夕暮れが綺麗なある春の日のことだった。
キドに頼まれた買い物を終えた帰り、ふらふらと揺れる影を前方に見た。それが見知った少女であると認識したのは間もなくしてからのことで、思わず緩む頬に自制をかけながら僕は手にしていた袋を強く握る。この時点でわかっていたことと言えば、大きく分けてふたつしかなかった。一つは全ての始まりで、一つは変わらぬ日常だ。
大きな花束を抱えた彼女を見て久しぶりと手を振ると、たちまち眉尻を下げた申し訳ない顔をされる。それを見た瞬間に、またか、なんて性懲りもなく悟って、悲しくなった。分岐していた二つの可能性はもののみごとに最悪な方へと振りきってしまったのである。しかしそれも、おおよそ予想の範疇ではあったのだ。だからこそ僕は笑顔を絶やすことはできなかった。
きっとその真意なんてものは、ごめんなさいと頭を下げる彼女に少しでも笑顔を取り戻してほしいからなのだろう。けれど、欺くことが専売特許である僕がなにをしたところで結局は無意味なのだ。僕の笑顔なんて少しも映さない瞳は、はたしてどこを向いているのか。答えのないその問いかけを追いかけることはもうやめた。

墓参りに向かうという彼女に連れ添って僕はしばらく歩くことにした(少しくらい帰りが遅くなっても振りかかる災厄はキドの愛のない蹴りくらいだ)。そういえばもうそろそろ彼女の兄の命日だった。おそらく、正確な日時すら忘れてしまっている彼女は、ただ体が覚えてしまっているように義務主義的に霊園へ向かっているのだろう。あるいは、ここへ来る途中で忘れてしまったのか。どちらにせよ彼女の中に彼女自身を含めた人間が誰一人として存在しないということは確かだった。何度も経験してきたそれは、幾度突き付けられたとしてもやはり胸を抉るのである(笑顔が、歪むくらいに)。
目の前に映る風景だとか、過ぎていく人混みだとか、抱えている花束だとか、とりとめもなく、なおかつ時制が現在を行くものを話題として上げながら僕たちは歩いた。ぎこちないことは承知の上であったけれど、彼女からしてみるとそれは居心地が悪い以外のなにものでもないだろう。それでも、なにも文句を言ってこないのは彼女の気弱な性格のせいもあるだろうし、なによりそれに甘えている僕のせいでもある。
これはとんだエゴであって、本来ならば僕は彼女にとってどういう人物であるのか、どういう影響を及ぼした人間であるのか教えるべきなのだ。きっと教えたところで全てを正確に把握することなどもう叶わず、初めて出会った頃のようには決して戻れないとわかっているのだけれど。期待して彼女に全てを背負わせてしまうという失敗はもうずいぶん昔にやらかしている。同じ轍は踏まないと決めた。
何気なく会話にはなを咲かせていたつもりだったのだけれど、無意識のうちに手に力がこもっていたらしい。花束は気づくと萎れ始めていて、焦った僕が謝ろうとしたそのときになって、はじめて彼女は僕の目を見ていった。「気にしなくて大丈夫ですよ。」と。きっとそんなことは露ほども思っちゃいなくて、心の内ではこっそり文句なんか垂れているのだろう。けれど、誰に似たのか外面を穏やかに取り繕うことには長けていた。

