ブリキの心臓 | ナノ

1


――最後に笑いかけてくれたのは一体いつの頃だろうか。どろりと重い瞼を閉じぬまま、アイジーはただ考えていた。
 口の中は生臭い水で満ちていて、まだびちびちと“それ”は動いている。威勢のいい尾ひれはアイジーの形の良い唇を叩いては懸命に脱出を試みていた。アイジーは不快感に眉一つ寄せないで、その口の中のものを歯で擂り潰した。嫌な触感がした。気持ち悪い。血とも泥ともつかない奇妙な感触が、口の中で盛大な惨禍を歌っている。生命合唱祭はフィナーレを迎えて、アイジーが口を開く頃には既に死んでいた。口の中ではぴらぴらと唾液に塗れて鱗が動いている。眼球のような丸い粒が舌に乗っていて気持ち悪い。小さな骨はガリッと言う音と共に崩れだして、アイジーの口から血と一緒に毀れて逝った。
 その様を厭らしそうに見る、目の前の兄・エイーゼを、アイジーはじっと見つめた。
 エイーゼは気味悪そうに気持ち悪そうに、それでも確実に、アイジーのほうを見ている。それだけで、アイジーは心に花が咲いた。彼の名前を呼びたくて口を動かすけれど、今は気持ち悪い死骸しか出てこない。
 エイーゼは冷たい目を向けたまま、彼女の口の中に指を突っこんだ。
「は、ぅん、ぐ」
 アイジーの口の中をエイーゼの指が這う。
 その指が口から掻きだした物は、小さな魚の死骸だった。
 オーロラのように移り変わりゆく朱色の鱗を持つその魚は、およそ原形と呼べるものを残すことなく、無残に死んでいた。アイジーの口を染めるそれを全て掻き出して、手頃な布でその汚れを拭いた。自分の指に擦りついた唾液や死骸液に嫌悪を剥き出しにしながら、エイーゼは呆れた吐息をついた。その、自分を軽蔑するようなその鋭い吐息すら、アイジーは愛していた。
 最後にエイーゼがアイジーに笑いかけてくれたのはいつだっだだろうか。どんな風に笑っていたかさえ思い出せない。ここ数年は、お互い視界に入れることさえ躊躇っていた。最近の双子の兄の顔を思い出すと、それは侮蔑と嫌悪に歪んでいた。
 アイジーは虚ろに俯いてしまう。
 きっと今も、アイジーの視界の外で、そういう顔をしているのだろう。見飽きている上に見たくもないものを見る必要はない。それに胸を痛めるのも馬鹿らしいというものだった。
 あの頃に戻りたい。自分が災厄の子だと知らなかった、なにも知らなかった無邪気なあの頃に戻りたい。
 無知のまま成長できなかったアイジーは、己の罪を知ってしまった。
 自分がいるとエイーゼの邪魔になる。
 自分が生きているとエイーゼは生きられない。
 災厄の子。生まれ損ない。呪われた子供。不吉の子。
 もうとうに聞きなれてしまった言葉を反芻して、そしてそのたびに、口に含んだような泥の味が、心臓を重く腐らせていく。
 これほどまでに、生きていて惨めなことなど、きっとそうない。愛しい双子の兄の重荷となるまま生き続けるだけの人生なんて、雨の降る深夜をただただ歩き続けるほうが、よっぽど心地よい。イズとオーザの愛情の意味も、家から出られない理由も、双子の兄の冷えきった視線も、いつからか全てを悟って勝手に傷ついて――ただ死ぬのを待つだけの時間が増えていった。
「みず、が」
 水が飲みたいわ。
 掠れた言葉が耳たぶに届く。自分の声とは思えないほど澱んでいる。
 さっき咀嚼した魚の感触が残っていて、気持ちが悪かった。まだ鱗が咥内に残っているのか変な歯ごたえがする。ぐちゃぐちゃになったそれを――ついさっきまで飼っていた魚を――ただぼうっと眺めて、エイーゼの顔を見ないようにする。
 彼が動く気配はない。もうアイジーのお願いを渋々と聞いてくれる優しい兄はいない。ただこうやってアイジーの部屋で、アイジーの目の前にいて、そして、お互いがお互い全く別のほうを向いて、一言も喋らずにいる。
「お前は……お前が、それを」
 エイーゼが重く言葉を紡ぐ。
 なにを言おうとしているのか全くわからなかった。
 ただ、響きは鋭く尖っていて、アイジーを責めるためのなにかなのは間違いない。お前は何故それを食べようとした。およそそんなところだろう。侮蔑するような感情を口にしようとしているのだということだけはわかる。決して寡黙ではないエイーゼだが、自分の感情を語るのは一番の不得手としている。こうして言葉として空気に滑らせるのは意味の千切れた可哀想な音ばかりだ。どちらかと言えば要領のいい兄の、その不器用な一面に、アイジーは昔馴染みのエイーゼを見つけた気がした。
 十四歳。生まれてからもう十四年も経ってしまい、それだけの変化を二人は遂げてきた。全ては変わってしまった。二人して庭で遊ぶことなどもう二度とない。それをするにはときが経ちすぎている。もう七年ほども前のことだ。
 小さかったエイーゼは英姿颯爽とした少年になり、アイジーと同じだった身長を五センチほども引き離して逞しく成長していた。丈夫でない身体もほぼ少年らしさを取り戻して、今や、アイジーよりも身体を動かすのは得意だった。勉学でも優秀な成績を修め、シフォンドハーゲンの後継ぎとしては申し分ない。美しい母親と立派な父の望み通り、まるで二人の生き写しのように優秀で美しい少年へと成長したエイーゼ。笑顔を見せる回数が減った分、頼りないところを見せる回数も減った。
 アイジーは誰もが息を呑む少女へと成長した。真珠のような真っ白い肌に形の良い唇。目鼻立ちはほっそりとたおやかで、バイオレットグレーの澄んだ瞳は長い睫毛で縁取られている。淡く発光するかのようなシルバーブロンドは背中にまで届き、絹糸のようにふわりと踊っている。美の女神かと感嘆の溜息を漏らしそうな美しい少女は、エイーゼと全く同じ顔で、それでも男女の違いを感じさせる顔立ちだった。
 二人とも期待通りに見目麗しく成長し、そして成長した分だけ、その溝は歪にも深まっていった。
 大きくなったらエイーゼと結婚するの。そう言ったのはいつだったか。本気にしてしまうほど愚かで重い言葉でもなかったが、幼心だと思って軽んじられるほど安い言葉でもなかった。少なくとも、アイジーは誰よりもエイーゼを愛していたし、できることなら結婚をしてもかまわないとすら思っていた。しかし、可笑しなことに、背が伸びるほど溝は深く、そして遠く。凍てついた関係だけが今の状態で、もう昔のようには戻れない。きっともう永遠に二人の関係は修復されないままだろう。アイジーはエイーゼにとって害悪以外の何者でもなく、そしてアイジーはエイーゼが自分を見放したことをとうに理解している。
 仲が良かった兄妹。
 戻りたい。
 もう一度その手に指を絡めて微笑んで欲しい。
 でも、その願いは絶対に叶うことなどなく、アイジーはそんなこと、もう十二分に知っている。願うだけで簡単に叶ってしまうのなら、七年もこんな関係を続けたりはしていない。
「エイーゼ」
 双子の兄の名前を呼ぶ。彼は何の反応も示さなかった。
 彼はいつもそうだ。アイジーが自分の名前を呼んでも、それを自分のものであることを拒むかのように、頑なに言葉を返そうとはしなかった。双子の妹の姿を、バイオレットグレーの瞳に映すこともしない。触れ合うなんて尚更だ。今こうしてアイジーが双子の兄の名前を呼んだところでどうにもならないのは、もう痛いほど身に滲ている。いつものことだ。泣いても叫んでも、彼は一瞥もくれないだろう。アイジーは唇をきつく噛んだ。たった一人の兄なのに、自分の大事な半身なのに、可愛がっていた魚を食べることでしか――彼を自分に引き留めることが出来ない。
「エイーゼ」
 もう一度名前を呼ぶ。やはり反応はなかった。ただ悲しい声が部屋に響くだけだ。
 カナリアイエローのドレッサー、天蓋付きのベッド、絢爛豪華な絨毯に、繊細な刺繍のワンピース。アイジーの部屋や、アイジーの身に着けているもの、その全てを見て誰もが“王女様のようだ”と思うはずだ。けれど彼女の表情は王女様のそれではないし、彼女の心境もまだ同じだ。ダイヤモンドのように硬質な棘が何年も心臓に突き刺さったままの、死を待つただの可哀想な少女だった。
 そう。
 死を待つただの、可哀相な少女。
 十四回の麗かな木陰と、十五回の劈く日差しと、十五回の紅い木々と、十五回の凍てつく花を見てきた。今は丁度雪も溶けて花が咲いていく時期だ。十五回目の木陰を過ごせば、アイジーは死んでしまう。そしてその日までにはあと一ヶ月もない。


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