「じゃあ、もうさよならかな。」
「ああ、もうさよならだね。」

ふたり、目を合わせて笑っていた。けれどふっと真顔になって瞬きをすると、次の瞬間には、目の前は無人になっている。ねえ、これでよかったんだよね。そっと自問して、濡れる頬を強くこすった。応えはない。その涙を拭ってくれるひとも、もういない。



劇的というわけではなく、あえて表現をするなばありふれた離別を経験してからすでに半年が過ぎようとしていた。茹だるように暑い盆地の夏は過ぎ、山々の紅葉が見事な秋もすでに終盤を迎えようとしている。そんな京都で私は相変わらず大学生をしていた。変わらない日常に少し変化があったとすれば、知り合いが幾人か死んでしまったと言うことだろう。死というものの近くであまりにも長い間呼吸を続けていたせいか、私は生死というものにはなはだ無頓着である。もちろん知り合いが死んでしまうことは悲しいし盛大に弔ってやりたいとも思うが、何かが違うのだ。
締切間近のレポートを提出して、ぼんやりとしたまま帰路に着く。私の知り合いがなにやら面倒なことに首を突っ込んでいるらしいということは常々知っていた。それこそ始まりは、彼がいなくなった五月あたりだったかもしれない。同じ大学というだけでとりわけ接点があったわけでもないので、それほど気にしてもいなかったのだが。彼が行く先々で知り合いが死にすぎているという事実は変えようのないものである。だからといって件の彼を責め立てるというのはお門違いもいいところだろう。運命だなんてクサいことは言いたくもないが、それ以外言い得て妙な表現もないので陳腐な言葉を用いておくことにしよう。彼らの死はきっと、運命だった。

それはともかく、帰り道を歩いていた私は花屋の前を通りすぎようとして思い出したことがあった。かすかに肌寒くなってきた風を一身に浴びながら、店先でその美しい白を披露している白百合。一目惚れというものを信じる質ではないのだが、瞬間に私の心はその花束に奪われていた。何を惹き付けるものがあったのか。後になって考えてみてもやはりその理由はわかることがないのだが。もしかすると、それはただのきっかけに過ぎなかったのかもしれない。自分の知らない内に忘れていた出来事を回顧させるために、無意識に行われた心理現象。そう思うと多少は府に落ちる。
目を奪われた白百合を花束で購入した私は、自宅に帰るはずだった足を駅へと向けていた。こんな時期に花束を抱えているなど奇異以外の何物でもない。したがって私は町行く人々にそれはそれはたいそう怪訝の目を向けられた。誰かに疑われることも恨まれることも慣れてしまっているのでその程度のことはへっちゃらだった。もちろんそのときの私は少々普通の精神状態ではなくて、白百合を胸に抱いたときから唐突に去来した虚しさと葛藤を繰り広げていたので気づかなかっただけなのだが。心を穿つような寂しさは、久しぶりすぎて自嘲すらこぼれないほどだった。
そんな不安定なまま向かった先は京都からは少し離れた静かな平野だった。最後まで電車は通っていなかったので、バスに乗り換え最終的には徒歩でたどり着いた。何十年ぶりにやって来ても変わりない風景が続いている。相変わらず木は鬱蒼としていて草花は無節操に伸びている。その一角、一面が野花で構成される花畑があった。なんの花が咲いているのかなんていまだに知らないし、きっとこれから知ることもない。どうせなら一面が白に包まれているとまだ救われたかもしれないと考えて、笑った。

「あら、そこにいるのは人識くんじゃなあい?」

目的地に先客を見つけ、私はおだやかな声を出す。すると先にいる小さな彼は振り向いてから、その真っ赤な瞳を大きく見開いて驚いた。どうして、驚くのだろう。ついぞ彼の心情を汲めたことがない私にはわかるはずもなく、白百合を抱えたまま小首を傾げた。

「なんだ、お前か。」
「お姉さんに向かってお前だなんて。いつからそんな乱暴な言葉遣いになったの、私の可愛い弟は。」
「けっ、誰がおねーさんだ。俺に姉貴はいねえよ。ついでに言うと俺はもともと口が悪かったってーの。」

