星ひとつない夜のことだった。突然俺の家を訪ねてきた彼女はずぶ濡れで。雨が降っていたわけでもないのにどうしたのだと問いかけるが、返事はない。代わりに「ねえ、臨也くん。」と呼び掛けて、抱きついてきた。今にも折れてしまいそうな細腕はかたかたと小刻みに震えている。どうして何も話してくれないのか。そんな疑問は抱きながらも不躾に問い詰めるほど俺はできてない男じゃない。小さな背中を包むように抱き締め返して、ゆっくりとあやしてあげる。こう見えても待つことには慣れている。彼女が話したくないのなら一生胸の奥に閉まったままでいいと思うし、いつか思い出したように吐き出すのならその時は笑い飛ばしてやろうと思う。ともかくも、俺はとことん彼女に甘かった。
しばらくして離れた彼女がどんな表情をしていたのか。そんなものは見なくてもよくわかっていた。ばつの悪い、申し訳ない顔だ。それは同時に今は何も言えないということを示している。だから気にしていないという意味を込めて頭を撫でてやってから俺はゆっくりと離れる。重なりあっていた部分に風が通って一気に熱をさらっていった。特別なことなどなにもしていないのに、触れ合っただけで熱くなるなんて俺はそうとう彼女に惚れ込んでいるらしい。それはもちろん向こうもそうだろうが。俺の場合と彼女の場合じゃ、少しばかり事情が違う。

―…俺は彼女を愛しているけど、彼女のそれはきっと上辺だけだから。

俯きがちの彼女の手を引いてソファーに座らせる。濡れたままだと風邪を引くからとタオルを差し出すと、遠慮がちに受け取った。震える指先は赤くかじかんでいて、長時間寒さにさらされていたことを顕著にしている。俺が知らないだけでどこかで部分的豪雨があったのか、それとも川にでも落っこちたのか、あるいは誰かに水をかけられたのか。どれも可能性の低い推測だ。それにあれこれと思い描いていてもなんの解決にもならないし意味はない。温かいコーヒーをいれてやり、動かない手からタオルを奪った俺はがさつに頭を拭き始めた。「くすぐったいよ。」といつもなら笑うところだが、さすがに今日は無言だ。
十分に水気もとれ、俺の服に着替えた彼女は少し冷えたコーヒーに口をつけながらぽつりと言った。「臨也くん、ごめんね。」何故謝られなくてはならないのか理解ができなかった俺は聞き返したが、返ってくる言葉は同じだった。とても悲しそうな顔をして謝罪するものだから俺はこのまま別れ話をされるんじゃないかと胆が冷える。愛してるから別れるのは辛いし、手放すのは嫌だ。そしてそのまま他の誰かのところにいってしまうだなんて想像するのもおぞましい。腹立たしくて、相手を殺したくなるくらい。もちろん、俺の手で。

彼女が心から誰かを愛せないことはわかっていたし、それでもいいと手元に置いたのは他でもない俺自身だ。だからいつか別れが来てしまうかもしれないというのはある意味必然だったのかもしれない。予感はしていたが、それが確信に変わることを恐れていた。正直なところ、彼女はなんだかんだ言いながらも俺に帰着するだろうと思っていたから。それは他に身寄りがないせいもあるし、彼女がわりと人間不審を患っているせいもある。なんにせよ心のどこかでは安心感があったのだ。隣にある温もりはたとえ表面をなぞるだけの仮初めであったとしても俺の傍らで永遠にあるものだと。

「臨也くん。もしもね、私が死のうとしたんだって言ったら、どうする?」
「……………。…さあ?驚きはしないかな。君は昔からわりと死にたがりな節があったから。」
「別に、驚きなんて求めてないもん。」

唐突な質問をしてきた彼女は俺の返答が不服だったのか、ぷいっとそっぽを向く。どうやら懺悔の時間は終わったらしい。いつものほがらかな雰囲気が戻ろうとしている兆しが見えてきた。

「君が求めてるのは、悲しみかな?」
「…違うよ。きっと、臨也くんには一生わからないもの。」
「なに、それ。死んで悲しまれたくないのか?」
「悲しむ気もないくせによく言うよ。」

からからと、鈴を鳴らすような声で笑った彼女は肩を揺らす。そっちこそ、俺の気も知らないでよく言うよ。わざとらしく肩をすくめた俺はコーヒーカップを手に取るとごまかすように口をつける。彼女といるとどうも調子が狂っていけない。いつもの飄々とした憎たらしい青年を装うように俺は自分自身と掛け合ってみるが、どうにも好ましい返事がきそうになかった。俺の中の葛藤は彼女を迎え入れたときから延々と続いていて未だに終結する気配を見せないのだ。それもそのはずで、ずぶ濡れだった彼女が泣いていた理由が気になって仕方ないのだから。
気丈な彼女はまず人前で泣くことがない。それはたとえ親友の前であったとしても。けれど一度だけ、俺は彼女の泣き顔を見たことがある。初めて出会ったとき、彼女は泣いていた。高校生の時の話だからもう何年も前のことになるけれど俺は鮮明に覚えている。笑顔を浮かべているのに丸みを帯びた頬には涙が伝っていたのだ。夕日に照らされたそれは、とても綺麗だった。だから思わずどうかしたのかと問いかけてから、引き留めたのだ。それをきっかけに俺と彼女の仲は親密になっていくわけだがその経緯はどうでもいいので省略。

今までだって泣きそうな面をしてやってくることは多々あった。そのたびに震える腕で俺を抱くのだ。忘れたくても忘れられない。けれど、今回は事情が違うらしい。ゆっくりとコーヒーを喫する彼女を横目で見てから呼吸を止める。質問することは容易く、調べあげることも簡単なことだ。だが、それを実行してしまったとき、彼女は俺のことをどう思うのか。何も言わずにただ安寧を与えてくれるという拠り所はたちまち崩れ、二度とは戻らない。目に見えた結果である。
だから、俺は口を永遠に閉ざすのだ。彼女がこの世から消えてしまう日まで、ずっと。

「俺は、君が死んだら喜ぶかもしれないね。」
「え、なにそれ。ひどくない?」
「そうかい?だって、君が死んだら俺は全てを知ることができるから嬉しいと思うな。」
「なんの話?よくわからないんだけど…。」
「君はわからないほうがいい話。」

からかうように言うと、彼女はきょとんとした顔を傾げる。そんな可愛いことをしたって正解なんて与えてやるものか。くしゃりと頭を撫でてから、コーヒーカップを手に俺は立ち上がる。彼女は全ての行動を無意識に行っていて、現在できてしまっているこの関係性についてまるで把握していない。把握していないが、壊れてしまうと漠然としたなにかを悟るだろう。彼女はわりと勘が鋭い人間だ。だから今も俺は、彼女になにも悟られないように足早にキッチンへと逃げる。今までそうしてきたように、俺は彼女の全てから、逃げる。

行き着く先は、決して幸せなどない世界と知っていても。俺は、逃げた。


君の泣く理由が分からない //「僕の知らない世界で」様へ提出



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