ブリキの心臓 | ナノ

1


 医師である父親が娘の彼女を跡取りに据えるとしたのは彼女が成人するころよりも前に決められていたことだ。今はともかくとして当時の彼女は、これといってやりたいこともなく、それを甘んじて受け入れた。いつからかは彼女自身も医学の道に興味を持ちはじめ、新たな知識を得ては人体の美しきメカニズムを、全ての意識を手繰り寄せるような玉音の声で滔々と、親友に語り聞かせていた。
 昔から人形遊びなんかよりも昆虫取りや色水作りなんかが好きで、思えばそのときから何かしら生物に興味を抱いていたのかもしれない。ぬいぐるみは持っていたがすぐに失くす程度には杜撰に扱っていたし、ままごとや塗り絵などにも没頭することはなかった。あどけなき彼女はアップルパイを啄みながら、ただ名も知れぬベビーブルーの蝶を捕らえては図鑑を貪るようにペラペラとめくったり、少し年下の弟に自慢したりしていた。

 そう、彼女には弟がいた。

 とは言ってもそれは幼き頃までの話だ。最後に親愛なるその少年を見たのは首と胴体が綺麗に切り離されたあとのことで。彼女はすぐに医師である父親に泣きついたが、勿論時既に遅し――治せない罰と直せない罪があることを知った。当時の彼女は可愛らしさも真っ青になって逃げ出すほど驕っていたように思う。そしてそれはまだ我が儘の利く子供だから、という慰めすら吐息一つで吹き飛ばせてしまうほどに深刻な問題だった。しかし彼女はそれに気づかず、七色の人生を謳歌しオーロラ色の夢を見ていたのだ。彼女は果てしなく女王様であり、そしてとても満たされていた。満たされていることに強く幸せを感じ、彼女は自分自身であることに喜びを感じていた。驕りであることすら知らない無垢な少女は、口をつぐむことすらせずに、まさかいる筈のないパイ泥棒にいつでも“首をお撥ね”と言ってしまえるカードの存在を、周囲に散らつかせていたのだった。
 彼女の弟はそんな彼女のカードに気づきながらも唯一“私はパイを食べておりません”と異議申し立てられる人間だった。彼は彼女の後をよちよちと着いてきたひよこのような存在で、父が無理にでも読ませたがった医療の本よりも、姉の見つけてくる蝶や植物に手を伸ばすことのほうが好きだった。彼の父親はそんな彼に肩を竦めながらも、甘いクッキーを焼く母親と“仲が良くて大変よろしい”と頷き合うことのほうが多かった。特別仲が良かったわけではない。ただごく普通に遊び、ごく普通に泣かせあい、ごく普通に過ごしていた、よくある姉と弟だったのだ。
 彼女の弟はいつも不服そうな顔をしていた。赤ん坊のように落ちてきそうなほど頬っぺたを膨らませ、ちびちびとジンジャーエールをおやつの時間に飲んでいた。彼女は家の中では完全な女王様、父親も母親も奴隷のようで。そのことに対して彼は幼いながらに違和感を感じていた。これはある程度成長した者のなら誰でも気がつく違和感なのだが、当時四歳ほどの少年が気がつくようなことではない。事実彼の姉である彼女は気づいていなかったし、気づこうとさえしなかっただろう。家は彼女が中心で、そして父親と母親――そして少なからず彼もまた、彼女の奴隷だった。彼女の家族は彼女の知らないところで彼女によって歪められていたのだった。父親は“自分には医師という仕事がある”と言っては彼女の前に立たないようにしたこともあったし、母親はそんな夫を恥ずかしく思いながらも彼女の機嫌をいつも伺っていた。母親は彼女の弟だけが心の拠り所だとでもいうように、寝るときは必ず彼を抱きしめていた。しかし彼はずっと不服だったのだ。姉への待遇、遜るような父と母、姉はよくて自分はだめで贔屓のような物の与え方、そしてなにより出来上がった体系に強烈な恐ろしさを覚えていたのだ。
