窓を開けて夜風にあたっていると、ふいにノックの音が鳴り響き「入るよ?」と声がかかる。扉の向こうの人物は私の返事を聞く前に進入してくると、窓枠に座る私を見てため息をついた。てっぺんだけ黒く戻ってきているプリン頭をした彼はどうやら呆れているようだ。どう反応していいのかわからなくてへらりと笑って見せるが逆効果だった。ゆっくり近づいてきながら再度ため息をつかれてしまう。そして羽織っていたパーカーを脱ぐと私に投げつけた。着ていろ、ということらしい。確かに私は薄着だったけれど風邪を引くレベルではない。それにこれを脱ぐと彼だって寒そうだった。ただ、断ることは無謀と知っていたので黙って受け入れる。
彼、孤爪研磨は私が悩んでいるときに愚痴を聞いてくれる数少ない友人のうちのひとりだった。あまり社交的でない彼は自分の意見を言うことは少なく、滅多に主張をしない性格だ。会話相手としては少々問題があるかもしれないが、それだって慣れればよく話してくれるし、何より彼はひとの話を黙って聞いていてくれる。私はそれに何度も救われた。隣に座って、相槌を入れるわけでもなく、本当に耳を傾けているだけ。でも研磨の醸す雰囲気というのか、そういうものが私を癒してくれるのだ。彼はいるだけで安らぐ存在である。それは多くの時間を共有してきた幼馴染みだからなのか、それとも…。
今日はどうしたのと研磨は私の前に来て言った。風呂上がりだったのか、毛先には雫が溜まってきている。髪を乾かしてきてからでもよかったのに。くすくすと笑ってからタオルを取り、手を伸ばす。昔は私より小さかった彼の背もいつのまにか私を追い抜かれて高くなっていた。もう、高校生だ。確かに男の子にしては小さい部類かもしれないけれどこのくらいが話しやすくてちょうどいい。頭を撫でにくくなったのは少しだけ寂しいけれど。研磨は別に構わないだろうと言っていた。きっと撫でられるのが恥ずかしかったからに違いない。
ベッドに座るように促してから、タオルを動かす。鬱陶しいほど伸びている髪を切らないのかと提案してみたことはあるが、彼はいっこうに承諾しようとしなかった。なんでも視界が広がるのは落ち着かないらしい。内向的な彼らしい理由だと笑った。目立ちたくないくせに金髪にしてきた日には頭がおかしくなったのかと思ったが。なんでも部活仲間にその髪は目立つと指摘されたから染めたらしい。たぶんそのひとは長さのことを言ったんだろうけれど意地でも長さを変えたくなかった研磨は気づかなかったのだろう。黒髪の彼も好きだったが、金髪もよく似合っていた。
研磨の髪は相変わらず綺麗だねえと他愛ないことを言うと、彼は少し黙った後で小さく頷いた。否定しても意味がないことをよくわかっているからだった。昔、そのことで延々と言い合いをしたことがある。あのときはもうひとりの幼馴染みが止めに入るまで、お互いに相手の方が綺麗だと言っていた。結局、決着はつかないまま。でもやっぱり研磨のほうが綺麗だと思う。さらさらとしていて、繊細で、艶のある髪。まるで女の子みたいだと言うといつも不機嫌になるから最近は思うだけにしている。
「それで、今日はなにがあったの?」
彼がそう切り出してきたのはしばらくしてからだった。深夜十二時を回った街は昼間に比べるととても静かだ。でも明かりだけは遠くでちかちかと灯っている。街は真っ暗闇のなかで星を見ることができないから少し残念だ。
なにがあったか。そう問われると自分でも具体的に答えることはできなかった。いつもなら友達と喧嘩をしただとか、彼氏と別れただとか、立派な理由があったのに。今回はなんとなくもやもやとした感情がはびこって不快だったからという曖昧なものだった。時間が解決してくれるかもしれない問題だ。そもそも詳細が自分でもよくわかっていないのだから愚痴ろうにも愚痴れない。研磨を呼ぶ必要などどこにもなかった。それでも自然と携帯電話を手に取っていたのは私が彼に甘えている証拠である。
彼はいつだって私が呼ぶと来てくれる。優しい優しい幼馴染み。私のいかなるわがままも面倒くさいとひとりごちながらもきちんとこなすのだ。その理由はよくわかっていた。でも、認めてしまうのはちょっとだけ、躊躇する。小さいときから姉弟のように過ごしてきた彼を異性として意識しろと言われても急には無理だった。幼馴染みの関係を壊したくないとか、そういうわけではない。でも、私は研磨とはずっとこうやって付かず離れずの間柄でいたかった。それがいかに自分勝手で彼を傷つけているかということは、わかっていても。
研磨に会いたかっただけだよ。ふざけてそう言うと、私の前で座っていた彼は返事を返さなかった。私につむじを見せるように俯き気味になっていて、表情は見えない。どうしたのと覗き込もうとすると、彼はぱしりと私の腕を掴んだ。さっきまでタオルを握っていた右手をバレーの練習でタコのできた大きな掌が捕まえる。息が、つまる思いがした。何気ない彼の所作ひとつひとつが私を諌めているようで。
「冗談で、そんなこと言わないで。」
冷めた声だったと思う。今まで喧嘩をするたびに幾度となく聞いてきたはずなのになんだか別人のように冷たいと感じてしまった。そして、そう受け取った自分に驚き、つらくなった。彼は知っている。私が彼の気持ちに気づいていながらも態度を変えないことをよく知っている。そのせいで彼が悲しい顔を見せることを、私はよく知っている。なのに、何もしないし何も言わないずるい私。
「……ごめん。」
「…別に、いいよ。それより、ほら、早く星を見よう。」
視線をそらせた私に微笑んだ彼はそう言って立ち上がる。ああ、どうして。なんでそんな風に平気な振りをしていられるの。ぎゅっと胸を締め付けられる思いがして、彼を見る。こんなことは私が言うべきではないとよく理解していた。悪いのは私だ。それも、わかっている。でも、どうしようもないこともまた事実なのだ。
窓際へと近づく彼の背中に、私は小さく謝った。許されることはないと、わかっていながら。
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