いつの間にか始まっていた彼の話はもう一時間ほど続いていた。終わる気配はなく、私の曖昧な相槌に満足しているのかどうかもわからない。そもそもこちらをうかがっている様子もなかった。馬鹿なのかもしれない。ため息を飲み込んでから手のひらに握った缶の成分表示へ視線を落とした。およそ五度目になる行為の末、羅列を追うことすら面倒になってくる。糖分と着色料だけで形成された飲み物の内訳など、彼の話すことと同じく私にとっては無意味に等しかった。
無意義であるとわかっていて行動をとっている自分が嫌になった。それにしてもよく喋る彼の話の中心は、憧れであると言う迅さんについてである。名前くらいは知っていた。目の前の彼が最近所属したと言う界境防衛機関の上位にいる人間だ。とりわけ興味があるわけではないが、この町に住んでいる以上、それについてはいやでも知っている。私も彼も等しく当事者なのだ。そこに差異が生まれてしまったのは一重に才能によるものなので自分ではどうしようもなかった。どうしようもないことには慣れている。どうにかしようと躍起になるのはもうとうに諦めた。
夕暮れの教室はひどく冷えたが、話に夢中になっている彼にとっては関係のないことのようだった。はじめから冷たい飲み物を買ってきたあたり、そういう配慮が欠落していることは知っている。それでも身をまとう冷たい空気を払拭することは叶わない。ぶるりと身を震わせてブレザーのポケットに手を突っ込む。朝から擦り続けたカイロはすでにただのゴミと化して、役目を果たそうとはしていない。布切れの中は少しばかりの熱を帯びているだけで体全体に熱を取り戻すことはできなかった。寒い、と心の中で呟いてから目は缶の下まで到達する。
「あれ、もしかして寒い?」
と、突然彼が話をきってこちらへ会話を持ちかけてきたので驚いた。しかも心を読んだような言葉だ。どきりと胸が嫌な音をたてたが、無視をした。おおかた偶然であるし、状況を鑑みると寒くないと思う方がどうかしているのだ。暖房器具が一切稼働していない真冬の教室は風を凌げているだけで、外と大差のない気温を記録している。
「鼻もほっぺも真っ赤。」
ポケットに手をいれたまま肩を竦めて見せると、向かいに座っていた彼は腕を伸ばして私の頬に触れた。同じ空間で同じものを飲んで、ただ話をしていただけなのに自分のそれとは異なって彼の手のひらはとても暖かい。子供体温だな、と思ったけれど口にすると怒りそうなので言わないでおく。代わりに「それ、あんたも。」とぶっきらぼうに言葉を返すと彼は笑った。
「えー、うそ!オレ、全然寒くないけど。」
「働きすぎで感覚イカれたんじゃないの。」
「なにそれ、ひっど!」
ぐるぐると頬を撫で回す手を掴んで言うと、彼は唇を尖らせた。好きでやっていることを馬鹿にされたのだから当然の反応だが、私の言葉が本気でないことはわかったのか、さほど気にしていない様子である。私の手のひらから伝わる冷たさに「なんでこんな冷えてんの?」と心底不思議そうな顔はまだ手を引こうとしない。暖かいものに触れたすぐは気持ちいいが、時間がたてば同化していく。ぬるま湯につかるような温度では決して心地よいとは呼べないのだ。
離してよ、と言うことは簡単だった。おそらく口にすると彼は文句を垂れながらも従順に従っただろう。幼さを内に飼うこの少年はなかなか素直なところがある。それが長所でもあるのだが、裏を返せば単純の一言につきた。狡猾な一面があることはいなめないけれど、それが全てではなく、どちらかというと懐いている飼い犬のそれに似ている。ひとつ違いを挙げるとすれば彼が人間であることくらいだ。ひとは厄介な生き物である。心はいつも複雑怪奇だ。気持ち悪い温度を手放したいと思う反面で、けれどこのまま離れないでほしいと思ってしまう。
結局彼の気が済むまでこねくりまわされ、飽きると手は驚くほど簡単に遠退いた。動いた体はそのまま反転し、黒板の上に掛けられている時計を見やる。下校時間はまだ先だった。けれど教室の外はすでに橙色を手離して、夜へ突入しようとしている。冬の夜は一段と冷える。最近、任務で遅くなることが多いと言う彼もそれは知っているのだろう、「うっわ、もうこんな時間!」と大袈裟に驚いてから立ち上がった。今日の迅さん談義はお開きらしい。私も倣って鞄へと手を伸ばす。
どうしてだとか、いつからだとか、詳しいことは覚えていないしわからなかった。ただ、気づくとこうして放課後、防衛任務のない緑川と話すようになっていたのだ。内容はとりとめのないことばかりだし、多くが彼の敬愛する男についてのことなので有意義でないといえばそうだった。けれど心のどこかでこの時間を楽しみにしていて、文句をほとんど溢すことなく彼に付き合っているのだから私もほとほと阿呆である。そうする理由に気づいてからはなおのことそう思うようになった。