 けれど彼女は全てに気づかない。あくまで無邪気な女王様。無垢で無知で無闇で無情な、絶対的な支配者。悩ましいほどに家族体系を歪ませていたのに、これっぽっちも悟ることがなかった。ただただ永遠の満ち足りた世界にいた。無知で愚かで浅はかで、けれどとても満たされていた。満たされて、そして間違いなく大きく勘違いしていた。もしかしたら、彼女にとっては弟の彼も、王様もしくは王子様だったのかもしれない。彼女はあくまでも弟に命令することはなかったし、どちらかと言えば弟になにかを恵んだりすることのほうが多かった。彼女は身近にいる年下の少年に、優越感と保護欲という正反対でありながら非対称な感情を抱いていたのだ。姉のその余裕に弟は更に不快感を抱くことになるのだがそれが根っからのものかどうかは判断がつかない。その曖昧さが更なる歪みを生んでいたというのは想像に難くないだろうが、それでも彼女や彼は、れっきとした姉弟だったのだ。
 雨の降るか降らないかの真っ白い冬の空のように靄のかかったその関係はきっと周囲の目からも不気味に見えたことだろう。母親はいつも世間体を気にしていた。なんとか普通の家庭に見せたくて、娘に甘いだけの母親を演じていた。彼女が涼やかな声で刃物をちらつかせ、心臓から冷や汗が泪のように溢れたときですら、甘やかに微笑んでその乱れを躍起に隠していた。彼女の父親も仕事に逃げながら、窮屈な生活を終わらせられる方法はないものかと頭脳を回転させていた――勿論その答えが得られることはなかったが、それでもその姿勢が妻の支えになっていたのは明らかだっただろう。無邪気な《女王様》の我が儘を叶えるためにどんどんと消えていく財産に比例し、母親の家計のやりくりは飛ぶ鳥を落とす勢いで上達していった。結果的に周囲の母親友達には羨ましがられながら彼女の母親は様々なやりくりを覚えていき、彼女の家は体裁を保つだけに留まらず羨望の眼差しで見られるようになっていた――実に、理想的な、家族であると。
 理想的な、家族だったのかもしれない。仕事に熱心な父、賢くて娘に甘い母、弟思いな娘に、姉に手を焼く弟。もしかしたら、理想的な家族だったのかもしれない。父と母に娘を叱るだけの勇気さえあれば、娘を叱れるだけの優しさがあれば、娘に“貴女はとても危険な子だけど、私たちは貴女を愛しているの”とさえ言っていれば、もしかしたら全ては上手くいったのかもしれない。けれどそれはあくまで仮定で上手くいくことなどありはしなかったから、彼女は弟にカードを切ってしまったのだ。それも今になってみれば馬鹿馬鹿しい、喧嘩するにも煩わしいようなちゃちな理由で。
 彼女の幸福は歪みを含めたその家族体系にあったように思う。父親がキムズカシイ顔をしながらセピアの新聞紙をめくり時事についてとうとうと語りだす、それを適当に受け流しながら彼女の大好物を晩御飯に作る母親に彼女はまだかまだかと鼻歌を歌う、彼女が捕ってきたカブトムシのメカニズムを腹から眺める弟は一切を無視して図鑑をめくる、その息子の様子に気づいた父が“お前には医者が向いているかもしれないな”と茶化しながら温かいジンジャーエールを口にする、彼女が我が儘を言えば母親は戸棚にある桃の缶詰をあけて“出来上がるまでこれで我慢しなさい”とフォークと一緒に差し出す筈だ、それを見た弟はまた不服そうに顔を膨らませてカブトムシも図鑑もそばにおいてテーブルへとのそのそやってくる、彼女は自慢げにフォークで桃を刺しそれを弟に差し出すのだ。どこから見ても完璧で満ち足りた幸福――仕事に熱心な父、賢くて娘に甘い母、弟思いな姉に、姉に手を焼く弟。絶妙なバランスで成り立っていた全てはがらりと音を立てて崩れ、真っ赤な飛沫をあげてその息の根を止める。もう二度と叶えられはしない幸福は二十年も前に潰えていた。
 二十年もだ。
 そう、あれから二十年も経ってしまった。もう遥か昔のことなのだ。もう彼女はたった一人の弟の顔も覚えていない。背や、声や、手の温度さえも、もう全ては泡のように消えていった。時計は忙しなくカチコチと時を刻み続け、どれだけ命令しようと止まることはない。もう二度と戻れない。彼女にとっての最大の幸福はもう二度と叶わない。それどころか、その幸福の欠片さえも失いかけている。欠けたパズルピースはもう見つけ出せない。新しく作ろうとしても全く同じものは作り出せない。幸福が一体なんであったかを忘れ、粉々に千切れて全てが砂塵になろうとしている。簡単に、容易く、消えてしまったのだ。弟と生きた時間よりも亡くなってからの時間が大きくなったとき、彼女は彼の存在ごと思い出せなくなった。確実に失った、殺してしまった、確かにいた筈の、たった一人の弟を。
 