そうだったかなあ。彼と過ごした時期を回顧しようとして億劫になったからすぐにやめる。昔のことは自然と哀愁を携えてやってくるものだから恨めしい。人識の前でそんな醜態をさらしてしまうのはどうにも情けない。同い年の可愛い弟の前では死ぬまで一生良いお姉さんでいたいのだ。もっとも、彼自身は私のことを姉だとは認めていないので、そんなものはしょせん私の自己満足に過ぎないのだろうが。この世の多くは自己満足で成り立っていると考えている私にしてみると、どうでもいいことだった。結局みんな我が身が可愛いのである。
零崎人識と知り合ったのはまだ小さいときで、会わなくなったのもまだ小さいときだった。産まれてからずっと殺人鬼をしている彼が家賊となったのは、私が零崎に成るよりも後のことだった。だから私はお姉さんなのだ。幼さにかまけて彼とはあれこれ遊んだ気もするけれど、くだらない思い出は相当の扱いをうけて、とっくの昔に頭のどこか遠いところに仕舞われている。掘り返すような不躾を働いてまで彼と昔話に花を咲かせる気はなかったのでそっとしておこう。思い出は美化したまま放置しておくのが一番良いのである。

どうやら彼にとって私との再会は予期せぬものだったらしい。少し低い位置にある顔は翳りをもって、そらされている。昔から分かりやすい男の子だ。くすりと笑った私は彼の横を静かに通りすぎて、平地の片隅につまれている石の前に白百合を置いた。そしてそっと合掌して瞑目する。祈ることも伝えることも何一つないのだけれど、唯一思い描くならば謝罪の言葉だろうか。もちろん彼にはなんの謝罪かだなんてわかるはずもないだろう。それでいいのだけれど。

「一賊は全員死んだって聞いたぜ。」

私の一連の動作を静かに見ていた弟は突然言った。それを言うなら、私もだ。殺人鬼らしからぬ生活を送っていた私が家賊の訃報を聞いたのは件の不運な彼からだった。どうやら彼は私の弟を探していたらしいのだが、大泥棒に捜索を依頼したところ返ってきた返事が零崎一賊の全滅だったらしい。みんな死んでしまったらしいのに、どうして君は生きているんだい。なんの策略もなくただ好奇心のみで(あるいは彼にそんな気概すらなかったかもしれないが)無為式の彼は訊いてきた。そんなもの、私が訊きたいくらいだと泣きついたのはまだ記憶に新しい。あれはとんだ黒歴史である。
何があって一賊が全滅してしまったのかは知らない。そしてその火の粉がどうして私に降りかからなかったのかは知らない。知るすべはとうになくなっている。だから甘んじて普段通りの生活をすることで忘れようとしていたのに、零崎人識という可愛い可愛い弟は私を踏みにじるように言葉をかけてきた。しまっていた思いがぶくぶくと沸き上がる。それと同時に先ほど白百合を抱いたときの虚しさと寂しさも再び私を襲った。一賊全員がいなくなり、正真正銘のひとりぼっちになってしまった私に今更どうして救いの手など。そして、何故、よりにもよって彼なのだ。

人識とは不仲だったというわけではない。むしろ仲は良すぎたくらいだ。家賊というにはあまりにも限度を超えていたかもしれない。それでも構わないと言ったのはどちらだったか。私が彼の前から姿を消すまでの数年間、幼いながらに私たちは互いを求めて生きていた。だが、あれからもう何年も経って私たちは大人になった。幼かった自分達がいかにおかしかったかということは重々承知している。だからこそ私は彼を避けたし、彼の姉であろうとした。それなのに、彼は。

「私も、人識は死んだとばかり思っていた。家賊の中で一番死に近かったのは人識だったしね。」
「かははっ、そりゃあひでー言い種だな。あいにく、俺ァお前みてえな寂しがり屋を残してのこのこおっちんじまうような無責任な野郎共とは違うんでね。この通り、ぴんぴんしてるぜ。」