おそらく本人に打ち明ければ馬鹿だろうと笑われることはうけあいだ。彼にはその気がないのだ。無意識ほどひとを傷つけるものはなかった。昔から近くにあった背中に置いていかれる感覚が恐ろしかった。対等であると思っていた存在が遠くへ行ってしまう事実が怖かった。しかし、いつも泣きついていた彼にはもう同じことができない。ひとりで考え込むしか道はなく、思考は堂々巡りを繰り返している。
馬鹿なのは紛れもなく私の方だった。それを、彼は知らない。
教室を出て足早にエントランスへ向かった。まだ部活動をしている時間なので校内はどこか少し騒がしい。ひとはまばらだが、時おりすれ違う人間がこちらを見てひそひそと話していることに眉をひそめる。見られているのは私でなく隣に立つ男の方であることはわかっている。彼も憧れの迅さんと同じようについこの間とてもすごい位置までたどり着いたらしいのだ。界境防衛機関に属している隊員はある一定のライン以上はすべて情報が公開されている。この町に住む以上、決して他人事ではいられないそれについて噂がすぐに広まるのは仕方のないことだった。
A級といって、なんでもヒエラルキーの頂点に在るくくりの一員になったということは、その日の内に本人から聞いた。そのときに自分が界境防衛機関について明るくないことがばれて、すごく不思議がられたことを覚えている。興味のない人間は探せばいくらでもいるだろうが、私ほど情報を遮断している人間も珍しかったからだろう。理由は様々あったけれど、どれを話したとしても彼に納得してもらえるようなものではなかった。だから適当に誤魔化し続けて今に到達している。隣で誇らしそうな顔をしているのを見ると、少しだけ悔しくなるのはそのせいだ。
「わ、やっぱさすがに外は寒いなー。」
靴を履き替えてから外へ出ると、凍てつく風が体を打った。思わず大きく身震いをしてからマフラーへ口許を埋める。それを見ていた緑川はおもむろにこちらに手を伸ばしてから言う。
「ね、そのマフラーちょっと貸してよ。」
「やだよ。自分のはどうしたの。」
「なくしちゃった。」
あっけらかんという彼に、ため息を吐いた。ものは大事にしろと再三言い聞かせてきたが、いまだ更正の見込みはないらしい。おそらくそれは、「…もう、ちょっとだけだよ。」甘やかしてしまう自分が悪いのだろう。
雑に巻いていたそれを外してから彼の首へかける。自分とそう大差ない位置に在る頭は嬉しそうに揺れていた。相変わらず現金な男である。帰りに肉まんでもおごってもらおうかと考えていると、「じゃ、次はオレの番だ。」彼はそう言って鞄を漁る。自分の番とはどういうことか。何が出てくるのだろうとそれを見ながら、ポケットに手を突っ込んだ。ひらひらと揺れるスカートの先が寒そうであるが、文句は言えない。女に生まれた性である。
やがて顔をあげた彼に、どうしたのと問おうとしたところで目が止まった。その手に握られていたのはマフラーだ。去年の冬に、同じようにして寒いと言った彼へ貸したままなくされたものである。「なくしたんじゃなかったの?」ぽかんと開けた口からは精査の間もなく純粋な疑問が転げていた。
「あー、あれ嘘。」
しかも、悪びれる様子なくそう言ってのけるのだからこちらの立つ瀬がない。
「オレにマフラー編んでくれてたみたいだから、それくれるときと交換でいいかなーって思ってたら、そのまま自分用にしちゃったからさ。」
「え、な、なんであんたがそれ知ってるの…!?」
「オレ、なまえのことならなんでも知ってる。」
彼は笑う。シニカルに。
確かに彼の言うことは事実だ。去年の冬、クリスマスプレゼントにと暇潰しで編み始めたマフラーは先程まで自分で使っていた。本当はあげるつもりだったのだが、彼が私のものをなくしたというのに腹をたてたからである。今となってはそれでよかったのだろうと思っている。付き合いの長さだけが続く、一方的な思いは悲しいばかりだ。
まさか知られているとは思いもしなかったので焦りが顔に出た。上手くはぐらかす口に手をあげようとしたがそれはやんわりと遮られ、
「だから今度の休みも話付き合ってよね。」
彼はそう言い、ふわりと私の首にマフラーを巻く。
きっと彼には打算的なものは何もないのだ。わかってはいても心はどうして早鐘を打つ。隙間を縫うようにして吹いていく風はもう冷たくなくなっていた。
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