ブリキの心臓 | ナノ

4


「…………いた」
 それは、ブランチェスタ=マッカイアだった。
 コルクブラウンの長い三つ編み、意志の強そうな目、煤で黒ずんだ服や素肌。なにを取ってもブランチェスタその人だった。
 しかし、様子がおかしい。
 彼女はじっと蹲るように馬小屋の近くで座り込んでいる。長い足をだらんとさせていて、とてもじゃないが生気を感じられそうにない。唇はぎゅっとしばって、虚空を見つめていた。いつもの彼女らしからぬ姿に、アイジーは不安を覚える。
 やっぱり、おかしい。
 どうしてブランチェスタはこんなところにいるのだろう。マッカイアの人間なのに、デルゾラやアニシナが着るようなドレスを着ていないのだろう。宝石商の娘が煙突掃除やなんてことをしているのだろう。
 どうして、どうして、どうして。
 そう胸騒いでいるうちに、家の裏口扉が開くのが見えた。中からはぞろぞろと、デルゾラ、アニシナ――そしてブランチェスタの箒を持ったベアトリーチェ=マッカイアが出てくる。それを見た途端、ブランチェスタは重そうに顔を上げる。形のいい眉を嫌悪で歪ませて、吐き捨てるように三人に言った。
「もう、いいだろ」
 どこか力ないのに、それでもはっきりとした声。そのあからさまな憎悪を含んだ声にアイジーはぞっとした。
「昨日からだ……昨日の夜から、ずっと、あんたの言いつけを守ってここにいた。一歩も出てない。なにもしてない。だからもういいだろ。もう、十分だろ。さっさとその箒を返せ」
 そのブランチェスタの言葉を聞くなり、デルゾラは顔を歪ませ蔑むように嗤った。足元に落ちていた石をブランチェスタに投げつける。それはブランチェスタの太腿に見事命中してころころと転がっていった。アイジーは思わず息を呑む。
「お母様、この子やっぱり懲りてないみたいよ。もういっそ外に出しちゃいましょ」
「そんなの生温いわ! いっそ服もぜーんぶ剥ぎ取るのよ。今は夏なんだもの、素っ裸で夜を過ごそうと死にゃしないわ」
 その惨い言葉にアイジーは思わず叫びそうになる。それを制するようにジャバウォックがアイジーの口を背後から押さえた。真っ黒な影がスンと現れるのがわかる。
(静かに)
 アイジーの身体は凍っているみたいに動かなかった。そのまま、なにもできないまま、会話は進んでいく。
「そんな下品なことはおよし、二人とも。……こんな汚らしい娘の裸を見ることになる、哀れな人たちのことも考えてみなさい」
 その一言に二人はいっそうクスクスと嗤った。ただそれを、ブランチェスタは黙って聞いたままだった。
「ついさっき、お前には目で触れることすら許されないような高貴なお方がいらしていたのよ。やっぱりお前をここから出さなくて正解だったわ……マッカイアにお前のような醜い娘がいると知れたら赤っ恥をかくに違いないのだから」
 ――へぇ、残念、あんたがへこへこしてる姿が見たかったのにな――あんたの後ろにいる豚二匹を許せるくらいの寛大なお方なら大丈夫だろ――思いつく限りの彼女の言い返しそうな言葉がアイジーの脳を過ぎる。しかし彼女は一言も発しなかった。一言も発さないまま、ただ、ボロ雑巾のように、座っている。
「そんな娘が……まさかシベラフカ家の開く舞踏会に行きたいだなんて……本当に身の程知らず」
 三人が――この三人がなにを言っているのか、アイジーにはわからなかった。けれど、この状況は、痛いほど感じられる。なんとなく、気付いてはいた。薄々、感づいてはいた。感づいていたのに、悟っていないふりをしていた。けれどこの光景がそれを無慈悲にも決定付ける。アイジーはワンピースの裾をぎゅっと掴んだ。