 ――――駄目だ。

 嫌だ。戻りたい。まだ駄目だ。まだやり直したいことがあるのだ。こんなになってもなお言い残したことがあるのを彼女は思い出した。あれだけ滑稽に歪んでいても確かに存在したもの。背や声や手の温度さえ忘れてしまっていても、これだけは伝えたい。お願いだから往かないで。私が愚かだった。口に重い枷を嵌めて全てを終わらせた気になっていた。ただ自分から言葉という凶器を剥がして全てを拭った気になっていた。そんな中途半端でなあなあなだけの決別など無意味に違いないのに。なにが“全て忘れてしまった”だ。ただ引け目を感じて、恨まれるのが怖くて、当たり障りのない聞き触りの好い言葉で全てを終わらせようとした。私は今その言葉をインクで真っ黒に塗り潰してしまいたい感情に駆られている。忘れた、忘れてしまった、でも覚えている、ごめんなさい、たとえ歪んでいても、不和が止まなくても、その不服そうな顔が笑顔で綻ばなくても、私はあのまどろむような春の午後にも似た美しい時間が好きだった、愛していた、消えてほしくなんかなかった、なにも考えずにただ一時の誤った感情に流されただけで、黙ってほしくなんかなかった、ちっともうるさくなんてなかった、もっと罵倒してもよかった、怒鳴ってほしかった、叱ってくれればよかったんだ、まだ言い残したことがある、忘れたくなんかない、きっと怒るだろうが、お願いだ、我が儘で愚かで浅はかな私は、本当に心から君のことを――――


「メイリア?」


 彼女はハッとなって周囲を見回す。そこには名も知れぬベビーブルーの蝶も、昆虫図鑑も、新聞紙も、カブトムシも、桃の缶詰もなく、ただ見慣れた会議に用いるようなトタン色のテーブルだけが彼女の視界に広がっていた。
「どうした、メイリア」
「……すまない。ぼうっとしていた。なんの話だったっけ?」
「一体どこから聞いていなかったんだ……次の会議に必要だから本を貸してくれと言ったのはお前じゃないか」
「父さんの話は長いから……」
「なんだと」
 生意気な口を叩く娘に父はトンと肩を小突く。
 ふと握った手はオレンジの皮のようにザラザラとした感触。ずっとこうしていたのだろう、どれだけ時間が経っていたのか。メイリアはふうと吐息して姿勢を正した。
 国家研究機関《オズ》、彼女はその機関の人間だ。一年に一回、今まで呪いについて研究してきた成果を国に報告する責務があり、冬のその報告書提出に向けて彼らは一年を通して定期的に会議を設けて集まらなければならない。その第一回目の会議に必要な書類を纏め、更に新たな視点を取り入れようと医学書を父から借りようと思っていた。明日の朝一に会議があるため今晩中には父に借りようと思い話を持ち掛けたのだが、どうやらぼんやりしてしまったらしい。
 気を引き締めなければ、とメイリアは咳ばらいする。脇に置いておいた口枷を撫でた。
「にしてもお前がぼんやりするなんて滅多にあることじゃないな。靴下でも降って来るんじゃないか?」
「雲を生地にしているのなら是非とも一組欲しいものだね。稲妻の針を動かす妖精も大変だろうよ」
「眠り姫よろしく意識を手放していたようだが……その目覚めの気分はどうだ?」
 目覚めたような気分はしない。旅立っていた心地もしない。彼女はあくまでこの地上にいて、目に見えぬ雲の色にも似た真珠色の扉に手をかけることさえ出来ず、ただ人体のメカニズムを知るだけの無知だった人間だ。甘いパイの味は誰も知らないまま全ては終わりかけている。ここには名も知れぬベビーブルーの蝶も、昆虫図鑑も、新聞紙も、カブトムシも、桃の缶詰さえもなく、無機的な有機物だけが散らばっていた。
「ねえ…………父さん」
「なんだ」
 カンテラの中のダイヤ型をした火がゆらりと揺れた。トタン色の机の淵を明るく色づける。
「アップルパイが食べたい」
「我が儘を言うな」
 そう。我が儘だった――。
 彼女は切なげに苦笑する。
 彼女が長年ちらつかせていたカードは命令ではなく我が儘だ。もう女王は大人になり、災厄でも無知でもなくなった。父はもう逃げたりしないし母は彼女の機嫌を伺うこともない。彼がいなくなって絶妙な体系は崩れ、それでも滑稽さも歪さもなくあらゆることが完璧だった。間違ったままだったものは歯車を取り戻し、正しさへと紡いでいく。淡い存在と一緒に不和は消えたのだ。
 彼女は永遠に伝えることなど出来ないだろう。手紙でも気球でも届かないところに彼はいる。自分の代わりに父親の後を継ぎ、自分の代わりに美しき人体のメカニズムを友に語り、自分の代わりに災厄も最悪もなく生きていた筈の、たった一人の弟。

 そう、彼女には弟がいた。

 もう彼へ繋がるものはなに一つなかったとしても、彼女には弟がいた。恋い焦がれるほどの、幸福の象徴が、確かにいたのだ。

「アップルパイが食べたい」
「ああ、もう、わかった、母さんに作ってもらえ」





いつか君も消えてしまう



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