ブリキの心臓 | ナノ

1


 その日の空は病的なまでの青色だった。雲なんてものは殆どなくて、気持ちの良い太陽だけが空に存在するのを許されていた。
 シフォンドハーゲン家の庭には大きな木が植えられている。一年中葉をつけている珍しい樹木で、その木には小鳥の巣なんかがあったりもして、庭にあるものの中ではアイジーの一番のお気に入りだった。白木で出来た二人用のぶらんこや、ピンクと水色で塗装された木馬、綺麗に均された萌黄色の芝生、光を浴びて眩しく光る白いパラソルに、自分たちのためだけに植えられたスミレの香り。暖かくなってきた初春のころで。小鳥が健気に愛らしく囀り。アネモネやチューリップ、ゴールドコインにパンジー、ビオラ、マリーゴールドの花盛り。色彩の波は風に揺れ、すうっと霞の帯を引いたよう。こんな素晴らしい庭で遊ぶのは王子様や王女様に違いない――そしてシフォンドハーゲンではエイーゼもアイジーも、間違いなく王子で王女だった。
「ほら、こっちよエイーゼ! 早くいらっしゃいよ。でないと私、どんどん先に行ってしまうわよ?」
 月光のように美しい肩までの髪を揺らしながら、アイジーはエイーゼに手を振った。バイオレットグレーの瞳は楽しそうに細められ、半身である双子の兄を待っている。アイジーは大きな木の上にいた。女の子らしからぬお転婆で木に登りつめ、いっとう高いところに腰掛けて風を満喫していた。
 一方、兄のエイーゼはまだ地上にいる。木の根元で呆れたように、半身の妹を見上げていた。アイジーと同じ月光色の髪とバイオレットグレーの瞳。顔は似ているが表情の出し方はまるで違う。エイーゼの方からは老成した気苦労が感じられた。
「僕はお前みたいに猿じゃないんだ、そんな高いところにまでは登れない」
「それはどうかしら。きっと私の素敵なお兄様なら見事な木登りをしてくれるでしょうよ。だって猿じゃないんだもの!」
 拗ねたように頬を膨らませる双子の妹に、エイーゼは人生で何万回目になるであろう溜息をついた。
 アイジーはエイーゼよりも運動が出来た。いつだって彼よりも速く駆けてみせたしダンスだって何時間も踊っていられる。ボール遊びだって少年のように上手で、よくエイーゼを困らせもした。
 エイーゼは生まれつきそんなに身体が丈夫ではない。アイジーのように速く駆けることも何時間のダンスも出来ない。オーザが“アイジーが男だったなら”という言葉を聞いたときにはショックを受けたものだし、自分が蹴ったボールはアイジーの半分の距離にしか及ばない。パーティーに行っても、大抵は、翌日熱を出して寝こんでしまう。そのたびに傍に寄り添ってくれるアイジーは“貴方がパーティーに行くのは風邪を引くためかしら?”とからかうのだ。自分のこの貧弱な身体が恨めしい。それは何度も思っていた。何故自分はこんなに弱いのだろうか。何か呪いでも受けているみたいだ。そして、その呪いは今この瞬間にも如実に現れていると、エイーゼは眉を曇らせた。
 エイーゼはアイジーの元へ行こうと木に足をかける。上手く登れない。
 本当にアイジーはどうやってあんな高いところまで行けたのだろうか、皆目見当もつかない。ただにっこりと笑って「ほら頑張って!」と脚をぷらぷら振る妹を眺めながら、彼はまた登り始めた。さっきよりも上手くはなったが、それもやはりアイジーほどではない。彼女は、まるで踊るかのような身軽さで、ひょいひょいひょいと登ってみせる。醜くしがみつくのではなく、するりと滑るような早さなのだ。
 エイーゼは芝生を見下ろす。そこそこの距離だった。
 この高さは怖いが上を見れば妹がいる。その距離の方がまだ遠く、自分と地面との距離の方がまだ短い。
 悔しくて更に手を伸ばす。ぐいっと身体を引き寄せて太い枝に登った。風がふわりと髪を浚っていく。うなじのあたりが涼しい。エイーゼはそこで初めて登ってよかったという気になった。少し休憩した後更なる上を目指した。アイジーは手を貸そうとしない。それでいいと思った。妹は自分を急かしてぐいぐいと先に連れて行くが手伝うようなことはしない。アイジーにとってエイーゼはあくまで兄であり、そして自分と“同じ”だった――自分が出来ることを、エイーゼが出来ないわけがない。
「エイーゼ、早く来て。貴方がいないと木登りをしても退屈だわ」
「だったら僕に合わせてみたらどうなんだ」
「なにを言っているの。貴方にこの美しい景色を見せたいのよ。貴方の妹のいじらしい愛情だとでも思ってちょうだいな」
「我が儘なことだ」
 真っ白い肌を紅潮させて微笑むアイジーにエイーゼが肩を竦める。我が儘な妹と、それに付き合う兄。オーザからもイズからも“もう少し威厳を持ってみてはどうだ”と言われていたが、エイーゼは威厳というものが全くわからなかった。威厳とはなんだろうか。自分の半身の我が儘を聞かないことだろうか。エイーゼは自問自答する。確かに妹は我が儘で傲慢なところがあるけれど、自分を一番愛してくれていることを、エイーゼは知っている。だからこそ、こんな風に甘えて、我が儘を言う。面倒だと感じることなら多々あった。煩わしいとも鬱陶しいとも思った。けれど、アイジーはあくまでエイーゼの半身だ。エイーゼがアイジーにおねだりをしても、アイジーは喜んでそれを叶えてみせただろう。本気でエイーゼが自分の木登りを手伝って欲しいのなら、アイジーだってそれに付き合うだろう。しかし、エイーゼは自分のためにアイジーを木から引き戻そうなどとは、一度だって考えたことがなかった。
 生まれつき身体が弱くて目一杯遊ぶことの出来ない自分。
 その殻を突き破って手を差し伸べてくれるのは、他の誰でもない、アイジーなのだ。
「ほらエイーゼ! 空で風船が流れているわ! 誰かが手放してしまったのかしら?」
「今行く、騒ぐな、僕もみ」るから――?
 突然、ガクッと身体が崩れた。
 エイーゼにはなにが起きたかわからなかった。
 ただ背中を風が激しく撫でるだけの感触、そして上からは、アイジーの悲鳴が降り注いでいた。

