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ゆるやかに過ぎる時間の中で、雨音がひどく響いていた。昼食を終えてすぐの授業は科目に関わらず眠気を誘うもので、多くの生徒はうつらうつらと槽をこぎ、はては突っ伏している者もいる。それを気にするわけでもなく、先生は粛々と説明を続けチョークが黒板に触れる音だけが鳴る、静かな時間だった。
窓の外を見ると、二時限目が終了したあたりから降り始めた雨は勢力を増しているようだった。何の恨みもないのだろうが、風に煽られて透明のガラスにいたく当たっている。外はかなり寒いようだが、暖房設備の整った教室の中ではそれを感じることができなかった。爪先から頭のてっぺんまで熱風にさらされて思考回路は愚図になる一方だ。そりゃあついつい授業を放棄したくなるものである、と思わないわけでもないが、そんな私の脳は正常な活動を手放すだけで眠気と交代する素振りはいっこうにないらしかった。
退行していく頭が考えることは他愛のないことばかりだった。天気予報は晴れだったのにな、とか。傘を忘れたな、とか。今日は進路希望調査表の締め切りだな、とか。思い出してからすべてが面倒くさくなってため息を吐いた。寝息とチョークの音が混じる教室では目立つことなく生暖かい空気へ消える。あと二時間もこうして授業を受けなくてはならないことが、いつもと変わらないはずなのにとても気だるく感じられた。原因はわかっている。頬杖をついてから、視線を右隣の席へ移し、今度はため息を飲み込んだ。
「遠征行くことになった。」
昼休みのことだった。まだ今よりいくぶん弱い雨脚を眺めながら教室で食事をしていると、前に座っていた男は同じように視線を窓へやったままそう言った。
遠征。その四文字を口のなかで復唱してから咀嚼するのにいささか時間が必要だった。部活動のそれでないことは明白だった。時期が中途半端であるということを除いてもなによりまず、彼はどの部活にも所属していないのだ。ならば、なんの遠征だろうと考えて行き着く答えはひとつしかなかった。なかったけれど、その答えを手にしても釈然としなかったのは目的がまるで理解できなかったからである。
「どこに、とかは…、」絞り出した声はまだ震えていなかっただけましだろうと思った。ご飯をすくった箸を弁当箱へ戻して、ゆっくりと彼の方へ向く。何を考えているのか読めないその表情は窓の外を眺めたままエビフライを食べていた。毎日食べていて飽きないのだろうか、という質問はずいぶん前にしたように思う。返事は忘れた。
「言えない。けど、ずっと遠く。」
「怖いところ?」
「さあ、どうだろうな。」
明るくない答えにやはり納得はいかなかったが、私が心得ていなくとも彼が遠くへ行ってしまうことに変わりはなかった。遠征。遠くへ行くことはその言葉から予想ができた。距離はさして重要でない。そこで何をするのか、なにが目的なのか、それだけだった。
けれど彼はいつも多くを語ろうとはしなかった。企業が機密保持のために規制を掛けているのかもしれないと思うが、それだけではないはずだ。彼が戦いに身を置く人間であることは周知事項であるのだから、その遠征でも戦うのだろうということはわかっている。戦いに危険はつきものだ、というけれど普段の彼を見ているとそんなことは嘘なのではないかと思うほど飄々としている。それが、こうして読めない顔をしているというのだから、それなりの事情があることがわかった。
彼は少しだけ不器用だ。
止めていた箸を再始動させてから、視線は彼に止めていた。向こうは頑なにこっちを見ようとしない。後ろめたいことがあるときはいつもこうだった。目が合うと隠し事ができなくなるからだ、と本人は言っていた。それが私に限った話であるというのだから困ったものだった。隠し事をするなとは言わないが、もう少しだけ頼ってくれてもいいのではないかと思う。そう、彼の友人に相談したところ男は見栄を張りたい生き物だから、と言われた。女の私にはよくわからない。
わからないことをわかろうと努力するのは当然のことだった。私はたくさん努力をした。でも、やっぱりまだわからないことのほうが多い。生まれてからずっと一緒に生きてきても、全てをわかりあうことは生き続けることと同じくらい難しいのだ。難解だな、と思って唐揚げに箸を伸ばす。彼のそれはふたつめのエビフライを挟もうとしていた。「たっだいまー。」それを遮る声がひとつ。
目をそちらへやると、購買のパンをいくつかさげる米屋くんがいる。私と出水がふたりでご飯を食べているのを見て珍しいなとでも言いたげな顔をしていたが、実際に口にしたのは「なに、この通夜みたいな空気。」と場を和まそうとしたであろう発言だった。彼の思惑がどうであれ、それによって出水の思考は窓の外から彼へと向いた。いつものように軽口を叩きあっている。仲がいいな、と思いながら唐揚げを口に含んで、それから今度は私が外の景色へ視線を向けた。相変わらずの雨は少しだけ強くなっていた。
それ以降遠征について触れることはなく昼食は終わった。他愛ない会話をして残りの時間を過ごし、こうやっていつもと同じ眠くなる授業を受けている。隣の出水は初っぱなからうつ伏せて眠ってしまった。昨日も防衛任務だったと言っていた。朝から数えて寝ている時間のほうが多いだろう。素直じゃないよな、と思う。彼の意図を汲むことをできたのなら、それに従ってしまえばいいのに。本当に、素直じゃない。
