ブリキの心臓 | ナノ

1


 目の前にいるネズミは食えるのだろうか、ただそんなことを呆然と考えていた。冷たくひもじい、厳しい真冬のことだった。

 ブランチェスタ=マッカイアに部屋はない。大体が廊下や屋根裏部屋で寝る毎日で、けれども今日はあまりにも不幸なことに、家から締め出されてしまったために身の置き場がなかった。とりあえず馬小屋で寝ようと思っていたのだが、思った以上の臭さに諦めざるを得なくなった。小屋自体は風を凌ぐには丁度よかったので、ありったけの干し草を敷き詰めて、カーディガンと麻のブランケットを羽織って寝ることにした。
 しかしそんなもので暖を取れるわけがなかった。
 丁度昼に雨が降ったため地面は驚くほどに冷えていたし、風が吹くたびに底冷えした寒さに冷気が加算されて大変肌寒い。麻のブランケットは風を容易く通してしまうし、カーディガン一枚では緩和することすら困難だ。せめてもの救いは雪が降っていないことに尽きるだろう。この寒さで雪まで降られたら間違いなく凍死する。体の末端にじくじくとした痛みを覚えながら、ブランチェスタは赤くなった手を摩った。吐く息は生温く且つ白く、けれどそれは彼女唯一の、自家製暖房器具に等しい温度だった。
「あ……皹……」
 手の甲を見ると擦り切れたような赤みが血と一緒に広がっていた。ぴりぴりとした感覚が支配するのを、カーディガンの中に手を引っ込めることで無理矢理我慢させた。
「……マッチ売りとか……来てくれないかな……」
 今なら絶対買うのにな。
 お金ないけど。
 力ない呟きが空気を霞める。空を見上げると真っ暗なベールに小さな穴を開けたような星々がちかちかと輝いていた。生憎今のかじかんだ気持ちでは素直に綺麗とは言えなかった。
 ブランチェスタは頭を垂れる。
 ああ、寒い。寒すぎて死にそうだ。お腹も空いたし……この目の前で鳴いてるネズミ、食べれないのかな、今ならなんでも食べれる気がする…………あっ、逃げた。
 視界から去った小さな影にブランチェスタはまた一つ真っ白い溜息をついた。だんだん耳と指先の感覚がなくなっていく。こんな凍るような寒さの中で一体どうやって寝ろというのだろうか。
「…………さむい」
 ミスタ・フレッチの家に行くのはどうだろう、もしかしたら玄関でくらいなら寝かせてくれるかもしれない――駄目だ。シオノエルの家に行くのはどうだろう、温かいスープをもらえるかもしれない――駄目だ。ではミスタ・クライトの家はどうだろう、あそこは大家族なんだからもしかしたら――駄目だ。ならミセス・キャンブリーの家は――駄目だ。駄目だ駄目だ、どこだって駄目だ。迷惑になることに、変わりはない。それにどうせ今頃寝静まってるころだろう。今この世界でこんなに死にそうになって眠れずにいるのは自分だけのように感じられた。ブランチェスタは目を閉じる。瞼の裏も冷たくなっていたのか、じんとした痛みが拡がった。惨めで惨めでしょうがなかった。

 あまりにも、理不尽だ。

 凍えて震える体を抱きしめ、ブランチェスタは冷たくなった唇を噛み締める。体はとてつもなく冷たいのに、芯は業火で炙られているように熱く、激しかった。
 こんな屈辱ったらない。
 あまりにも理不尽だ。
 悔しくて憎らしくてたまらない。
 いっそどうにかなってしまいたい。
 思わず泣き出しそうになるのを必死に堪えて、ブランチェスタは小さく歯噛みした。
 自分をこんな目に合わせたあの憎らしい三人は、今頃部屋の中の温かい布団に身を挟み込んで眠っていることだろう。それを思うと悔しさに身が悶えた。願わくば三人が悪夢を観ていることを。自分の家――ただしくは自分の家のはずだった――を鋭く見つめて、それからまた低い体勢を取った。彼女の中の炎は身を暖めはしなかった。
 彼女が三歳のころ、母親であるフランチェスカ=マッカイアが他界した。そしてその一年後、新しく妻として迎えられたのが、ベアトリーチェ=マッカイアだった。ベアトリーチェ=マッカイアにはデルゾラとアニシナという二人の娘がいて、つまり実質彼女の義姉にあたることになる。彼女の新たな家族となった三人は、彼女と折り合いが悪く、いつも父のバルテロが仲介役だった。窮屈な生活に不満を抱く彼女の頭を撫でてはバルテロは彼女に“すまない”と言っていた。寂しくても、不満でも、この繊細な父親がいてくれたから彼女はけして辛くはなかった。この父親が自分の頭を撫でてくれるなら、なんだって耐えれた。なにをされても。なにがあっても。けれど彼女が五歳のころに、父親は死んだ。マッカイア家には、血の繋がらない家族だけが残った。
 父は、もういない。
 母だって、とっくの昔にいなくなってしまっていた。
 家族が自分一人だけになってから、どれくらいの月日が流れたことだろうか。日々募っていく、もう一度両親に会いたいという思い。
「……父様……母様」
 ブランチェスタは静かにゆっくりと顔を上げた。寒空に紛れた星屑が涙を落とすように、じんわりと雪を降らせていく。それはぽとりと彼女の頬で溶けて滴となって滑り落ちた。
 ふと、二人の姿が見えた気がした。なによりも幸せだった、まさに完璧だった、愛おしい日々のままの二人が、雪と共に舞い降りる。寒さでぼうっとなる意識の中、ブランチェスタははっきりと、二人の姿を見た。
 思わず泣きたくなるくらい懐かしくて、自分はこんな無様な格好をして大きくなってしまったというのに二人は切なくなるくらい変わらなくて、なんとか二人に触れたくて、ブランチェスタは手をゆっくりと伸ばしていく。
 冷たい空気をやんわりと掻いていくその手は細長く、力無かった。けれどとても盲目的で、それでもやっぱりなにかに縋るように華奢だ。
 
 ブランチェスタは空に手を伸べた。





勿論誰もいないのに



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