人気のないそこで音をたてていたのはオレの傘だけだった。ざあざあざあ。勢いのよさに雨が降り注ぐ音はもはや音としては成り立たず、すうっと鼓膜を突き抜けて通り過ぎていく。そこはまるで真空だった。無音が肌を撫でて心地好く包み込んでくれる生温い世界。それはもしかすると彼女が今立っている場所だったのかもしれない。そう考えるとオレは息が詰まって、左胸が貫かれたように痛くなる。
彼女と同じように傘を投げ捨てて助け出すことが出来たらどんなによかっただろうと思う。でもオレには決してそんな勇気はなかった。傷つく彼女を見ているのはとても辛かったけれど、それでもやっぱり自分が傷つくのだって辛かった。結局のさばってくる自己保全など、今に始まったことじゃない。大袈裟に言えば、それはたぶんオレたちが出会ったときからそうなるのだと決まっていたのだ。運命なんて言えば聞こえはいいけど、しょせんそんなものは自分で作り出した逃げ道のひとつに過ぎない。
彼女はオレの、オレたち双子の幼なじみだった。お隣りに引っ越してきたことをきっかけによく遊ぶようになったと記憶している。彼女は少し引っ込み思案で消極的な女の子だったから、何をするにもオレたちと一緒だった。でも、いつからだったか、彼女が追い掛ける背中はひとつになっていた。そのことに気付いたときは、ひどく不快な気分になったものだ。それは確かまだずいぶんと幼くて、自己管理もままならないような時分だった。だからかオレはもやもやとしたその感情は兄を取られたからだと思い込んだ。なんて可哀相な勘違い。
よくよく考えてみれば彼女がオレより悠太に惹かれるのは当然のことだったと思う。我が兄はオレが怠惰なせいもあってか実に面倒見がよくて優しい人柄をしている。その分け隔てない優しさはもちろん彼女にだって平等に振る舞われた。ただちょっと、彼女の場合はそれに触れる機会が多かっただけ。他人の恋を勘違いだと指摘するほど偉くはないけれど、彼女のそれはきっと錯覚のようなものだと思う。ああ、いや、そうだと思いたかっただけなのかもしれないけど。
とどのつまり、彼女の恋というものの原因は他人から受ける無条件の優しさにあった。そうだとわかっているならさっさと優しくしてやりなさいって話なんだけど、それはそれで難しい。彼女は一瞬の錯覚を思い込んで本当に恋をしているみたいになってしまったから、きっと今更オレが何をしようと関係ない。あの時から彼女の目には悠太しか映っていないのだ。
そんな彼女がこの豪雨の中、家を飛び出しているのを見つけたのはたまたまだった。夕食を終えて、部屋のカーテンをしめているときにちらりと走り去る姿が見えたのだ。それが傘をさしていたのならオレはたいして気にならなかったかもしれないけれど、彼女はあいにく手ぶらだった。しかも刹那に横切った顔はひどく歪んで悲しそうに見えたのだ。走り去る彼女がなんだかいつも以上に小さく見えて、雨に消えてしまいそうに思えた。それこそ、ただの錯覚なのに。
気付くとオレも家を飛び出していた。とうに姿は見えなくなっていたけれど、なんとなく予想はついていた。昔から彼女は辛いことがあると馴染みの公園にやってきてブランコに揺られているのだ。もっとも、最近じゃあほとんど見なくなったけれど。それでもたまに見かけたときは静かに隣に座って話を聞いてあげる。とつとつと吐露する小さな姿をオレは全部記憶しているけれど、はたして彼女は一体いくつオレとの記憶を残しているだろうか。
「…風邪、引きますよ。」
公園の入口から彼女のところに行くまで何分かかっただろう。別世界への通路を分け入るように必死に歩みよった。そのときにはまだオレの中にも理性はあって、利己心と彼女への愛情がひしめき合っているのを遠くから見ているような状態。そんな心境はさらにオレを鬱屈させる。彼女に近づくことがこれほどに困難で辛いことだとは知っていたけれど、それでも少し泣きそうだった。
「今日はどうしたんですか。」
「………うん。」
「…話、聞くから。とりあえず濡れないとこ行こう。」
「………うん。」
いまだに空だけを見つめる彼女の隣に立って話す。人形に話し掛けているような気分だった。傘をかざしてやればよかったのかもしれないが、できるはずもない。仕方なく、いっこうに動こうとしない彼女の手を取ろうとすると、逆にその華奢な手の平がオレを掴まえた。びしょびしょに濡れた手はありえないほど冷え切っていて、さながら死人のようだった。思わずぞくりと悪寒が走り、オレは慌てて彼女の顔を見る。切なそうな横顔はいつのまにか正面を向いていた。
苦し紛れにぴとりと張り付いていた前髪をそっとかきわけてやると、彼女は少しだけ照れたように笑う。泣きながら笑ったせいか、ひどく不細工だったけれどオレの胸はきゅうっと締まった。
「ありがとう、祐希。」
ようやく振り絞ったというようなか細い声に返す言葉をなくす。代わりに傘の中へ引き込むように、繋がれていた腕を引いた。わりに小柄な彼女の体躯はその力に逆らうことなくこちらへと傾いて、そのままオレの胸に収まる。傘に入れてやれたのはほんの一瞬だった。衝動的に腕が伸び、抱きしめてしまったオレは傘を無残に手放して、ぐちゃぐちゃの地面に転がす。雨を遮ってやるだけの、つもりだったのに。音もなく崩れたのはオレの利己心か、それとも…。
身じろぐようにして少し反応した彼女をうかがうと、さっきまで涙を流していた悲哀を帯びた瞳は真っすぐとオレを見ていた。思わずオレのほうが構えてしまって、少しおかしな気分になる。どうやって、そして一体どんなことを言えばいいのかがまるでわからなかったから視線を逸らせて腕の力を強めた。どうせなら今この瞬間に世界が終わってしまえばいいのに。オレが、オレだけが彼女を独占している唯一のささやかな時間が、永遠に止まってしまえばいいのに。
「……祐希、」
けれどそんな浅ましい願いなど悠々と打ち砕く鈴のような声は言う。ちらとそちらをうかかえば、今までに向けたことのないような慈しみを含んだ笑顔がオレを見ていた。もし傘を手放さずにかざすだけで留めておけば、彼女はこんなふうに笑わなかっただろうか。それなら、手放して悪くなかったかもしれない。積み上げてきた自己保全を無下にして良かったかもしれない。たとえそれが全てを頽れさせる足掛けだったのだとしても。
「ごめんね。」
小さく紡がれたその言葉が何に対しての謝罪なのか、オレはわかりたくなかった。
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