どうせなら、生きていたかったよ。



九月。いくら形式上は秋になったといえど、九州はまだまだ茹だるような暑さが続いていた。雨なんて降らせ方を忘れてしまったみたいにここ何日かは夕立すらも降らない快晴が続いていたが、今夜になってようやく久しぶりの雨が降っている。隠遁しちまった僕はこれといってすることがなく、毎日ぐうたらと所在なく過ごしているので天気なんざどうでもいいが、やっぱり暑いのは勘弁してほしい。キッチンでコーヒーを淹れながら暑い暑いとひとりごちてみるが、返事などあるはずもなかった。
理澄がいなくなってから、僕は生活に相当困った。それなりの一般教養はあったけれど、家事なんていうまどろっこしいことは全部妹任せにしていたんだ。悪戦苦闘しないほうが難しく、部屋は日に日に荒れていく。しかしながらそれを見越したかのように現れたのは彼女だった。僕たちが狐さんの下についてからは意図的に遠ざけていた存在だ。隠れ家の場所は教えていたから訪問してくることに違和感はなかったけれど、その時分にやや戸惑った。深夜三時。しかも彼女はずぶ濡れだった。

確かに僕はもうこの世界からいなくなったものとして扱われているのだから、彼女に危険が及ぶこともなくなった。前まで散々危惧していたことが一気に抜け落ちたはずなのに、気分は晴れない。それがどういうわけかはわからなかった。とりあえず彼女を拭いてやらなくちゃあとタオルを取り出して服を脱がせる。彼女がそれをしている間に僕はコーヒーを支度する。掃除の途中だったから果てしなく汚い部屋だったが、彼女は文句ひとつ言わなかった。
わりと小さい僕の服をぴったり着こなせてみせた彼女は僕からカップを受け取ると、ありがとうとはにかんだ。久しぶりに見る笑顔だった。そういえば、会ったの自体が久しぶりなんだ。まだ水滴がぽたぽたと落ちている頭を撫でてぎゅうっと抱きしめてやると、冷たい水滴が僕の肌に直に伝わる。まあ、僕が例のごとく半裸だったから当たり前である。

すこしくすぐったそうにした彼女を離してやると、たおやかな笑みを崩さないまま彼女は僕のあぐらの上にやってきた。さっきまで暑い暑いとぼやいていたくせに、こうやって密着されても不思議と嫌な感じはしない。むしろこのままずうっと触れていたくなるくらいだった。ああ、でも、隠遁したからそれも叶えることができる望みになったのかな。嬉しいような、哀しいような、やるせない気持ちに苦笑する。
まだ湿っていた髪の毛を拭いてやりながら、僕はさながら明日のご飯の献立について話すかのように理澄のことを話した。彼女は黙ったまま聞いてくれた。すると僕のほうが現実を突き付けられたように悲しくなって、話し声はだんだんと覚束なくなる。それが嗚咽のせいで、自分が泣いているのだと気づいたのは、振り返った彼女の双眸に僕の泣き姿が映ったからだった。
僕は本当はずっと誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。自分では割り切ったつもりでいても、やっぱり理澄は僕にとっては掛け替えのない妹だったのだ。失って悲しむのは当たり前のことだと彼女は言った。そうして今度は向こうから僕の身体を抱きしめて、まるで赤子でもあやすみたいにゆっくりと背中を撫でる。手の平から伝わる温かさに、僕は不覚にも余計に泣きそうになった。

「なんか、格好悪いとこ見せちゃったな。」
「ううん。全然、格好悪くなんかないよ。」
「はいはい。僕はどんな姿をしてても格好いい、だろ?」
「うんっ。」

ようやく落ち着いてきて、二言三言と言葉を交わし始める。彼女と会話をするのは気が楽でよかった。まだ微妙に湿気を含む髪に指を絡ませながらコーヒーを飲む。そんなに長い間泣いていたつもりはなかったけど、それはすっかり冷めていた。

開け放している窓の外は久しぶりの雨が降っていた。しかしながら雨が降ったからといって涼しいわけでもなく、むしろ湿度が増して蒸し暑くなる。暑いのが特別苦手というやつじゃなくても、なかなか汗をかかずに堪えるのはきついくらいだ。
そんなむしむしとした中で益体もない会話をしていたときだった。時刻はすでに早朝に切り替わってきている。まあ、曇天のせいで朝日が拝めないから日が明けたという感覚はまるでないんだけれど。そんなとき、おもむろに口を閉ざした彼女は僕の瞳を覗き込んできた。その表情にはどこか憂えが見える。

「どうかしたか?」
「……、ううん。なんでもないよ。」

彼女が何か訊こうとしたのは確かだった。でも、深く追求するのも不躾だろうと口はつぐんでおく。しかしながら僕はこのときのことを、一生後悔するはめとなる。一生といわず、おそらく死んでからもずうっとだ。どうしてあの時訊いてやらなかったのだと、どうしてあの時気づいてやらなかったのだと、自分を呪うしかなかった。後悔しても、後の祭り。

