僕の身体より一回り矮躯の少女は、九州から京都までの道程でずっと無言だった。普段からあまり喋るほうじゃないし、ましてや人外的なスピードで駆ける僕の小脇に三日間も挟まれていたのだから口を開こうにもできなかったのだろう。それでもたまに、彼女の心音は腕からきちんと伝わってきているはずなのに、死んでしまったんじゃないかと思う瞬間があった。全部が杞憂に終わるわけだが、思えばそれは総てを予感していた僕の第六感とやらが、最後の最期になにか伝えようとしていたのかもしれない。
僕が京都に行くと言い出したとき、僕の彼女は二つ返事で同行を申し出た。彼女は彼女なりに狐さんに言ってやりたいことがあったのだろうと、そのときは適当に考えていた。自分の知らないところで妹のように時間を共有してきた理澄が死んだのだ。直接的に狐さんに原因はないにしろ、彼女はその憤りを向ける矛先が見当たらなかったのだろう。九州の隠れ家に戻ってきてからも、たまに物憂いに外を眺めているときがあったと記憶している。
もしもこのとき僕がそんなことを全て考慮したうえで、彼女の申し出なんて跳ね退けて京都に走っていればどうなっただろう。どの道僕の末路に変わりはなかっただろうが(どうせ理澄が死んだ時点で近いうちに僕が死ぬことは決まっていたらしいのだ)、彼女の人生はそうもいかない。理澄が死んだと聞いたとき、あれほど泣いて喚いた彼女を、僕が死んだ後は一体誰が支えてやるというのだ。気丈に振る舞っているふりをして、誰よりも泣き虫な彼女を誰が泣き止ませてあげるというのだ。僕がいなくなった後、誰が彼女を幸せにしてやるのだ。
僕にはそんなことを考える余裕がなかったわけじゃない。ただ、あのときは、まさか自分が死ぬだなんて想像していなかっただけだ。まさか、人類最終だなんていう奥の手があるだなんて、知らなかっただけだ。結局僕の人生は誰かの掌の上でくるくると踊っていただけなのかもしれないが、その中で彼女に出会えたのは唯一の幸せだった。だから、彼女にはいつまでも幸せでいてほしかったのに。
およそ人外的な肉体を持つ僕よりもはるかに桁外れの生き物が現れたとき、僕は直感的に走り出していた。舞台の上には僕と彼女と狐さんとおにーさんと闇口の少女。闇口のやつと僕が地を蹴ったのは同時だった。ほぼ本能的だったのだろう。闇口はおにーさんを守るために。僕は彼女を守るために。狐さんとおにーさんと一緒に彼女を残していくというのはいささか不安が残ったけれど、そんなわがままを言わせないまがまがしい生き物に僕の神経は集中していた。
誰よりも強くなくてはならなかったはずの僕は、人類最強に敗北をきしてからとことん堕ちたのだろうか。ただ、それは一瞬の出来事だった。軽く、あしばらいでもするような感じで振り上げられた足が僕を体育館の床に埋める。刹那に彼女の叫び声がした。出夢っ!出夢っ!そうやって、意識が朦朧としていく僕をつなぎ止めようとしてくれる。普段は絶対に出さないような大声は、静まり返った体育館によく響いていた。
でも、もうどうしようもなかった。いくら避けようという意識を持って人類最終の攻撃を受けたからといって、破壊力が違うのだ。頭はぐわんぐわんと音を立てている。それでも彼女の澄んだ声だけは、よく響いて脳髄にまで伝わった。それは、さながら子守唄のように。
人類最強が踏み潰されそうになったとき、舞台のほうで音がした。軽い足音。紛れも無い、彼女のものだった。おそらく、僕が床にめりこんだときにはすぐに来ようとしたのだが、おにーさんに止められていたのだろう。それが、人類最強が呆気なくやられている場面にほうけて力が緩んだ彼を振り切って、彼女はとうとう走り出していた。ダメだ。こっちにきちゃあ、ダメだ。僕のことなんて放っておいていいから君は死なないでくれ。その嘆願は僕の余りなどない力を振り絞る勇気に変わる。
しかしながら、どんなに足掻いたところで結末など変わらないのだ。敵わないものには、一生かかっても敵わない。生まれながらにして破壊力を有して、ただ殺人することだけに生きてきた僕なんかは特にそうだ。頑張る意味がわからない。ただ、誰かのために生きれたらそれでよかった。存在意義が成立した。それで、すべて、よかったのだ。
呼吸は確かにしているはずなのに、心音なんてしなかった。なにかを悼む軋むような音すら、僕には聴こえない。眠気眼の人類最終の軽い突きひとつで、ぼくの土手っ腹は大部分が吹き飛んだ。文字通り、なくなったのだ。普段は僕が誰かに対して行っている行為をいざされてみると、確かに辛いものがある。痛いわけじゃないんだ。痛みなんてどうでもよくなるくらいに未来がみえない現在が、苦しい。もう、限界だった。
僕の散らばった肉塊や内臓を見て、彼女は蒼白していた。そりゃあそうだろう。彼女はまだぎりぎり片足が表世界に浸かっているような人間だ。誰かの無残な死に際なんかそうそう見たことないだろう。ましてや、愛しているひとの今際なんてな。愛しているひと、ね…。そもそもはそこが間違いだったのかもしれない。僕はまごうことなき殺し屋だ。そんな人間の隣にいたんじゃあ幸せになれるはずがないんだ。そもそも僕たちは出会うべきじゃあなかった。お互いが笑って呼吸を止めるためには、知り合うべきじゃあなかったんだ。
そうすれば彼女は僕じゃない誰かと人生をゆるゆると過ごして、僕はいつか遅かれ早かれ理澄と一緒に死んでいく。交差なんてするべきじゃなかった。住む世界からして違っていたんだ。表世界で暮らしていた彼女を無理矢理こちらに引きずりこむだなんて、間違い甚だしい。
僕たちは、最初から、間違いだらけだったんだ。
「あっ、ああっ、い、いずむ…っ!いやだよ、死なないでよ!出夢っ!」
「ぎゃはっ、この有様で、死ぬなっていうほうが、無理だと思うけど…。」
僕が力無く笑うと、ぼろぼろと流れる涙が僕のうえに落ちる。ほら、やっぱり、泣き虫だ。本当ならその頬を伝う涙を拭ってやって、いますぐにでも抱きしめてやりたいのに、身体は動かない。さすがに右脇腹が根こそぎ吹き飛ばされたんじゃあ無理もない。むしろこうやって、話をできる余力があるほうが奇跡に近いくらいだ。
彼女の冷たい掌が僕の頬を撫でる。不細工な泣き顔なんかよりどうせなら笑顔が見たいんだと言っても、どうせ泣き止まないんだろう。彼女の背後からおにーさんがやってくるのを見ながら、僕は静かに笑う。本当なら、僕が死んで泣き喚く傍らに寄り添ってやりたかったんだけれど。どうにもその役目は果たせそうにないから、悔しいけれどおにーさんに托そうと思う。
ごめんは言わない。ありがとうも言わない。ただ、一言、伝えたかった。
「……なあ、愛してたぜ。」
だからもう、泣かないでくれよ。だからせめて、笑ってくれよ。だからいっそ、幸せになってくれよ。そう、呟いて、目を閉じた。
(どうか、僕の彼女が幸せでありますように。)
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