白百合を一瞥した彼は、眉をひそめて呟いた。

今年の五月、私たちの長男である零崎双識が死んだ。劇的ではなく、ありふれた死別であった。私は生死に対して関心が薄い人間であったが、そのときばかりはさすがに取り乱したと記憶している。だが、最期まで兄らしい彼の死に様は数週間もすると良い思い出として美化されてしまっていた。とどのつまり誰彼もの死は私を突き動かすにはいささか不十分であり、それがより集まった血脈の家賊であったとしても変わりはなかったのである。薄情なやつだと自分でも思うが、それ以上にかわいそうなやつだと思った。誰一人として私という人間を知るひとたちは私に向かってその一言を投げ掛けてこなかった。同情なのか、いなか。考えるのもバカらしい。
我らが長兄が死んでしまった現場に出くわした私は新しくできた妹と人識が去っていく姿を見た。昔、私がいた位置は長い間空白だったのに、今更になって埋められる。そこにある感情は違うかもしれない。そこにある関係は別かもしれない。それでも羨ましかったことは事実だし、そう考えている自分がいたのも本当のことだ。人識と私。依存していたのは案外私の方だったのかもしれない。だから一賊全滅の訃報は同時に私を絶望へと追いやった。何十人の家賊より、たったひとりの弟の死が私を苦しめた。本当に、恨めしい。

この平野はかつて長兄の計らいによって私と人識が出会った場所であり、今は亡き長兄が埋葬されているささやかな墓地であり、昔は私の生まれた村が存在していた場所である。さまざまな思い出がつまるこの場所で人識と再会したのはある意味で運命だった。そんな陳腐な言い回しで表現しきれることでもないが、そうとだけ言っておこう。この先一生死ぬまで会うことはないと信じていた弟に会えたのだ。今ぐらいはこの凡庸な頭を見逃してくれたって構わないだろう。どうせ、もう、その後はないのだ。



静かな平野を後にした私たちは駅近くの喫茶店に来ていた。積もる話はないが、なんとなくの成り行きだった。彼は大きなパフェを頼み、私はアイスティーを一杯。相変わらずの甘いもの好きは美味しそうなパフェに舌なめずりをしている。可愛いなあ、もう。思わず呟くと彼はむっとしていた。
両者の注文した品が揃い、しばらくした頃だ。彼はおもむろに自身の近況について話し始めた。そしてこれからは新しくできた妹の面倒を見るということも。兄貴に言われたから、というのが建前なのか本音なのかどうかはともかく。適当な相づちを打っていた私には正直どうでもいいことだった。すっかり殺人鬼らしくなく大学生として生活することに慣れてしまったので、彼らがそうまでしてひっそりと生きることの意味がわからなかったのである。そんなことを言うと私の可愛い弟は苦虫を噛み潰したような顔をするだろうから心のなかにしまっておくけれど。案外顔を歪めてみるのも悪くないかもしれない。

「なあ、お前も一緒に来ないか。」
「……へえ、どうして?」

唐突な誘いに、私はへらりと笑う。それは精一杯の牽制だった。私と人識は一緒にいちゃあ駄目なんだよ。昔、別れるときに本人に言った言葉がふと頭によぎる。小さな時の漠然とした不安によるその言葉。今では明確な意思を持っている言葉。だって、私たちは、家族なんだから。一緒にはなれないんだよ。一緒にいちゃあ、駄目なんだよ。

「お前もずいぶん酷な女だな。」
「人識ほどではないよ。」
「どうだかな。」

かははっ、と特徴的な笑いかたをする彼につられて私も笑う。そしてひとしきり笑いあった後、私はゆっくりと口を開いた。

「じゃあ、もうさよならかな。」
「ああ、もうさよならだな。」

カラン、と烏龍茶の中で氷が音をたてて崩れる。ゆっくりと瞬きをした後、やはりそこには誰もおらず、机上には空になったパフェのカップがあるだけだった。代金ぐらい置いていきなさいよ、とは言わないでおこう。最初で最後の奢りである。これで、よかったんだよ。ぐにゃりと歪む視界を無視して呟いた。やはり、涙を拭ってくれるひとはどこにもいない。


底知れない海の中 //「僕の知らない世界で」様へ提出



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