気づいたときには彼の墓までたどり着いていて、少しだけ迷う彼女に場所を示してやると驚かれた。それもそうだ。今の僕は赤の他人に過ぎないのだから。そしてなにより、そんなことさえ他人に教えられなくては行動のひとつもまともにできないほど自分に欠損があると認識してしまったのだから。彼女としては二重の意味で驚きだったのかもしれない。狙ったと言えばそうかもしれないが、別に彼女をその後苦しめようだなんて考えちゃいなかった。
できることなら彼女には楽しい人生を送ってほしかった。僕なんかと違ってあの事件が起きるまでは普通の人間で、普通に生きて、普通に恋をして、普通のひとと結婚して、普通に子供を生んで、普通に年老いて、普通に死んでいくはずだったのだ。それが彼女の決められた運命であって、それは何ものにも変えられないはずだった。
ことさら自分が特別であるということは、他の仲間たちと同様によく理解していた。その特異さゆえに苦労することの方が断然多かったし、今は幸いにも安寧だけれど、万全かどうかと問われたら頷くことは憚られるだろう。そもそも、だいたいにして万全な生活とは何をもってしてそれというのか。何が揃っていれば万全で、なにが揃っていなければ十全でないのか。必要十分条件が僕には未だ見えてこない。
けれども確かに他者から排他された生活が一般とは言い難いものであったことは確かであった。それを大きな声で嘆いていた時期はもうとうに過ぎ去っている。それでもたまに思い出すことがある。たとえば昔、もっともっと自分がクソガキだった頃に彼女と出会っていたらどうなっていただろうとか。例えば昔、もっともっと早く彼女と知り合っていたら何かを変えることができていたのだろうかとか。例えば昔、もっともっと深く彼女のことを知ろうとしていればこんなことにはならなかったのだろうとか。
憶測の話ばかりが頭の中を飛び交って、結局のところ現実は打破されないままたゆたっている。何度繰り返せば気が済むのだろうと自分を嘲笑ったところで結論は同じなのである。そして、同じところに帰着するそれは、やっぱり無垢な彼女を携えてくるのだ。

何者にも染まらない彼女をどうしようもなく汚してやりたい衝動に何度も駆られた。その度にキドやセトの言葉を頭のなかで反芻して自分をセーブする。らしくないな、なんて笑ってみたりするけれど心の中ではちっともうまく笑えやしない。外面だけ立派に着飾っていくばかりで、自分自身さえ偽ることに苦はなかったはずなのに、こと彼女に関してはすべてがうまくいかない。
本当に、予想外のことばかりしてくれる。墓参りを終えて僕のところへ律儀に戻ってきた彼女に、やはり笑顔を向けてやると、少し眉をひそめられた。そりゃあそうだ、他人の墓前で清々しいほどの笑顔を浮かべるなんて罰当たりにもほどがある。さて、さっさと冗談だと笑い飛ばして帰路につくとしよう。瞬きをひとつする間にそのような結論を出した僕が口を開こうとしたそのとき、それよりも先に彼女が言う。

あなたは、さっきからどうしてそんなに泣きそうな顔をしているの?――と。

いわくそれは良い得て妙であって、むしろ的を射た発言であったのだけれど、僕はそれを正解であると認めることがどうしても口にできなかった。思うことと口に出すことは別であり、口に出してしまうとそれは既成事実として世に出てしまう。そうなるともう僕一人の手ではおえなくなって、結果的にそれが全ての事実となってしまうのだ。それだけは、避けたかった。僕が泣きそうな顔をしていただなんて、そんなことあるはずないのだから。
見間違いだろうと笑い飛ばすことは簡単だったし、なんの話だとはぐらかすことは容易だった。それでも、得意の口からでまかせが出てくる気配はいっこうになく、気づいたときには気まずい雰囲気が僕たちの間に流れていた。本当に、僕は学習をしない男だ。あと何回同じやり取りを繰り返せば気が済むのだろう。あと何回彼女に、忘れられれば初めて出会ったあの日がもう戻らないと覚悟を決めることができるのだろう。あと何回自分の心に釘をさせば、全てに蹴りをつけることができるのだろう。
きょとんとしている彼女の瞳に吸い込まれるようにして、そんなことを考えた僕は静かに、静かに、自嘲を溢した。決着の付け方なんて、とっくの昔に知っていたくせに、いままで実行する勇気がなかっただけだ。

「ねえ、」

静寂を切るように落とした声は思いの外しっかりとしていた。ぱちくりと瞬きをした彼女はこれから起こることなんてちっとも予想しておらず、相変わらず純真無垢な姿をさらけ出している。その姿さえも恨めしいと睨むことができれば、僕は少しでも救われたのかもしれない。

「僕は、君が好きだったんだ。」

そして、君も僕のことが好きだったんだよ。

外気に触れた言葉は全てを過去へ追いやるようにして、僕と彼女の間に溶けていった。


初めて出逢ったあの日を //「僕の知らない世界で」様へ提出



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