけない。
「彼女の誕生日って、いつかしら」
 アイジーはぽつりと呟いた。ユルヒェヨンカはにんまりと笑う。
「えへ、アイジー、私もね、同じこと考えてたよ」
 二人は顔を見合わせて、くいっと口角を上げる。それから互いに肩を寄せ合って隠し事でもするかのように声を潜めた。
「出来ればコートと帽子と手袋とマフラー、あと靴下を何足かプレゼントしてあげたいんだけど……流石にちょっと高額になるでしょうね、ブランチェスタが引いちゃうわ」
「あっ、待って。私ね、最近おばあちゃんにマフラーの編み方教えてもらったよ。お母さんに手伝ってもらったら一週間くらいで出来る」
「本当?」
「うん。まだ無地かストライプしか作れないけどね」
「いいえ、完璧よ! なら、私は……コートと靴下をあげましょう」
「素敵」
 決まりね、とアイジーは相槌を打った。
 友達にプレゼントをあげることなんて初めてで、それがこんなにわくわくするようなことだと知らなかった。相手の驚いた反応を想像するだけで頬が緩む。アイジーは思わずスキップしたい衝動に駆られた。
 そういえばユルヒェヨンカの誕生日はいつなのだろう。なんとなく雰囲気では冬か春生まれっぽいとアイジーは思った。シオンも春。ジャレッドは絶対に冬だ。あの冷たい青の瞳で夏生まれだと言われても違和感しかない。逆にゼノンズなんかは夏か秋だろう。勝手なイメージだが、我ながらしっくりくると思った。
 また皆にも誕生日を聞いておこうとアイジーが心に決めた――まさにそのときだ。

「ヨンカ」

 背後から声をかけられた。アイジーではない、ユルヒェヨンカにだ。彼女のことを愛称で呼ぶ人間などシオンしか知らない、けれどその声はシオンの爽やかなものとは似ても似つかない女物だった。アイジーもユルヒェヨンカも振り向く。
「……ハレルヤ?」
 ユルヒェヨンカは驚いたように呟いた。
 ハレルヤと呼ばれた少女を見て、アイジーがまず抱いた感情は際限なく溢れ出る猜疑心だ。なにを根拠にかはわからないが、目の前にいる同い年ほどの少女を、途徹もなくインチキ臭いと感じたのだ。くせっ毛な深い茶髪のセミロングも、健康的に焼けた肌も、ギラギラした緑褐色の目も、不安そうに握られた拳も、低く愛らしい背も、なにもかも全てが怪しく嘘臭い。太い鯨紐の目立つホルターネックになったボディスにブリーチェスを穿くという珍しい格好で――それもまた怪しいという感情を奮起させる。表情は上手く読み取れない微妙な造形を描いていて、よく見ると左顎のあたりに旧い縫い傷があった。
 どことなく野性的な印象を受けるその少女は、何故か全てが“信じられない”。
「久しぶりだね、ハレルヤ、どうしたの?」
 思い出した、とアイジーは心中でハッとなった。ハレルヤという名は何度か聞いたことがあるし、顔だって見たことがある。ユルヒェヨンカが元々つるんでいた、アイジーといるようになってからは疎遠になってしまった女の子だ。そのこともあってかアイジーはよく彼女に睨まれたりもするし、ユニコーンの角の事件のときなど二回も足を踏まれた覚えがある。
 雲行きが怪しくなるのではないかとアイジーは恐れた。もしかしたらこの少女の一言でユルヒェヨンカは自分から離れていってしまうかもしれない。それは確かにユルヒェヨンカの自由ではあるけれど、考えるだけでこの少女を嫌らしく思った。
「あのね……ヨンカ」
 どこか頼りない、嘘臭くてあてにならない、訝しいアルトがユルヒェヨンカを親しげに呼んだ。ユルヒェヨンカはただそれをじっと見つめている。
「話があるんだ、ちょっと、私に着いて来てくれる?」
「嘘つき」
 アイジーは思わずぎょっとした。
 それはユルヒェヨンカの即答が原因だった。自分と全く同じことを考えていたのを、深く驚いたのだ。ハレルヤの言葉は作り物のようでまるで真実味がない。虚構ばかりのパズルピースのようだった。
 ハレルヤは傷ついたように目を見開いて「嘘じゃないよ」と言う。しかしユルヒェヨンカはムッとなるだけだった。
「それもどうせ嘘でしょ、嘘つき」
「う、嘘じゃないって、お願い信じてよ、話があるだけだから」
「……ハレルヤの言うことなんて信じられないよ、絶対嘘だ」
「違うってば! お願い、来てよ、本当に話したいだけなの! 私ヨンカがいなくて寂しいの、また前みたいに話したりしたいだけなんだ、だから、いいでしょ?」
「だめ」ユルヒェヨンカは強く、きっぱりと言った。「どうせ、それも嘘だもん」
 ハレルヤはがっくりと小柄な肩を落とした。それすらも演技臭くて、アイジーは眉間に皺を寄せる。
 ユルヒェヨンカは淡々とした口調だった。高ぶるでもない、冷静な判断。酷く落ち着いている。彼女の怪しさを見抜いているように、アイジーと考えを同調させた。
「……お前のせいだ」
 気づけばハレルヤはアイジーを睨んでいた。緑褐色の瞳を尖らせる。ユルヒェヨンカのなまくらな瞳を見慣れているアイジーにとって、その鋭さは一種の恐怖だった。
 低く強く唸るように、吐き捨てるように、ハレルヤはアイジーに叫ぶ。


「お前のせいだ! アイジー=シフォンドハーゲン!」


 そう言ってハレルヤはタッタッタッと駆けて坂道を下りていく。
 泣いているようにも見えたがあれもどうせ嘘泣きだろう。さっきの言葉も意味がわからない。きっと適当なことを言って困らせる作戦に違いない。ああ、馬鹿馬鹿しい――――とそこまで考えて、アイジーは違和感に取り憑かれた。
 猜疑心はとうに消えて、代わりにもやもやとした感情が胸で疼く。どうしてあの少女をあんなにも疑っていたんだろう。あの少女の言葉全てが嘘だと思った。それが当たり前だと思った。ユルヒェヨンカが“嘘つき”と言ったのにももっともだと思ったしなにも感じなかった。でも今になって思えばそれのほうがおかしい。なんて酷いことを考えてしまったんだろう。それにユルヒェヨンカも――ユルヒェヨンカの気性を考えるとあんなにきっぱりと拒絶するようなことはしない筈なのに。
 アイジーが眉を曇らせていると隣のチョコレートの香りが仄かに沈んだ。
「…………やっちゃった」
 顔を覗きこんでみると真っ青だ。目尻に涙を溜めて唇を震えさせている。
「違う、違うの、嘘つきなんかじゃ、ないのに、そんなことないのに、やっちゃった、やっちゃった、どうしよう私、ねえアイジーどうしよう!」
 アイジーは目を見開く。チェアでうずくまってしまったユルヒェヨンカの背中を撫でながら、どういうことだと不安した。



「《狼少年の呪い》?」
 なんとか落ち着いたユルヒェヨンカに事情を聞いたアイジーは、訝しげにその言葉を紡ぐ。聞き慣れない単語ではあったが、全く知らないものというわけでもなかった。
「うん、そう、《狼少年の呪い》…………アイジーなら、知ってるよね?」
「ええ」
 アイジーは頷いた。そして思い出すように口を開く。


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