「まだここに置いてやってるだけでも感謝しなさい、前妻の娘が」
「マッカイアの名で成り上がる奴が偉そうに、この後妻ごときが」

 ――ああ、やっぱりだ。
 アイジーは痛感する。
 おかしいと思ったのだ。ブランチェスタが三人に似ていないのも。三人がブランチェスタを冷たくするのも。おかしいと思った。思ったのに、早く気付けることだっただろうに。
 ブランチェスタと三人は血が繋がってない。
 そして三人は――ブランチェスタを冷遇している。
「お前は、本当に……、せめてバルテロに似ていたのならよかったのに。どこの馬の骨とも知れない……病で死んだ前妻の、フランチェスカだとかいう女の生き写しなんて」
「母様の悪口を言うな。傲慢な後妻ごときが。あんたみたいな劣悪な女と再婚したなんて、きっと父様の一生の不覚だろうよ」
「天に召された人間のことをとやかく言っても仕方がないわ。もうここにはアンタを可愛がってくれる母様も父様もいないのよ!」
「ブランチェスタお嬢様なんてものもよ、この灰かぶり女。あんたには灰溜まりのベッドやくたびれた服がお似合いだわ」
 意地悪いデルゾラとアニシナの声が空を突き抜ける。ベアトリーチェ=マッカイアは乱暴に、持っていたブランチェスタの箒を足元に叩きつけた。
「お望み通り、箒は返してやるわ。こんな汚いもの、触っていたくはないもの」
 ブランチェスタは見上げるように睥睨し、捨て置かれた箒に手を伸ばす。しかし、その手をアニシナが勢いよく踏み付けた。ブランチェスタの唇から呻き声がこぼれる。
「そういえば……今月の家賃はまだだったわね、ブランチェスタ」
「…………っ」
「そうよそうよ、早く払ってちょうだいよ。アンタのその箒みたいな長い髪を切って売っ払えば一ポンドルくらいにはなるんじゃないの?」
「まだ稼げてないなら仕方ないわよねえ。その陳腐な身体を悪趣味な親父にでも鬻げばいいんだわ!」
「もう売れるような服なんて、なあんにもないんだしね!」
 ギリリと、歯を食いしばるような音が聞こえた。
「汚い灰かぶり娘の、ブランチェスタには!」


「お前らのせいだろうが!」


 ブランチェスタが――噛み付くように言い放った。まるで厚い硝子が割れたかのような声だった。今まで生色のなかったブランチェスタの顔に、憎しみと怒りの色が注す。
「お前らがあたしからなにもかもを奪ったんだ! 服も下着も靴も髪飾りも部屋も布団も食べ物も! お前らが持ってるものは何から何まで全部あたしのものだった! それを後から来たお前ら他所者が掻っ攫いやがった! ふざけんなよ!? お前らが家賃を払えだのそんな卑劣なことを言いやがるからあたしは煙突掃除なんて汚らしい仕事をしなきゃいけなくなったんだ! 父様がいなくなった途端手の平返しやがって! お前らがあたしと同じ姓を名乗ってるなんて、それだけで腸が煮え繰り返るよ!」
 乱暴に怒鳴り散らすブランチェスタに、アイジーは目を見開く。その烈しい憎悪と哀惜に眩暈がする。
 まるで心臓をぼとりと落としてしまったような気分になった。
 “あたしの人生の唯一の誇りだ”、そうブランチェスタはシェルハイマーとハルカッタに言っていた。その言葉に、アイジーはまるで子供のように打ち震えたものだ。
 自分のコンプレックスも、他人とは違うところも、馬鹿にされることも、侮辱されることも、全てを全て飲み込んで、一人で強く胸を張って、気高い声で、自分の誇りなんだと、そう言いきることが出来るだろうか。こんなに勇ましい少女のように、自分もなれるだろうか。下を見ようともしない彼女のように、いつか自分も胸を張れるだろうか。アイジーは嫉妬にも似た羨望をブランチェスタに抱いた。彼女のようになりたいと思った。
 嘘である。
 当然のことながら、嘘である。
 あのとき、言い返したとき、アイジーはブランチェスタの顔を見ていなかった。見ていたら、何か変わっていただろうか。見ていたら、何かわかっていただろうか。
 あれはブランチェスタの強がりだ。
 本当はブランチェスタだって煙突掃除屋なんてしたくなかった。そんな汚れるばかりの仕事、したくなかった。けれど全てを搾取された彼女が生きていける方法なんてそれしかない。奪われて奪われて、なんにも持たないブランチェスタが唯一自分のものだと胸を張れるのは――それだけしかなかったのだ。
 アイジーは、なにも知らなかった自分が酷く滑稽なものに思えた。あんなに輝いていると信じていたブランチェスタが、遠くなっていく。
「――次から、家賃は二倍にしようかしらね」
 ベアトリーチェ=マッカイアの声が意地悪く響いた。
「はあ!? ふざけんな! それになんであたしが自分の家に」「ここはもうお前の家ではないのよ」
 酷く凄惨な声で、ブランチェスタに告げる。
「嫌なら出ていけばいいわ」
 それが一体どんなに冷たく、重く、鋭く、ブランチェスタの胸に響いたのか――アイジーにはわからなかった。
 けれど。
 母親を亡くし。
 父親を亡くし。
 部屋も、服も、靴も、ベッドも、ありとあらゆる物という物、そして権利という権利や優しさという優しさ、その全てを失くしたブランチェスタにとって、それが――両親の最後の形見であろう馴染み深い家を無くすことが――どういうことを表すのかは、火を見るよりも明らかだった。

