ブリキの心臓 | ナノ

1


 ――最後に笑っているところを見たのは一体いつの頃だろうか。だらりと重い腕を垂らしながら、エイーゼはただ考えていた。
 今の目の前の半身には笑顔の影さえもない。呆れ果てるほどに惨めで、痛々しいほどに哀れだ。踏み潰された蝶のように儚いその姿は、数年前に自分を無理矢理遊びに誘った少女と同じ人間には思えない。
 自分の視線を勝ち得たくて飼っていた魚を今こうして咀嚼している双子の妹にエイーゼは恐怖を覚えた。形の良い唇からは魚の尾鰭が垂れていてまるで血のようだ。自分のと同じバイオレットグレーの瞳はその尾鰭のようにどろりとしている。彼女はゴリッとその朱色の肉を食んだ。少なくとも、美味しいという表情はしなかった。
 最後にエイーゼがアイジーの笑っているところを見たのはいつだっだだろうか。どんな風に笑っていたかさえ思い出せない。ここ数年はお互い視界に入れることさえ躊躇っていた。最近の双子の妹の顔を思い出すと、それは悲惨と自責に歪んでいた。アイジーは虚ろに俯いてしまた。きっと今も、エイーゼの視界の外で、そういう顔をしているのだろう。見飽きている上に見たくもないものを見る必要はない。けれどそんな顔をしているかもしれない妹に胸を痛めるのも、兄としては当然というものだった。
 アイジーは災厄の子だ。
 呪われた災厄の子――自分に仇為す不吉な存在。イズに諭されるまでもなく、エイーゼもなんとなくわかってはいた。生れつき体が弱いことの理由。間違いなくアイジーが災厄の子だったからだ。
 エイーゼは呪い持ちの人間でない。だからアイジーの気持ちはわからなかった。呪いを持つとはどういう気分なのか。どういう感覚なのか。一番端の光のスペクトルまではっきりと、見える世界がまるで違うのだろうか。聞き取る音全てがビブラートするほど異なっているのだろうか。エイーゼの感覚として一般人よりも目玉一つ分ずれた位置にいる呪われた彼女の存在は、散り乱れた薔薇の花びらよりも儚く感じられる。見目は自分と変わらない――けれどすっかり違うアイジー=シフォンドハーゲンは、その昔、エイーゼ=シフォンドハーゲンにとって半身以上の役割を果たしてくれていた。生まれつき体が弱く、オーザやイズの言いつけのせいでろくに遊べもしないエイーゼに“外へ行きましょう”と手を伸ばしたのはアイジーだった。きっと彼女がいなければエイーゼの幼少期はとてもつまらないものになっていたに違いない。日蔭や室内を好み、芝生を駆け回ることさえ出来ず、青白く微笑むか細いだけの虚弱な少年――そんな架空の現実を想像してはエイーゼは薄ら寒さを覚えた。あの幼少期に双子の妹の手を取っていなかったらどうなっていただろう。彼女の傲慢や我が儘を煩わしく思い、その笑顔を鋭く切り捨てていたとしたら、どんな鬱屈した人間になっていただろう。アイジー=シフォンドハーゲンとはそんな有り得た未来を華麗に拭い去ってくれた、そんな存在だった。親愛していた、感謝もしていた、いくら我が儘を言われてもあの慈しい妹が笑ってくれるならなんだって許せた。
 それが、どうだ。
 自分の手を引いて日だまりの中にいた彼女は、エイーゼから拭い去った未来を丁寧に着込み、月のように青白い顔をする鬱屈した人間に成り果ててしまった。災厄の子だと――残酷に呪われた、自分を蝕む存在だと知って、いずれ死ななければならないと知って、大きく歪んで朽ちてしまった。エイーゼが忌避していた可能性を、あのアイジーがそのままに受け継いでいる。もう笑わない、傲慢しない、生きていることを申し訳なさそうに目を濡らす、死を差し出す妹が、目の前にいた。
「は、ぅん、ぐ」
 アイジーの口で地獄を迎えた魚の骸をエイーゼは指で掻き出した。その間も生理的な嫌悪や怯えは止まらず、今にも泣きたい心情に駆られていた。
 七歳のころに運命は変わった。アイジーが災厄の子であると知った。どちらか一方が生きているかぎりどちらか一方が死ななければならないのだと知った。アイジーが呪われていることを知った。アイジーが邸から出してもらえない理由を知った。アイジーが、自身の命を自分のために差し出したことを知った。
 気づいたときには、そうだった。
 なにを言うでもなく、アイジーは自分に対し引け目のような感情を抱き、まるで赦しを乞うように自身の命を差し出すようになった。貴方のために死ぬ、と。だから大丈夫、と。誰もそんなこと、望んでなかったのに。
「――水が飲みたいわ」
 弱りに弱り掠れに掠れた声。かつて軽やかに、歌うように可憐な響きで親愛を告げた彼女の声は、最早狂おしいほど違い果てている。極端に内気になり、部屋に篭るようになり、日蔭で生きる人間――ある意味でエイーゼは、このアイジーを自分の妹だと思うことを出来ないでいた。違う。全然違う。僕の妹はそうじゃない。そうじゃないんだ。アイジーならきっとこんな悩ましげな目をしない。こんな馬鹿みたいなことをしない。自分を引っ張って行ってくれた天使のような妹が、羽をもがれて床に崩れこんでいる様を、エイーゼは絶望的に見つめていた――否、見つめられなかった。
「お前は……、お前が。それを」
 エイーゼが重く言葉を紡ぐ。自分自身でもなにを言おうとしているのか全くわからなかった。ただ響きは鋭く尖っていて、アイジーを責めるためのなにかなのは間違いない。お前は何故それを食べようとした。およそそんなところじゃないだろうか。哀惜するような感情を口にしようとしているのだということだけはわかる。決して寡黙ではないエイーゼだが、自分の感情を語るのを一番の不得手としている。こうして言葉として空気に滑らせるのは意味の千切れた可哀想な音ばかりだ。どちらかと言えば要領のいい彼ですら、この決別した妹の衝撃的な現場を目の前にすると冷静ではいられなかった。
 十四歳。生まれてからもう十四年も経ってしまい、そしてそれだけの変化を二人は遂げてきた。全ては変わってしまった。二人して庭で遊ぶことなどもう二度とない。それをするにはときが経ちすぎている。もう七年ほども前のことだ。もうすぐ二人は十五歳になり、アイジーは死ぬ。死ぬ。そう、死ぬのだ、アイジーは、エイーゼが知るよりも先になんの断りもなしにそう決められていた。

