王宮の中を歩いていると、けだるげな背中を見つけた。仮にも侍女として仕える身の上なのにも関わらず、相変わらず全てに対して面倒くさそうなことが後ろ姿からでも見てとれる。こっそりと後ろに迫って切り掛かってやろうかと足音を忍ばせたとき、見計らったように彼女は振り返った。死んだ魚の目というよりかは、焼かれて死んで失われてしまったような魚の目をした彼女の双眸が僕を映す。仮にも皇太子である僕を前にしても、猫背が伸びることはなかった。
たくさんの紙束を抱えた彼女は僕を一瞥してから、なにもなかったかのように再び歩き始めた。その様子は僕じゃあなくともイラッとくるはずだ。考えるよりも先に僕は思わずその背骨をへし折る勢いで飛び蹴りをかます。普段は僕の言うことなんか滅多に聞かないで、期待するだけ無駄な彼女は珍しく(ほとんどというか、確実に不可抗力で)僕の期待に応えてくれるようにそれを受け止めてくれる。僕の足が背中に当たると、衝撃に逆らえない矮躯はそのまま前方へと吹っ飛ぶ。もちろん資料なんか、ばらばらだ。

「な、なにするんですか!」
「え〜、それはこっちの台詞なんだけど。僕を無視するなんていい度胸してるよねぇ〜?」
「………、どうせ無視してもしなくても私のことを蹴ったくせに…。」
「ん?なんか言ったぁ?」
「別になんでもございません。」

廊下に俯せに横たわった彼女はかろうじて僕を睨みながら平然としている。ちなみに僕の足はまだ彼女を踏み付けたまんまだ。このままこの背中の上で乱舞したら確実に彼女は死ぬだろう。おそらくないとは思うけれど王宮の外に出て、僕の知らないところで知らないやつに殺されるよりかはずいぶんましな選択肢だった。たぶん彼女が特別待遇をうけている侍女じゃあなかったら、僕は真っ先に殺していただろう。死ぬことが当たり前の世界に放り出される前の生温い空間で、僕が殺しておきたい。
それは、ただの、自己満足だった。

「……あー…、紅覇様。また私を殺そうなどとお考えなのですか。」
「あれ?よくわかったね。ご明答だよ〜。」
「その爛々とした瞳を見れば一目瞭然です。…とはいえ、やはり、そう簡単に殺されるわけにはいきませんので。」

言い切ると同時に彼女は僕の下からいなくなっていた。瞬きをする一瞬の間に、僕より三歩ほど離れた位置に移動して、何事もなかったかのような顔で立っていた。その釈然としない様子はいっそう僕を苛立たせる。殺せないからムカついているのか、あしらわれているからムカついているのか、相手にされていないからムカついているのか。よくわからなかった。おそらく、全部あてはまるんだろうけれど。
彼女は僕と変わりない若さにして一流の暗殺者だったという。雇い主は僕の父親だ。彼の目論みはまるでわからないけれど目下、僕の欲求を満たすためだけに彼女は働いているように見える(もちろん雑務なんかもやってはいるけれど)。僕を満足させるための存在。それならば、くだらない人間たちをたくさん用意してくれたほうがよかったのに。なんでわざわざ彼女みたいな人間をよこしたのだろう。よけい満たされないで、僕は苛立ちを覚えるばかりだ。
飄々とした様子で欠伸をした彼女はちらと僕を見てから紙を拾い始めた。たぶん彼女は僕が背後にいたことなんて知っていた。それでいて知らない振りをしていたのだ。たぶん彼女は僕の蹴りを避けることなんて容易かった。それでいて受け身をとることなく攻撃を受けたのだ。それが僕の欲求不満の解消になると信じきっているばかりに。彼女はいつだって僕の遊びには付き合うくせして、殺し合いには応じなかった。

「……おまえは本当に鬱陶しい女だね。」
「はあ。それは、なんというか、ありがとうございます?」
「…………、……僕は、おまえが嫌いだよ。」

たっぷりの間を置いて言い放つが彼女にとって僕の嫌味は痛くも痒くもないらしい。適当な返事をしながら資料を拾い上げている。僕の目を見ようとしない。今の今まで、彼女の双眸に僕がきちんと映ったことはない。たぶん彼女はそれが正しいと思ってやっているのだろう。単に僕の憶測にすぎないから真偽なんてわからないけれど、やっぱりそれでもムカついた。
床に這うようにして移動していた手の平を踏み付けてやった。ぐにゃりと柔らかい感触がする。彼女は甚だ驚いたようだったが、あくまで冷静を保ったままでどうかしたのかと訊いてきた。痛いとは言わない。離してくれとも言わない。どうかしたのかと、僕の身を案じる振りばかりしやがる。どうかしているのは、そっちじゃないか。足に精一杯の力を込めてみると、骨が砕けたような気がした。
それでもやっぱり、彼女は調子変わらずどうかしたのかと言うばかり。

「骨、折れたんじゃないの。」
「まあ。おそらくは。しかし手の平の骨くらい…、」
「じゃあ次は、肋骨でも折ってあげようか〜?脚でも腕でも首でも顔でも頭でもいいけどぉ。」
「………。一体どうなさったのです、紅覇様。今日はいささかご様子がおかしいですよ。」
「あはっ。様子がおかしいのはおまえのほうだよ。といっても、おまえは僕と会ったときからずうっとだけどね。」

手の平から足を離すと宣言通りに肋を蹴った。僕自身にたいした力はないけれど、あの細身なら簡単に壊すことができそうだ。ぶくぶくと内のほうから溢れてくる感覚に僕は目を逸らしたまま彼女の肋を踏み付ける。音もなく、容易くそれは折れたようだった。かすかに彼女がうめき声を漏らす。
そこでようやく彼女は、きょとんとした、まるで先程の僕の言葉の意味が理解できないと訴えているような不思議がる顔で僕を見る。きらきらと陽光が反射する綺麗な瞳に、目眩がした。

「私は常に正常でございましたが。」
「だから〜、それがおかしいって言うんだよ。これだけ痛め付けられておいて、なんで泣き言のひとつも言わないの?」
「だって、痛くありませんから。」
「は?…おまえ、バカなの?」
「バカ…なのかもしれませんね。ただ、紅覇様には本気で私を殺す気概などないとわかっているので、痛くなどありませんよ。」

言って彼女は破顔する。思わず僕は後ろによろめいた。笑顔を初めて見るわけでもないのに、なんだか熱気にあてられたようだった。
そもそも、あれだけ僕が人間を殺していることを知っていてどうしてそんなことが言えるのだろう。虚言もいいところだ。おまえなんて殺そうと思えば殺せる。実力だって、そのうちに抜いてやる。反駁するが、彼女は笑ったままだった。まるで子供の戯言をあしらっているかのような所作にむっとするが、それでもこうやって対面している現状に浮ついている自分がいる。もう、どうしようもなかった。

「やっぱり、僕はおまえが嫌いだよ。」

そう呟いても、笑顔が消えることはなかった。


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