「エイーゼ!」

 アイジーが急いで木から下りる。しかし、勿論、間に合うはずもない。
 ずるりと木から剥がれたエイーゼは、そのまま地上に落下した。
 重い音が耳に響く。
「エイーゼ!!」
 アイジーも数十秒後に地上に降りてくる。エイーゼは気を失っていた。エイーゼの後頭部からは赤い血が流れて芝生を塗らしている。岩にでも当たったのだろうか。
 アイジーの顔は蒼白になった。
「誰か! 誰か来てちょうだい!」
 エイーゼを抱き起こして人を呼ぶ。泣きじゃくりながらで上手く声が出せなかった。手先は凍えるように冷たくて、胸はまるで張り裂けるかのようだった。エイーゼは一言も喋らないまま会のようにじっとしている。もしかして死んじゃったのかもしれない。そう思うと更に涙が溢れてくる。惨めなくらい潤んだ声で何度も何度も叫び続けて、数分後、騒ぎを聞きつけたイズと数人の召使いが、アイジーの元へ駆け寄ってくる。
「アイジー、一体なんの……エイーゼ?」
 ただごとではないその赤に、イズは口元を手で押さえる。
「え、エイーゼが、き、木から、木から落ちて……っ、わた、私、でも血が……!」
「落ち着きなさいアイジー……とにかくまずはエイーゼを。お医者様に連絡して。貴方は布でエイーゼの頭を押さえて!」
 召使いにテキパキと仕事を任せてイズはアイジーに向き直る。黒いドレスを着るイズは眉に皺を寄せていて、じっと鋭利な瞳でアイジーを見つめていた。
「アイジー、どうしてエイーゼは木に登っていたのですか? 身体が弱いのだから無理をしてはいけないと、あれほど口を酸っぱくして言っていたでしょう……!」
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、わっ、私が、誘って……!」
「謝って済む問題じゃないでしょう! 貴方はシフォンドハーゲンの未来の当主を殺しかけたのですよ……!?」
「だって、わ、私、エイーゼと、あび、遊びたくて、ごめんなさい、ごめんなさい」
 泣きじゃくりながら謝る娘に、何故だかイズは苛立ちを感じていた。怒るのは当然だが、その熱とはどこかが違う。胸から喉へと込みあがってくる感情に、イズは吐き気がした。
 イズはアイジーを愛していた。
 息子のエイーゼと同じだけ、もしくはそれ以上の愛情を注ぎ、可愛がってきた。
 何故なら、アイジーは死ななければならない可哀想な子だったからだ。
 十五。十五になったら、アイジーは死ぬ。エイーゼが生きるために死ななければならない。それは生まれたときから決まっていて――万代不易に変わることなどない。一族の恥だと屋敷に拘束して、友人を作らせず、独りぼっちのまま育ててきた。可哀想なアイジー。独りぼっちのアイジー。だから、彼女の望むものはなんだって与えてきた。上等の服も、綺麗な髪飾りも、大きなドレッサーも、可愛い絵本も、なにからなにまで与えてきた。抜かりない愛情を注いで、哀れな運命の埋め合わせをしようと思った。
 けれど、その余りある愛の裏で、煮え繰り返るような憎しみが花を咲かせる。
 エイーゼが生まれつき丈夫でないのも、こうやって木から落ちて一人怪我をしてしまうのも、アイジーのせいだ。こうやって泣きじゃくる彼女が全ての元凶で、だからこそ、彼女には泣く資格すら本来はない。どちらかを殺さなければ――アイジーを殺さなければ、エイーゼは死ぬ。なんてわかりやすい残酷だろう。
 言い知れぬ感情を抱きながら、バイオレットグレーの瞳をぐしゃぐしゃにして泣く娘の顔を見た。ごしごしと目を擦って赤い腫れを作って。自分の半身のために、こんなにも泣いているのだろう。けれど、

「貴女は災厄の子なのよ」

 イズの冷えた唇は無意識のうちにそれを紡いだ。
 アイジーは涙を止めて、ただならぬ様子の己の母の顔を見る。
「災厄の子なの。アイジー」
 イズは怖いくらいの無表情だった。いつも厳しい顔をしているせいか、その無表情は普段よりも優しげに感じられる。ただ呆然と冷厳を吐き出す彼女の瞳は、どうしてか酷く濡れていた。
「生まれたときから決まっていて、死ぬときまで決まっている」アイジーの頬を撫で、涙を拭う。「貴女はエイーゼのために、死ななければならないのよ」
 イズの頬を撫でてくれる手は、どこにもいない。





絶対に言いたくない一つのこと



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