お母が風邪で寝込んでしまったので、家事は彼女が請け負っていた。姉さんは別にもうこの家の人間と言う訳でもないのに実の息子たちよりも働いている。そりゃあまあ兄貴たちは祓魔という別の仕事があるわけだが。それを言うと、まだ祓魔のふの字も学んじゃいない俺が姉さんの手伝いをするのは当然の流れであった。それ以外俺にできることはない。俺はいつだって無力で、存在する意義が希薄な人間だ。誰かの代わりになることも、できやしない。今更そんなことを嘲笑うのも馬鹿らしいのでしてやらないけど。嘲笑ったところで現実は変わりようがないのだ。
柔兄がなにか言って台所から去っていくのを尻目に俺はひたすら手を動かした。姉さんと並んで洗う食器はかちゃかちゃと軽い音をたてている。それに重なるようにして流れてくる金兄のベースかギターか、どちらかの音は、やはり俺にとっては煩わしいものでしかなかった。いくら取り繕ったところで俺と姉さんの間に安寧はないのだと、ふたりきりになることはできないのだと突きつけられているようで。巡り巡っても理想は現実にならないのだと嘲笑われているようで。こうも卑屈になっている自分が惨めで可笑しい。そんなくだらないことを考えながら洗い物をしていたせいか、包丁で指を切るのも時間の問題であった。
いてっと小さく溢してから、情景反射で切れた人差し指を舐める。じんわりと口のなかに広がる鉄の味に胸焼けがした。
「あらまあ、大変。大丈夫?」
はっとした彼女が少し驚いたように問いかけてくる。俺がヘマをするのはよくあることなのだが、そう言えば姉さんの前ではいつだって格好をつけたがっていたからこんなことは初めてだったかもしれない。
「あははっ、どうってことないですよ。こんくらい、慣れっこですわ。」
「もう、そんなこと言っちゃ駄目よ。怪我をしたら痛いのは当たり前なんだから我慢しないの。」
そう言って舐めていた指をさらうと、ポケットから絆創膏を取り出す。けれど消毒液がないことに気づいてしばらく思案した後、彼女は俺がさっきまでそうしていたように俺の指を口にふくんだ。思わず何をしているんだと手を引き上げようとしたけれど、彼女はけろりとした顔で言うのだ。唾って消毒になるって言うでしょう、と。実際に唾はなんの消毒にもならないのだけれど。落ち着いた雰囲気からその行為に他意がないことは明らかであった。しかし彼女になんの思惑がなかったとして俺の中にはどろりとした感情が生まれる。
指を口から離して絆創膏をまいた彼女は黙ったままの俺に気づいたのか、痛かった?と顔を覗き込んでくる。くるりと澄んだ瞳に俺が映り、ああ、このときだけは俺だけを映してくれるのかと思う。そうしたら不思議と怪我をしたのも悪くないと感じた。一瞬でも数瞬でも嘘でも欺瞞でも、彼女の世界に俺が小さく在れたのならそれでいい。覗き込む姉さんの輪郭に手をそっと這わせ、抵抗を許す間もなくその唇に噛みつく。あまりに感触のないキスは俺の穿たれた心に滲みた。
「俺、姉さんのこと好きやったんですよ。知らへんかったでしょう。」
驚く彼女にそう言い放つと、姉さんは顔を歪めた。そんな表情、させたいわけじゃないのに。後悔したところでもう遅くて、俺の体はほとんど闇に沈んでいたかもしれない。たった少し、堕ちずに済んでいるのは皮肉なことに罪悪感があったからだ。その罪悪感がはたして誰に対して浮かんだものであるかは、自分のことながらはっきりしない。ただ唯一確かなことといえば、それらは複数存在していて、そのどれもが姉さんに関係しているということだ。どこを見てもたおやかな笑みを浮かべて立っている姉さんは美しくもあり、同時に恨めしくもあった。
愛に人生を擲つほど阿呆じゃないけれど、彼女のためなら死さえもいとわないと考えた回数は幾度となくある。この世に多大な未練を残したままあの世へと逝って望んだ未来が手にはいるかどうかわからないけれど。家のこととか、坊のこととか、自分の将来のこととか、面倒くさいものを投げ出すには良い機会だった。いつだってのらりくらりと生きてきた俺は限界などとうに越していて、この息苦しい人生から逃げたって誰も文句は言わない。そう思っていたのに。
何度も死のうとした。その度に彼女がちらついて言うのだ。死んじゃだめだよ、と。あの、はかない笑顔で言うのだ。そんなことをされたら俺は堪らない。生きろと言うならどうか俺に生きる希望を与えてくれよ、なんて。結局死ぬ勇気なんてなかった自分に言い訳をしているだけだ。俺は取り巻く状況がどう変わっても、弱虫であることに変わりはなかったのである。
「廉造くん。私は、私はね―…、」
彼女がなにかを言いかけたとき、ぎしりと床を踏む音がした。ちらとそちらに視線をやれば、
「廉造、なにぼさっとしとるんや。さっさァ風呂入らんと後つかえとるで。」
ひょっこりと現れた金兄が言う。そう言えばいつの間にかあの重低音は止んでいた。音は止んでもやはり俺と姉さんの間は埋まらない。座り込んでいる俺を一瞥した金兄はそのまま姉さんがいるところを通りすぎて冷蔵庫を開ける。彼が通りすぎた瞬間にぐにゃりと歪んだ姉さんの影は今にも泣きそうな顔で笑っていた。そっと手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、俺にはそれができない。俺の役目じゃないと、わかってしまっていたから。彼女を苦しめるのも、彼女を慰めるのも、いつだって彼なのだ。
俺にはできないこととわかっていて手を伸ばす勇気が俺にはなかった。拒まれるとわかっていて、変わらないと理解していて、行動できるような人間ではないのだ。たとえその行為で彼女が救えると言われても、それでもやっぱり俺は我が身が可愛い。とどのつまり、俺はとんだ意気地無しだったのである。
「姉さんは、なんで俺にしか見えへんのでしょうね。」
去年死んだはずの、金兄の恋人だった姉さんにそう言って俺は拳を握った。彼女はなにも答えない。ただ、金兄の去る後ろ姿を眺めて笑っているだけだった。
どうして俺たちは、こうも救われないのだろうか。
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