「――――ごめんなさい」

 ブランチェスタは、自分を虐げた人間に、赦しを乞うた。
「それだけは、どうか、やめてください。お願いします……。ちゃんと……ちゃんとしますから、言われた通り……全部、やりますから……」
 震える声だった。屈辱に満ちた目を伏せて、弱々しくそう告げる。
 ベアトリーチェ=マッカイアが嘲るように鼻で笑った。アニシナは下品な声で高笑いをして、傍にあった鉄の灰取りスコップをごそりと掴んで大量の灰のブランチェスタの頭にかぶせた。もくもくとグレーの煙が上がって咳込むように身体を丸める。デルゾラは声がしゃがれるほど笑った。その全てにアイジーはまたとない憎しみを抱く。
「じゃあ、その灰の掃除はお願いね、ブランチェスタ」
 ベアトリーチェ=マッカイアが高慢な声で言い放った。
「家賃も早く払うように。払うまでは屋敷に入るのを許しません」
 灰かぶったブランチェスタを捨て置くように、三人は邸の中へと戻っていく。ブランチェスタは顔を上げなかった。上げないまま、ぎゅっと拳を握り締めている。
「……………」
 アイジーはその姿をただ呆然と見つめていた。
 自分の幻想が打ち砕かれたのを思い知る。ブランチェスタが悪いわけではないのに、何故か裏切られたようなそんな気がした。それでも気高かった彼女に魅入られるように、目を離すことが出来なくて――他愛もない彼女の惨めな姿を見つめていた。
 ふと、彼女の肩が震えた。
 泣いている――――いや、泣くのを必死に堪えている。胸が潰されたかのように呼吸を荒げて、奥歯を噛み締めて忍んでいる。
 その様子にアイジーは小さく声をあげてしまう。
 それはブランチェスタが気づくには十分な大きさだった。
「……ぁ……っ!」
 目が、合った。
 アイジーは唇を噛み締める。
 ブランチェスタの顔は、悲壮に歪んで――とつも傷ついたような、そんな可哀相な顔をしていた。
 彼女はアイジーを見るなりすぐさま箒を掴んで飛び乗った。軽やかな身のこなしで浮遊して、東の空へと飛んでいく。
「待って!」
 咄嗟に叫んではみたものの、アイジーの足は張り付いたように動かなかった。ただ鉛のように体が重くて、アイジーは俯く。
 アイジーはブランチェスタのことをなんにも知らなかった。なんにも知らずに、ただ彼女を称賛していただけだった。裏側で彼女がどれだけ強くあろうとしているかなんて、そんなこと、考えたこともなかった。
 アイジーの中で、同情よりも、悲壮よりも、哀愁よりも、憤慨よりも、よっぽど重くて濃度の高い感情の群れが犇めき合っていた。
 胸が張り裂けそうに痛くて、その場にしゃがみ込む。

 ブランチェスタが、可哀相だ。





灰かぶりの呪い



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