ブリキの心臓 | ナノ

4


 無理矢理に振り向かせると、ぼんやりとした目と搗ち合った。溶けたバターのように黄金色をしている瞳はアイジーを映した途端困惑に歪む。心なしか顔色も優れない、なにかに怯えているようだった。シオンはひくついた唇を動かして「アイジー……」と掠れた声をあげた。
「大丈夫? シオン。貴方……すっごく気分が悪そうよ」
「……大丈夫だよ。心配かけて、ごめん」
 シオンは身を強張らせて緊張している。手はぎゅっと握りしめられ、肌の下から腱が浮かび上がっていた。今は会わないほうがいいというのはこういう状態のことだろうか、アイジーは心中でぼやきながらシオンに返す。
「いえ、いいのよ……あっ、そうじゃないわ! まさか放送を聞いていなかったの? 今《青髭》が……とにかくここから逃げなきゃいけないのよ!」
 行きましょう、とアイジーは手を引いた。しかしシオンはすぐ様に険しく表情を変える。
「うるさい、勝手なことを言うな! 理由もわからないのについて行けるわけがないだろ!」
 アイジーは目を見開かせた。思わず手を離してしまう。その様を見てシオンはハッと顔色を変えた。怯え竦んだ眼差しでアイジーを見つめている。しかしすぐにたどたどしく「あ……ご、ごめん、違うんだ」と早口に言う。アイジーは一瞬驚くも、すぐに首を振って苦笑した。
「いいえ、貴方の言う通りだわ」落ち着かせるように囁く。「ありがとう、教えてくれて。危うく私、誘拐犯になっちゃうところだったわ!」
 その言葉に暫くシオンは呆然としていたが、五秒も経たないうちに炭酸が気抜けたかのようなひそやかな笑みを浮かべる。溜息まじりに肩を揺らしながら「ううん」と返した。
「ごめん、アイジー……誘拐していいよ。理由ならあとで聞くから……君がそんなに急いでるならよっぽどのことなんだよな?」シオンは悩ましげに息を荒げる。「ただ今ちょっと……俺、ダメなんだ……あんまり、その、構わないほうがいい……」
 アイジーは“またこれだ”と睥睨した。ダメって、一体なにがダメなんだろう、もしや“シオンと自分と話すことはダメだ”という遠回しな拒絶だろうか。うんざりした顔をしていると、シオンは不思議そうにアイジーの顔を覗き込んだ。
「アイジー?」
「ううん、なんでもないわ。それよりも早く逃げましょう。今ここには危ない殺人鬼が私たちを狙っているのよ。ドラマチックな悪夢でしょ?」
「……ああ、そうだね、アイジー」シオンは目を細めた――なにやら様子がおかしい。「ちなみにその殺人鬼って……“ああいうの”のことかい?」
 その台詞にアイジーは冷たく戦慄した。背中から氷が滑り落ちて熱を生むような感覚。
 シオンの疑わしげな視線の先、自分の背後、緩慢になりきれない不器用な速度で振り向いた。
 それは自分と同い年くらいの少年だった。ボサボサの、黒よりも少しだけ淡いチャコールグレーの髪がそよそよと風に靡いていた。鼻の周りのそばかすが可愛らしく、目は盲目的な色だった。どことなく地味な服装で真っ黒いズボンは裾がほつれていたりした。ひょろそうなイメージを抱く青瓢箪なその少年は、あろうことか、手に鉈を握っている。人間くらい簡単に殺せそうな、おっかない鉈を。
「……………ぁ」
 アイジーは竦み上がった。しゃくりあげるような声が喉から飛び出る。
 その少年からは荒々しい息が漏れていた。今にも誰かを殺してしまいそうな様子は悪魔に見えないこともない。鉈を持つ手は興奮に震えて、こうして飛び掛かってこないのが奇跡にも思えた。黄ばんだ歯をぎちいっと食いしばり、こちらに近づいて来る。獣のようこの少年の目には、最早一つの衝動しか宿っていない。肌で感じるこのピリリとした視線――間違いであってほしいくらいの、烈しい殺人衝動だった。
「……多分、そうだわ……」
 その鉈の鋭利さに、アイジーは言葉を失った。推理小説の犯人視点で出てくるような光景が、今眼前に広がっている。固まってしまった体は動かなくて、足の裏は地面に縫い付けられたみたいになっていた。
「………ぃ、イ、ひは、ク……ッ」
 鉈を持った少年の唇から意味のない音が漏れる。狂気的なそれはアイジーを震え上がらせるには十分だった。アイジーは真っ白い顔を蝋のように青ざめさせる。周りの音を忘却した。逃げる足音が、悲鳴が、遠くでチカチカと瞬いている。
「ひ……っヒ、は!」
 まるで人間じゃない足取りで、こちらへと近づいてくる。病的な動作で鉈を振り上げる少年は、自我を保っているとは思えなかった。
 逃げなくちゃ。
 逃げなくちゃ。
 でも、体が動かない。
 ふと、アイジーの背後で獣の唸り声が聞こえた。喉を震わせてグルグルと低い音を出す――威嚇に他ならない声だった。
「……――シオン?」
 アイジーはか細い声でシオンを見遣る。振り向けばシオンは低い姿勢でいた。鉈を持った少年を燃えるような瞳で睨みつけている。喉から鳴る威嚇の声は牙を生むように煌めいていた。まるで獣のような対応をするシオンにアイジーは眉を寄せる。
「……な、にを……」
 さっきから様子がおかしかったがこれは明らかに変だった。もうアイジーの知るような少年ではない。どこの誰かもわからない、野獣的な人間がそこにはいた。
 黄金の瞳は濃く血走って標的を見据えている。その佇まいと言ったら豹さながらだ。全身の筋肉が隆起したように腱が走り、握り締める拳は強く、指で手の平を突き刺してしまわないか心配になるくらいだった。
 異様な空気にアイジーは呑まれる。果てしない恐怖を抱えながら、ただ動けずに立ち尽くしていた。
 途端、鉈を持った少年が素早い動きでアイジーに切り掛かってきた。そしてそれとほぼ同時に叩きつけるような咆哮がシオンの喉から放たれた。人類がどう足掻いても作り出せないような声をあげて、シオンは立ち向かおうと地を踏み締める。
 冷たい血がアイジーの中を駆け巡った、咄嗟に、振りかぶるように高く叫ぶ。


