バスタオルを貸してやるが、彼女は纏わり付いた水滴を拭おうとはしなかった。代わりに顔に押し付けて嗚咽を我慢するように泣きはじめる。泣くのならティッシュを貸してやったのに。わけもわからず呆れながら隣に座ると濡れた肩が少しだけもたれてきた。風邪引くよ、そう言っても静かな部屋に響くのは俺の声と途切れ途切れの嗚咽のみ。返事が返ってくる様子はまるでなかったけれど、俺は不躾に質問を続ける。
虚しい一方通行の会話がどれくらい続いただろう。いまだに泣いている彼女にふとした疑問をぶつける。「何があったの?」ただそれだけの問い掛けだけれどおそらくこれには口を開くだろうな、そんな曖昧な思惑が浮上するのとほぼ同時に彼女の手からタオルが落ちる。ゆっくりと見上げてきた顔はいつもよりぐちゃぐちゃしていたけれど嫌悪を抱くことはなかった。むしろ寸分ばかりの愛しさを感じる。これは人間を愛しているからなのか否か。
「静雄くんがね、言ったの。」
本日はじめて耳にする第一声が大嫌いなやつの名前だったことにはさすがに眉をひそめた。それでも彼女が新羅やドタチン、俺なんかを好きでいるのと同じようにシズちゃんのことも好いていると知っている俺はあえて露骨に嫌がらず、あくまでその苛立ちは胸中に留めておく。床に落ちそうになったタオルを拾い上げて頭を拭いてやると少しくすぐったそうに俯いて、声は続けた。
「あんなノミ蟲のどこがいいんだって。」
「…それだけ?」
「うん、それだけ。私はね、いつもみたいに平然と返したんだけど雨のせいかなあ…妙に憂鬱に考えちゃって。」
タオルで乱雑に撫でるたびに雨特有の匂いにも負けずトリートメントの香りが鼻をくすぐる。彼女は昔から雨が嫌いらしい。知り合った最初のころに、教室の窓から打ち付ける雨を眺めてぼんやりと呟いたことは今でも覚えている。ただ、理由はどんなに頑張っても思いつくことはなかった。似合わない愁いを含んだ横顔が妙に腹立たしくて、綺麗で、雨が降るたびに頭をよぎる。少しムカついた。
臨也の愛は偽りなの?ふいにそう問い掛けられる。せかせかと動かしていた腕は白く華奢な手に掴まれて動作を止める。彼女の瞳はまだ涙が溢れ返っていて、擦ったからか目尻はかすかに赤みを帯びていた。捻ってしまえば簡単に切り離せるその腕を優しく握る。ビクッと反応したのはどうしてだろうか、そんな当たり前すら考えられる余裕がこのときの俺にはなかったのかもしれない。いろんな意味で。
俺は答えなかった。適当な返答が見当たらず、彼女のために考えあぐねることが少なからずしゃくだったため、いつものように漠然とした応えを返す。それに自分でもよくわからない曖昧な境を他人のためにハッキリさせるのも嫌だったから。けれど彼女はやっぱり不服なようだ。どうして、と再び問おうとしてきたから腕を解放してバスタオルを顔に押し当てる。我ながら色気のない黙らせかただなあなんて思ったけれどキスなんかして口を塞いだら俺のほうがもちそうになかった。
もごもごと少ない酸素を肺に送りながら抜け出そうとする彼女の頭を優しく撫でる。目の前にいる女を好きか嫌いかと問われたらおそらくは好きと答えるだろう。それが愛情かどうかは別として、こんな俺と十年も友人を続けてくれているんだ。少なくとも嫌いではないから、やっぱり好きなんだろう。それに彼女は俺のことをみんなと同じくらい好きだと言うが、本当は俺を男として好いている。これは俺の自惚れなんかじゃあなくて誰が見たってわかる周知事項だ。それでも彼女は否定を続けていた。
俺は人間を愛しているから必然的に彼女のことも愛している。だからそう言ってやればよかったんだろうけれど、少し躊躇した。それで結局彼女には我慢ばかりさせてしまって、挙げ句泣かせてしまっている。ああ、ふがいない男だなあなんて自嘲する。波江さんがいたらきっと冷めた目で罵られていたんだろうなあ。
「…臨也、好きだよ。」
「知ってるよ。でも今のは聞かなかったことにしてあげる。」
「どうして?」
「だって、そんなことしたら君の世界の均衡が崩れちゃうだろう?せっかく十年も耐え忍んできたんだから、雨なんかに負けちゃダメだよ。」
撫でる手を止めると、まるで我に返ったみたいに涙を止めた彼女は小さく笑った。そのときの顔が昔の表情とリンクして心臓がはねる。やっぱり全然似合わない綺麗な微笑みだ。俺からバスタオルを奪った彼女は「ありがとう。」そうとだけ呟くと、それ以降喋ることはなく俺のベッドで寝てしまった。ありがとう、なんてこっちの台詞だよ。
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