おにーさんがやってきたのはそれからしばらくした月末のことだった。幸いにも彼女は仕事で家を空けていた。何が幸いなのかというと、僕としてはおにーさんみたいな人間に彼女を会わせたくなかったのだ。別に彼女が僕以外に惚れるかもしれないという心配をしているわけではなく(少なからずそんな思いはあったかもしれないけれど)、出来ればおにーさんみたいな人間とは無関係に幸せに過ごしてほしかったから。まあ、いってしまえば、おにーさんに彼女を巻き込んで欲しくなかったのだ。…僕みたいにな。
おにーさんから狐さんたちのことを聞いたときに覚悟は決まっていた。決戦は三日後。今日の夜には彼女は帰ってくるし、それまでにおにーさんは帰るだろう。そしたら、最低限のお別れの挨拶は済ませられる。…お別れの挨拶、ね。自分で言っててどうかと思うが、やっぱりこのときは漠然とそうしなくちゃならないと思っていた。お別れを、しなくちゃならないと。

彼女が帰ってきて真っ先に抱きしめた。いきなりの行動に少し驚いていたみたいだったけれど、僕は構わず抱きしめ続ける。それに対して彼女も小さな手を僕の身体に絡ませる。お互いの心音だけが伝わる静かな空間だった。永遠にこの時が続けばいいのに。そう思えば思うほど僕の胸は苦しくなる。でも、行かなくちゃあならないんだ。
理由は話さなかった。さながらコンビニに出かけてくるよという感じで家を出る。彼女は「さようなら、出夢。」と緩やかな微笑みで手を振っていた。少し元気のないようにも見えたけれど、帰ってきたら精一杯甘やかしてあげよう。そんな風に心躍ることを考えながら京都に走る。そのときの僕にはこれから自分に何が起こるかなんてたいした予感はついちゃいなかった。ただ茫漠と、またおにーさんに巻き込まれたなあぐらいの感覚だったんだ。



澄百合学園の敷地内にある仄暗い体育館。狐さんの案内でそこに入って、最強を吹き飛ばした最終が現れたとき、いるはずのない人物がこっそりと姿を現していた。名前なんて知らない橙色の人類最終と相対していたのは、紛れも無い彼女。舞台のほうでおにーさんが彼女の名前を呼んでいるのが聞こえる。ああ、なんだ、もう知り合ってたんだ。僕の計らいは無意味だったんだ。僕たちは巻き込まれたんじゃなく、自分たちから飛び込んだんだ。

僕たちは、ここで終わるんだ。

「出夢は、私が守るの。だから、やめてよ。」

言い終わるやいなや彼女は橙色に飛び掛かる。もちろん、僕と闇口が二人がかりで歯がたたなかったんだ。戦闘なんてからっきしの彼女が敵うはずもない。橙色は起きているのかどうかもはっきりしない無表情で彼女を見て、ちらと足元にある最強に目をやる。そのうちに僕はどうにか起き上がって、飛び掛かっている彼女に駆け寄った。止めるためじゃあない。しいていうなら、それは、一緒に死ぬために。

僕は本当はわかっていたのかもしれない。僕は今日死ぬんだとわかっていて、わからない振りをしていたんだ。たぶん気づいてしまえば彼女に悟られると思ったから。そうすれば、彼女は悲しむから。僕がすることを止めはしなかっただろうけれど、もしかしたら今の状態みたいなことが起こるんじゃないかと思っていた。だからおにーさんには会わせたくなかったのに。まさかいつのまに知り合ったんだろう。
たぶん、雨に濡れてやってきたあの日からすでに彼女は全部知っていたんだ。だからあの時、何かを言いかけてやめたんだ。あの時、僕がもっとちゃんと聞いてやっていれば。あの時、ぼくがもっとちゃんと気づいてやっていれば。少なくとも彼女だけは生きながらえる手だてはあったかもしれないのに。
でも、もうそんなことはどうだっていいか。

僕と彼女が寄り添って襲い掛かるのを見て、人類最終はやはり表情を変えなかった。でも空気は読めるのか、どちらか一方だけではなくてきちんと両の手で僕たち二人に突きをする。それは見事に脇腹を根こそぎ奪っていった。もはや痛いという感覚はない。宙を舞う間、ちらりと彼女を見ると彼女も僕を見ていた。お互いに目が合ったところで生気なく笑い会う。繋がれた手の平からはもう心音は聴こえない。けれど確かに繋がれたそこは熱かった。
まだ、生きていた。もう、死んでいく。でも、温かかった。

「…出夢、大好き。」
「ああ。僕も、大好きだぜ。」

二人は手を取り合ったまま、体育館の床に横たわった。九州と同じくらい蒸し暑い夜だった。でも、もう暑いと嘆くことはない。最後にぎゅうっと抱きしめてやりたかったけれど、体力なんてあるはずもなかった。だから代わりに手を強く握って言う。彼女もそれに応えるようにたおやかな笑顔を浮かべていた。最悪の結果だが、最愛の結末だ。

僕の人生と彼女の人生は交差して複雑に絡まり合ったまま、解けることなく消えていった。


明日に足りない僕の命へ //「曰はく、」様へ提出



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