「やめて!」


 ぶわり――――と、背中に違和感が華開いた。それは果てしない闇色をしていて、なにもかもを埋め尽くす。
 風圧で二人が地面に倒れる。アイジーはそれを強張った目で見ていた。

 翼だ。

 天を突き刺すように鋭く高いそれは厭に黒く、嗜虐的に曲がってたおやかに羽ばたく。とてつもなく大きいその翼は不気味なくらいに軽くて視界の両端に映るそれを《本物》だとは思えなかった。
 翼だ。
 翼が生えている。
 それも、アイジーの背中から。
「…………な、なに……」
 自分自身に起きた異変にアイジーは歯をカチカチと鳴らすほど震えた。血の気がないほど冷たくなる指先に心許ない足元。
 逃げそこなった人間すらもその足を止めて異様な光景に見入っている。何人かは甲高い叫び声も上げていた。けれどそれも酷く遠い。視界の端に目を見開くユルヒェヨンカとペレトワレが見えた。その更に奥にはゼノンズが呆然と突っ立っている。
「アイジー…………?」
 背後で翼に庇われるようになっていたシオンが声を出す。もう燻るような声ではなかったが、明らかに驚愕していた。
 アイジーは目尻に涙を浮かべる。もうわけがわからなくて。自分の背中に生える化け物みたいな翼が気持ち悪くて。けれどそれは見覚えのある――ジャバウォックの翼に他ならなくて。
 一体、この体は、私の体はどうなっちゃったんだろう。
 アイジーの背を突き破るように生えた漆黒は、父親に見繕ってもらうはずだった純白とは程遠い。





黒い翼の悪夢



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