あっと間抜けな声が私を呼び止めた。振り返ると私服姿の紀田正臣が少しだけ驚いた顔で足を止めている。急ぎ足の雑踏は道の真ん中で止まる私たちを邪険な目で睨んで通り過ぎていく。居心地が悪い。言葉を選んでいるのか無言であくせくしている紀田くんの手を取って道端に寄る。背後のショーウィンドウには流行りのファッションで着飾ったマネキンが三体立っていた。
久しぶり。そう口火を切った私だったがそれ以外に彼と話すことなどないゆえにまた沈黙。紀田くんは少し気まずそうに苦笑いして俯いた。なんだ、私が悪いみたいじゃあないか。さっきとは打って変わり、重苦しい雰囲気を醸し出す男女に目をくれるものはいない。人間なんて、こんなものか。たいして生きていないくせにそんな憂鬱なことを考えて、空を見上げる。まばらな雲がうっすらとかかっていた。

紀田正臣と私は同じ中学出身だった。そして彼は私の初恋のひとでもある。彼がカラーギャングのリーダーをしていたあの頃、私はまんまとそれに魅せられていた。恋は盲目とはよく言ったものである。一方的な恋愛感情に酔っていた私は紀田くんに彼女がいる事実を知らされたとき堪らない喪失感を感じた。実際、失ったものは私の恋愛成就という華々しい未来だけであるのに、心臓をもぎ取られたような苦しみだったと記憶している。
人間は弱い。打ち砕かれた恋心は私全体を蝕んで、最後には死という決断にいたらす。そういえばあの日も今日のような花曇りだった。立ち入り禁止の屋上に忍び込んだ私はフェンスへと足をかける。飛び降り自殺を選んだ理由はとくになかったが、少し怖かった。飛び降りてから躯を地面に打ち付けるまでの数秒間、私は何を思うのだろうか。押し寄せてくる恐怖に呑まれて逝く感覚はどういったものなんだろうか。フェンスの上に到達したとき、手は予想以上に震えていた。
グラウンドがざわめく。その中には紀田くんもいた。なにか叫んでいる。聴こえない、聞きたくない。手を離そうとしたとき、強い風が吹いた。バランスを崩した私は前ではなく後ろに倒れる。そうして間もなく駆け付けた教員によって取り押さえられ停学をくらった。停学中、紀田くんは毎日私のところにきた。彼は知っていたんだと思う。私が彼を恋い慕っていたことも、失恋を理由に死のうとしたことも。私たちはわりに仲がよかったから。だから負い目を感じていたのだろう。

今思えば自分も彼もずいぶん阿呆だった。結局、卒業まで紀田くんと私の仲は直ることがなかった。正臣と呼んでいたあの頃はもう私の黒歴史として記憶の隅でひっそりと生きている。死なないのは、私がまだ未練がましく彼を想っているからかもしれない。でもこれが恋慕なのか、はたまた別の感情なのかは測りかねた。

「元気そう、だな。」

ふいに紀田くんが口を開く。私は若干びっくりして視線を彼へと移した。けれど紀田くんは自分の足元を見つめたままだ。苦し紛れに紡いだ言葉であることは一目瞭然である。思わずため息をつきそうになって、こんな雰囲気になってしまっているのは元を辿れば私のせいであると思い出して飲み込んだ。私に向けられた言葉とは限らないのに、飛び出た彼の声にぬけぬけと立ち止まったのはこの私である。

「ええ。おかげさまで。紀田くんは…高校はどうしたの?」
「あっはは。まあ、なんつーか…いろいろあってやめちまった。そういうお前こそどうしたんだよ。今はまだ授業時間だろ?サボり?」
「今日はテストだったから放課が早かったの。私がサボるわけないじゃない。」

そう言うと彼はカラカラ笑いながらそれもそうだなあと言う。私は存外真面目な生徒であった。今も昔も。やっとこっちを向いてくれた紀田くんは少しばかり痩せたようだ。また、無茶をしているのか。たしか最近じゃあ前に彼がリーダーをしていたカラーギャングが新しく勢力を伸ばすカラーギャングと紛争を起こすかもしれないとかどうとかいう噂がはびこっている。噂に疎い私が知っているくらいだからそれは池袋にとって相当に大きな問題なんだろう。
その真相は当事者でないとわからないことだし、それに紀田くんが関わっているとも限らない。私は知らなくていいことだ。知ってもどうすることもできないし、したところで彼が私を見てくれる保証はない。と、そんな風に考えている自分がおかしくて、ふっと笑うと紀田くんはキョトンとしていた。まだ幾分かあどけなかった面影を残して大人になろうとしている顔立ち。そして彼自身すべて。いつだって紀田くんは私より何歩か先を歩いている。

彼が私服の理由については上手くはぐらかされてしまい、私はそれを追及することはなく他愛もない話を繰り広げる。何年振りの会話だろうか。まるで中学生に戻ったような感覚は懐かしく、むず痒く、ちょっとだけ恨めしい。それでも私の心の奥はくすぐられてぬくぬくとした感情がのし上がろうとしている。ああ、私って本当に愚かしい人間だ。そっと嘲笑。

「私、そろそろ行かなくちゃ。」
「あ、どっか行く途中だったのか。悪いな呼び止めて。」
「ううん。紀田くんが謝ることじゃないよ。そんなに急ぎじゃあないし、充分に楽しませてもらったから。」

笑いかけると紀田くんも照れたように笑った。もたれ掛かっていたガラスから背中を離すと春風がすうっと吹き抜けて汗ばんだ背中を通る。自分が思っていたより私は緊張していたらしい。馬鹿みたい。参考書のつまったスクールバックを肩にかけると、さっきより軽くなったような錯覚に襲われる。それをごまかすようにぎゅっと紐をにぎった私は彼に手を振って雑踏へと踏み出した。

またな!と紡いだ弾んだ声は喧騒へと溶ける。私はなにも返さず人込みに紛れて姿をくらませた。またな、か。彼はやっぱり酷なひとだ。


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