どこかで、なにかが割れる音がした。
ゆるりと後方を振り返ると、そこにはただ無骨なコンクリの廊下が伸びているだけ。なにもなく、誰もいない。しかし確かに耳の奥に侵入してきた異音は、鼓膜を揺らした。深々としていたはずの空間を侵すほど確かなものだったはずだ。いや、でも、空耳だったのだろうか…。最近の私は疲れているから、そうかもしれない。気合いを入れ直すように左右に頭を振ってから、私は再び歩き出す。
教室に入ると皆が座して机に向かっていた。ちらりとこちらを見る者はいても、その視線はすぐに逸らされる。その所作は私と関わりたくないという意思表示の表れであることが安易にわかった。素行不良の生徒と仲良くして、いいことはない。みんな口を揃えてそう言い、離れていく。他愛ないものだ。昨日までは普通に会話をしていた友人たちは次の日には目を合わせることすら拒むようになっていた。

椚ヶ丘中学校は最近名を馳せている進学校だ。現理事長がたった一代で今を築き上げた、名門中学校である。そんな完全なる実力主義の学校に所属している私は、もちろんそれなりに成績優秀だった。優秀であれば普通に生活することなど造作ないはずなのだが、私はそうもいかない。というのも、すべてはひとりの男のせいであるということはわかりきっている。
赤羽業という、成績優秀ただし素行不良のクラスメイトがいる。彼とは小さいときから一緒で、何の縁か今はクラスも同じだ。昔から喧嘩が好きな子供だった。頭はいいのだけれど、その明瞭な知識を決して他人のために使おうとはしない。誰かとの繋がりを結ぶためではなく、誰かとの綻びを断ち切ってばかりいた。他人を寄せつけない理由なんて私が知るはずもないが、少し寂しい生き方だなあといつも思う。もちろん口に出したりはしない。

私がクラスから除外される理由は、ただ彼と仲が良いという認識があるせいだ。そりゃあ小学生のころから一緒に帰ったりしていたから、確かに仲は良かったのだけれど。今は違う。中学に入ってからしばらく、カルマは急に私を避けるようになった。話し掛けてもはぐらかし、近づいてもそっぽを向く。家は隣であるはずなのに、校外で顔を合わすことはなくなった。しかし当人たち以外はそんなことをまるで知らない。
担任は私を含めて追い払おうと、事あるごとに赤羽を呼んでこいと私を締め出すのだ。先生は私たちを幼なじみで仲が良く、お互いに素行不良だと信じてやまない。しかし贔屓するのはいつだって頭のいいカルマのほうだ。別にそれが腹立たしいわけじゃあなかったけれど、少し寂しかった。同じ扱いをされてもいいはずなのに、私だけが置いてきぼりにされている。穿たれたようなたまらない虚無感にさいなまれてしまう。

「赤羽を、呼んでこい。」

ほら、まただ。午前中の授業が終了すると同時に担任はそう言った。それに対して私が迷いなく承諾するから、きっとクラスメイトたちも私がカルマと仲が良いと信じきっているのだろう。断ることだってできるけれど、私はそうしなかった。本当は待っているのだ。この空間から逃げ出したい欲と、無条件でカルマに会うことができることを欲する気持ちが、つい首肯を促す。他人の評価よりも、自分の気持ちを優先していた。

お弁当をさげて教室を出る。行き先は屋上だ。彼はいつもそこでサボるか、そうでないときは校外で喧嘩をしている。校外にいたんじゃあ私にはどうしようもない。電話をしても、出てくれやしないのだから。お弁当の包みを握る手に力が入る。悔しいのか悲しいのかよくわからない感情が押し上がってきて今にも咽びそうになる。それを堪えようと肩を強張らせながら、階段を上がる。屋上に近づくにつれて心音は高鳴った。
扉を開けると生温い風が身体を撫でる。燦々と照る太陽に目を細めながらカルマの姿を探すと、白いタイルがしかれた屋上の真ん中で彼は横たわっていた。耳にはイヤフォンをつけている。音楽を聴いているのだろう。こちらに気づく様子はまるでなかった。もしかすると気づいていて、無視しているのかもしれないが。
一歩踏み出してから、名前を呼ぶ。さして大きい声ではない。少し震えた声だ。私は緊張している。自覚するとさらに心臓が鼓動を早めて息が苦しくなった。