「もうすぐだわ、エイーゼ」

 その言葉に、エイーゼはぴくりと反応した。お揃いのシルバーブロンドのキューティクルが、ヒラヒラと煌めきの色を変える。
「もうすぐで私たち、十五歳になるのよ」
 もうすぐで私は、貴方のために死ぬのよ。
 エイーゼは更に目を細める。顰めた顔からはどろりとした透明の血が流れてきそうだった。灰のように血色の悪い肌はあからさまな失望を浮かべる。バイオレットグレーの瞳は苦渋の弧を描いていた。エイーゼは唇を噛み締める。
 こんな筈じゃなかったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。アイジーの言葉すらもうなにも入ってこないようだった。宇宙のどん底に放り投げられた彼は無重力の圧力を全身に浴びる。潰れてしまいそうな胸はもう傷つき疲れていた。このあとに続くアイジーの言葉など、自分を抉るその言葉など、容易に想像が出来る。
「ちゃんと死ぬわ」
 ――聞きたくない。
「貴方の負担にならないように、貴方の不安にならないように」
 嫌だ、そんなのは嫌だ。聞きたくない。嫌だ。嫌だ。
「ちゃんと死んで、そうしたら、貴方は幸せに生きていけるわよね」
 本当に、お前は馬鹿だ。
 エイーゼはなにも返さない。ただ冷たく「その死骸は捨てておけよ」と言い捨てて、部屋から出ていく。出て行った。せっかく言葉を交わすことの出来た妹を置きざって、孤独の痛みへと出て行った。
 自分にとっての疫病神とはなにも話したくないんだろうな――アイジーはきっとそう勘違いしているのだろう。エイーゼだってアイジーの心情はよくわかっているつもりだ。どんなに冷たくあしらわれても無視されても睨まれても、アイジーはけしてエイーゼを責めず、自分が悪いのだと思い続けた。わかってほしかった。アイジーに。そうじゃないことを。今でもアイジーを好きなことを。死ぬだなんてそんな寂しいことを言ってほしくなくて、呪われた子だとしても愛していると――。
 どこで間違えたのか。
 どこで誤ったのか。
 それすらもわからないまま死の一日を待ち続ける。エイーゼは押し殺すように泣いた。自分の部屋の床に崩れこんで、思い通りにならない現実を呪った。呪われているのは自分のほうだとさえ思った。
 エイーゼ、私、死ぬのよ。もうなにも心配いらないわ。今まで哀しい思いをさせてしまってごめんなさい。でももう大丈夫。貴方はきっと、何事もなかったようにやり直せるわ。――なにが、なにがやり直せるだ。やり直せるわけがないのに。そんなの、出来っこないのに。心配どころか絶望でたまらない。間違ったごめんなさいも大丈夫もいらない。哀しい思いなら今もしている。お前はなにもわかってない。どれだけ凄惨な仕打ちを強いているのかまるで理解していない。馬鹿だ。お前は本当に馬鹿だ。


 お前なしで生きていけと、そんな残酷なことを僕に言ってるんだぞ。





間違い探し地獄



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