間もなく授業は終わり、教室はゆっくりと喧騒を取り戻した。換気のためと委員長が扉を開けたままにすると、廊下で燻っていた冷気が一気に教室へ侵攻してきた。ぞわりと足元から這い上がってくる冷たさに、生足をさらす女の子たちはきゃあきゃあと高い声をあげて非難を口にする。その声と寒さから目を覚ます人間も少なくなかった。教室の中央で眠っていた米屋くんもそのひとりで、起き抜けの頭をかきながら欠伸をしているのが見える。けれど、隣の男はその体を揺らす素振りすら見せなかった。
そもそも本当に寝ているのかどうか定かでなかった。ただ視界を遮ってしまいたかっただけかもしれない。私にはわからなかった。わからないほうがいいこともあるが、たぶんこれはわかるために努力をすべきことであると昔から知っている。「出水、」いつの間にか慣れつつある呼び名を口にする。曇天は気分を憂鬱にさせるから好きでなかったが、冷たい空気は思考を冷静にさせるからよかった。返事はなかったが、代わりに肩がぴくりと揺れる。
「晴れるといいね。」
「…おう。」
「うん。」
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先日の豪雨が嘘のように最近は晴れが続いていた。しかし太陽が出ても冬は寒いものだ。木枯らしに吹かれながらの登校は好きでない。どれだけ厚着を重ねても体感だけは変えようないことだった。ぐるぐる巻いたマフラーに口許を埋めてから息を吐き出す。「おーい!」そこでふいに苗字を呼ばれて立ち止まった。振り返ると、米屋くんが手を振っている。最近姿を見ていなかったからその光景が少し懐かしかった。
最近の三門市は騒がしかった。報道を見る限りでは界境防衛機関が貢献して危険を脱した、ということらしいのだが、本当のところ何があったのかは詳しく知らない。おそらく自分たちが想像しているよりずっと大変なことが起きていたのだろうが、彼からはそんなことが少しも感じ取れなかった。知り合ってまだ日は浅いけれどいつも明るい印象を受ける。
忙しそうだったね、と労いの言葉をかけると深いため息とともに「ほんっと、色々あったわー。」としみじみとした答えが返ってきた。私に慮ることは叶わないので適当な相槌を返してから、例の騒動に纏わる話をしながら通学路を歩いた。ひとりより誰かと一緒のほうが物事の進みが早く感じることはよくあることだった。気づくと私たちは学校に到着していて、まばらなひとを迎えるエントランスへ入る。
「あ、そういえばさ、」
「ん?」
「遠征組、三日後くらいに帰ってくるらしいぜ。」
ローファーを靴箱にしまいながら、そちらを見る彼はやはり笑っている。どういう答えを期待していたのかはわからないがぶっきらぼうに「そっか。」と返すと、肩を軽く二回叩かれた。ここで頭を撫でたりしないあたりが、米屋くんらしいと思う。小さな声でお礼の言葉を述べてから、私たちは同じ足取りで教室へ向かった。
彼の言った日付が訪れるのは早かった。たかが数日だったが、帰ってくることを聞いてからは一日より短く感じたように思う。何をしていたのか自分でもよく覚えていなかった。けれど朝方、空が白ばみ始める時分に連絡が入った後はそんなことがどうでもよくなった。満足な睡眠を手に入れることができないまま過ごしていた日々だったので当然朝は辛かったけれど、体に鞭を打つまでもなく足は弾かれたように階段をかけおりた。マンションの入り口を出てから駐輪場を抜けると、大きな木の側に佇んでいる影を見つける。
「公平!」思わず、慣れ親しんだ呼び方が口をついて出た。喉の渇いた朝の声に、彼は眺めていた携帯端末から視線を上げる。そして勢いで出てきたので寝巻きのままだった姿に笑みを溢してから「風邪引くぞ。」自分のつけていたマフラーを私に巻いた。
「おかえり。」
「ただいま。」
「……うん。おかえり。」
本当によかった、と思った。自分ではとうてい想像のつかないようなところに行っていると考えていたのだ。彼が去ってから米屋くんに聞くと、その考えは間違っていないことを知った。死ぬことなんてブラウン管の向こうの話だと思っているわけではなかったが、少なくともそう身近な存在ではなかったのだ。急に水を打ち付けられたように思考が冴えたのを覚えている。いつも飄々としている出水のことだから大丈夫だろうと安易に言い切ることはできなかった。死ぬかもしれない。その言葉ばかりが脳のなかを回っていたのだ。
無事を見ると涙が出そうになった。きっと泣きたいのは向こうの方だ。そんな顔をしている。また、私には話せないようなことをたくさん経験してきたのだろう。抱えられなくなって、でも素直に吐き出すこともできない。前を歩く背中はいつだって大きく、そして弱いことを私は知っている。だから、決して泣くことはできなかった。溢れそうになる涙を拭って鼻をすする。
「不細工な顔だな。泣けばいいのに。」
それを見て、彼は笑いながら私の目を優しく撫でた。基地からすぐにこちらへ向かってきたのだろう、その手は冬の寒さで冷たくなっている。どこか遠くへ飛んでいきそうだった思考回路はそれによって冷まされた。「そっちこそ。素直じゃないね、相変わらず。」唇を尖らせて、彼の目を見る。視線は決してこちらを向いていなかった。私の首に巻き付けられた彼のマフラーをぼんやりと眺めている。――ああ、と思った。
朝の三門市はあの日と同じように厚い雲で覆われて今にも雨が降りそうな顔を見せていた。
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