「カルマ、」

返事がなかったからもう一度呼んで、さらに一歩近づく。すると目を閉じていた彼はけだるげにこちらに視線を向けた。しかし、目が合うことはない。

「先生が、呼んでる。」
「……………。」
「あの、えっと……、」

聞こえているはずだ。しかし返事はやはりない。いつものことだけれど、胸は締め付けられた。最近ではすっかり彼の声を聞くこともなくなった。それなのに耳の奥には彼の声音がこびりついてはがれない。私の名前を呼ぶ声がふとしたときにこだまして、嗚咽が漏れる。
カルマの生き方を寂しいと思った。だから私が隣にいてあげようと考えた。でもそれは結局、自己満足にすぎなかったのだろう。私がカルマの隣にいたかっただけなのだ。そう、事実をつきつけられる度に悲しくなった。悲しくて、でもどうすることもできないやるせなさにさらに悲泣する。

お弁当を持ってきたのはいいけれど、ここで食べるのは気まずい。かといって教室は殊更だ。拳に力を入れた私は、今にもくずおれてしまいそうな足を踏ん張って笑顔を作る。それだけ、だから。消え入るような声を風に乗せて踵を返した。早くこの苦しみから解放されたいけれど、もう少しカルマと同じ空間にいたい。そんな葛藤がさらに加わった心中は混沌としていた。
「あのさあ、」ふいにカルマの声がする。久しぶりの声。しかも私に向けられたものだ。不機嫌なのか、私が覚えているものよりも幾分低いものではあったけれど、確かに私に投げ掛けてきた言葉。私はそれを取りこぼさないように受け止める。必死だった。苦しかった。嬉しかった。悲しかった。わからなかった。怖かった。様々な感情がないまぜになる。軋むように唸りをあげていた心臓はすでに限界だった。

「ひとり、なの?」
「え?」
「だから、クラスのやつらとは…仲良くしてないのかって。」
「あ、あー…うん。仲良くできてないかな。」
「…………、…オレのせい?」

カルマは上半身を起き上がらせて言う。カルマの、せい。確かにそうだ。でも、それは彼が思うような意味ではない。目を見開いた私は、首肯してすぐに言った。それでいいんだと。カルマと仲良くしていたのは私の意思だし、それによって友人がいなくなることくらい承知していた。小学生のときとは違うと、この中学校に入るときに覚悟はしていた。だから悲しくなんかない。だから、私は、カルマといたい。

どこかで、なにかが割れる音がする。どうっと風が唸るより、ずしんと大地がうねるより、もっと深くて重い音。発信源はわかっていた。私の胸の奥深く、とうてい掴むことなどできない感情が在るところ。カルマに対する感情が、泣いているところ。だから私はその音を逃さないように包み込まなくてはならない。逃がさないように、消えてしまわないように、優しく、優しく。

私の言葉を聞いたカルマは何も言わずに、立ち上がる。泣きそうな面をしていた。私はそれをどうしていいかわからなくて、ただ見つめていた。立ち上がったカルマがこちらに向かってゆっくりと歩いてくるのを見つめるだけ。泣き出しそうな瞳同士は見つめ合っていた。久しぶりに合った目は、太陽の光できらきらと輝いている。

「今まで、ごめんな。」

そう言って彼は私を優しく抱きしめる。心臓はどくりと音をたてた。しかし音は軽く、心地良い。私は返事をせずに、ゆるやかに彼を受け入れた。

どうか、もう、離さないで。


私の心が軋む音 //「僕の知らない世界で」様へ提出



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