ブリキの心臓 | ナノ

1


「蛞蝓が死んでたの。きっと恥ずかしかったんだね」
 彼女は雨に撃たれていた。赤毛はまるで血のように、ぼたぼたと重い滴を垂らしていた。
 《オズ》の構内に続く階段に腰掛けるゼノンズは、大きな楕円形の屋根のおかげで雨に濡れることはなかった。傘を忘れる彼ではなかったがこんな土砂降りに怯えないわけがない。風邪を引いてはたまらないと、屋根の外へ飛び出す気は皆無だった。
 しかし彼女は全くの真逆だった。雨に怯えるそぶりを見せず、髪や服を存分に濡らし、屋根もない外でぼんやりと立ちつくしていた。湿気特有の甘い香りとチョコレートの香りが混じり合う。それは紫陽花色の空気に晒されながら土の影を深く浮き彫らせた。
「風邪を引くぞ、ヤレイ」
「平気」ユルヒェヨンカは振り返らずに言った。「塩水じゃないんだもん、大丈夫」
 意味がわからないことを言うと思った。へにゃりとなったスカートやエプロンや髪がとてもだらしなく見える。もしこの雨が塩水だとしたらそれはとても大変なことだろう。蛞蝓は塩をかけると死んでしまう――人魚が泡になるような、魔法の粉のようなものだ。
「蛞蝓がね、死んでいたの。きっと恥ずかしかったんだね」
 また同じことを言う彼女にゼノンズは溜息をついた。もしかすると彼女は自分に反応を求めていたのかもしれない。
「恥ずかしいってなにがだ?」
「貝殻がなくなっちゃったんだもん、素っ裸にされてとっても恥ずかしかったんだよ」
「ああ……」ゼノンズは明後日の方向を睨んだ。「蛞蝓は蝸牛の殻が退化したものだったな」
 バナナにも似た蛞蝓の形状を思い浮かべ、そこからその棒に丸を乗せたような蝸牛を想像する。ゼノンズは正直な話、ああいうヌベヌベした生物は好きではない。気持ち悪いという感情がまず先行するし、鳥肌が立つような軟体を目にするのも不快だ。確か噂ではあのギルフォード校希代の変人であるリラ=エーレブルーが蝸牛をペットにしているらしいが、そんな変人でなければまず買わない生物だろうと確信していた。外国ではあれを食べる料理もあると聞くがゼノンズは生理的な拒否反応しか示さなかった。そんな自分が何故こんな話をしなければならないのか、ゼノンズは不思議でたまらない。しかしそんなゼノンズの意思とは無関係に、彼女は小さな唇で言葉を紡ぐ。
「うさぎは寂しいと死んじゃうけど、蛞蝓は恥ずかしいと死んじゃうんじゃないかな」
「そうかい」
「横に貝殻が転がってたの。綺麗な黄緑色をしていたよ」
 それを聞いたゼノンズはゆっくりと首を傾げた。
「ヤレイ、それは蛞蝓じゃなくて蝸牛なんじゃないか?」
「違うよ」
「でも殻があったんだろう? ……誰かが引き千切ったのかもしれない」
「ミスタ・ヘイルったらおっかない」
 ユルヒェヨンカはおどけるように言った。それからエプロンに含まれた重みを切るように、真っ白いそれをぎゅっと絞る。だぼだぼと水が湧き出て水溜まりを増やした。
「大丈夫、私もうわかるもん、あれはちゃんと蛞蝓だったね」
「じゃあなんで殻なんか落ちてたんだよ」
「だから、言ったじゃない」一拍置いた。「恥ずかしかったんだよ」
 もう付き合ってられないと思った。なんのために自分がこうして彼女と話しているのかちっともわからない。勝手に濡れて風邪を引いて蝸牛にでも蛞蝓にでも看病されるといい。
 ゼノンズが立ち上がろうとしたそのとき、彼女は強く口を開く。
「私ね、ずっと蝸牛も蛞蝓もおんなじだと思ってたんだ」
 ――何故かはわからない。何故かはわからないが、ゼノンズはその言葉に容易く静止した。彼女がどんな顔をしているかはわからないが、なんとなく見てはいけないような気がした。
「蝸牛は殻を脱いだらきっと蛞蝓になるって、蛞蝓は殻を被せたらきっと蝸牛になるって、私ずっと信じてたんだよ」
 ユルヒェヨンカは薄く笑った。自嘲めいた吐息に似ていた。
「だからね、蛞蝓を見つけては殻を被せたりしていたの。随分まぬけな慌てんぼうさんだなあって思いながら、何度も何度も被せていたの。でも全然上手くいかなくて……すぐにずるって落ちちゃった」
「……………」
「ヤドカリみたく殻は付け替えれるんだって思ってたんだ。でも、蝸牛は殻に大事なものをいっぱい詰め込んでたんだね。空っぽの貝殻なんかじゃ及びもしないくらい、レプリカなんか鼻息で飛ばせちゃうくらい、色んな中身が詰まってたんだね……」
 彼女はポケットかをまさぐる。黄緑色の貝殻が出てきた。それを無遠慮にぽいっと投げやる。水溜まりが波紋と飛沫で歪に変形した。


「馬鹿だよね、蝸牛と蛞蝓じゃ、全然違うのに」


 思わず、ゼノンズは目を見開いた。ただ雨に濡れるだけの華奢な少女を見つめる。丸い赤毛には曇った紫の影が落ちていた。
「蛞蝓じゃ蝸牛にはなれないのに、蛞蝓にはまるでなんにもないのに、殻をつけたところでちっとも変わらないのに、絶対届く筈ないのは当たり前なのに」
 ゼノンズは嫌々しい雨の中を踏み締める。そしてユルヒェヨンカの手首を掴んで構内まで引っ張って行こうとした。ユルヒェヨンカは抵抗するでもなくそれに従順に従う。グレーの瞳は空よりも重かった。
「風邪を引くって言ってるだろ、ヤレイ。とにかく着替えを貰いに行け」
「…………うん」
 ぼんやりしたユルヒェヨンカに人差し指を向けた。ゼノンズは怒気すら見えるような口調で強く言う。
「そのおつむは空っぽじゃないだろ、わかったら、早く行くんだ」
 ユルヒェヨンカは少しだけ驚いて、それからとろりと俯いた。絞って皺のついた硬いエプロンのあたりをじっと見つめる。
「……わかった、早く行く」
「よし」
 濡れて堅くなった赤毛を寄せて、ゼノンズはユルヒェヨンカの顔を見た。白い肌にも雫の粒がたくさん弾けていたので、ポケットからハンカチを取り出して万遍なく拭いてやる。
 目をつぶりながらされるがままになるユルヒェヨンカは「ねぇ」とゼノンズに言った。
「着いて来てくれないの?」
「当たり前だろ、なんでお前なんかのためにそこまでしてやらなきゃいけないんだ」
 一通り顔を拭き終わったゼノンズはハンカチをユルヒェヨンカの頭の上に乗せた。灰色の目は不服そうに彼を見上げている。
「手塩にかけて育ててた蛞蝓が死んじゃったような気分」
「そりゃ死ぬだろうな」





君は蝸牛だった



× | ×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -