ブリキの心臓 | ナノ

1


 海のような胎内で、《彼女》は自分が目醒めるのを感じた。ゆらゆらと揺れて、硫黄の火のように青く光る世界は酷く懐かしい。なにもかも不思議な碧い光に包まれていて、お日様のような真ん丸な胎児は紫の花のようで、纏い流れる水の煌めきは底一面に拡がっていた。
――ああ、私は産まれたのだ。
 《彼女》はそのときそう理解した。その下半身には淡い色の鱗に尾が優雅に揺れている。自分の取り憑いた赤ん坊を見て、《彼女》は憐れむように目を細めた。
 《彼女》はどうしようもなく、《呪い》だった。
 万代不易森羅万象にも属さない、リアルからもイデアからも脱却したと言える、人の精神や身体及びエートスに先天的な害悪を齎す、神話と言っても過言でない、未だ解明不可能な概念の通称――それがまさしく《彼女》だ。麗しい目をひっそりと細めて胎児を撫でる。《彼女》の得られなかった永遠の生命を、その中に感じることが出来た気がした。やがてその胎児は流れるような海を抜けて、蒼のない世界へと行き着く。

 胎児だった生命は《ジャレッド=シベラフカ》と名付けられた。

 ジャレッドはすくすくと成長し、気の許しあえる友を見つけ、幸せに暮らしているようだった。まだ呪いのことなど知らずに健やかな毎日を送っている。その温かい時間に《彼女》はなにかを思い出すように胸を押さえる。けどそれは未完成な言葉にしかならなかった。
 《彼女》は色んなものを見た。それは彼女が十五年待たないと味わうことの出来なかった鮮やかな世界に等しかった。ここには光る鱗を持つ親しげな魚や過保護な仲間もいない。そしてジャレッドには《彼女》の姿など見えてはいない。ただ《彼女》はいつかの憧憬に身を挟み込んで愛にも似た感情を彼に抱くようになった。
 海の底では見られない色とりどりお花も、水もない緑色の梢の中にいた高い声で歌えるお魚も、最早当たり前になってしまったある日のことだ。
 それは唐突に訪れた。ジャレッドが自分の呪いについても不服ながら理解し、《彼女》と自分を分かつ方法を粗探ししていたまさにそのとき。

 一人の少女が彼の前に現れた。

 少女の名はブランチェスタ=マッカイアという。いつも灰をかぶっている哀れな少女だった。《彼女》は強く目を見開く。この少女はジャレッドが、絵本を開くように思い耽ったお伽話の主人公だったのだ。
 お伽話から抜け出した彼女はすらりとした勇ましい少女になっていた。凛とした表情やきらきらと輝く緑の目がとても綺麗だと思った。《彼女》は少女とジャレッドを交互に見つめて、その淡い泡沫のような会話に耳を澄ませる。まるで運命のように漕いでいく――それは希望の波だった。
 それはいつか《彼女》が望んだ音のある会話だった。ジャレッドの深い響きを持つテノールと、少女の乱暴だけど爽やかな笑い声が、なによりも豊かに響いていく。少女の脚は踊るように軽やかで、まさしく《彼女》が憧れた二本の真っ白い棒だった。身を刻むような痛みが蘇る。《彼女》は少女を羨ましいと感じた。

 少女は良い意味でも悪い意味でも目を引くような少女だった。

 あの日からジャレッドは、少女を見かけては彼女のことを考えることが多くなった。それはとても他愛もない、色気のない感想だ。ああ、今日は箒を持ってないのか。あの三つ編みは解けばどのあたりまでの長さになるんだろう。またあの二人と舌戦をしている。肩に毛虫がついているのを教えたほうがいいんだろうか。また軽業師のようなことをしている。髪に黄色い葉っぱがついていた。木の尾根に腰掛けて寝ている。灰の匂いに紛れてレモンパイの匂いがした。不思議な目で誰かのことをなにか言いたげに見つめている。今日も快活に笑ってた。ジャレッドは少女を視界ぎりぎりに留めては、まるで懐かしい物語を愛でるようにそう心中でこぼしていた。それを《彼女》は知っていたし、ずっと彼の傍にいたのだからわかる。

 この少女を好きになればいいのにと思った。

 今は恋でも愛でもないこの感情がどうにかなってしまえばいいのにと思った。好きな人の傍にいられない切なさも、声を出せない悔しさも、歩いていくことの痛みも、かなわないことの哀しみも、《彼女》は全て知っていてジャレッドは一つも知らない。彼を阻むものなどきっと、彼が望めばなに一つなくなるだろう。自分の存在を呪いながら、《彼女》は彼の肩を撫でる。勿論そんなことも彼は知らない。知っていても気づかないふりをしているのかは《彼女》にはわかりかねる。それでいいと思った。

 彼には話しかける声も、躊躇うことのない脚も持っている。
 こんなに素晴らしいことはない。





《人魚姫》の話



× | ×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -